『春の雨』
眉根を寄せ苦行に耐える人のような表情でルヴァは与えられる全てを受け入れよう
としていた。
「ルヴァ」
汗の浮いた額に貼り着いた前髪を掻きあげてやりながらヴィクトールはその耳元に囁
いた。
「名前を呼んでくれ」
応えようと口を開いた拍子に甘やかに潤った声が零れた。ルヴァの顔が朱に染まる。
唇を噛み締めて左右に首を振る。
「ルヴァ・・・」
「っ・・・・・・!!」
促すようにきつく腰を使われて堪え切れず声が溢れた。
その後は、とめどがなかった。
ぽかり、と深い水底から浮かび上がるように目が覚めた。
白い朝の光が部屋に満ちている。自分の体とシーツの襞の境界が突然意識できるよ
うになる。体を横たえたまま横を見遣ると、既に目覚めていたヴィクトールと目が合っ
た。
必ずヴィクトールはルヴァよりも早く目を覚ましている。というより傍らの人間が
起きる気配で目が覚めてしまうらしい。そして目を開いた瞬間からヴィクトールの意
識は、まるで一時間も前から目覚めていたようにはっきりとしている。そういうとこ
ろが彼の来歴を窺わせる。
一方、ヴィクトールはルヴァが目覚めた瞬間にいつも初めてこの世に生まれ出てき
たような顔をすると言って笑う。珍しいものでも見るようにまじまじと自分の顔を見
つめるので困る、と。
「おはようございます」
掠れた声でルヴァは言った。
ヴィクトールは腕を伸ばしてルヴァの髪を梳くように撫でて笑みを浮かべた。大き
な手の感触と魅力的な笑みに少し見とれる。
「なんだか声が変ですねー」
ルヴァは二、三度咳払いをして怪訝そうに眉を顰めた。
「昨夜散々呼ばせたからな」
「昨夜・・・・?」
不意に思い当たってルヴァは耳まで赤くなった。
高く、低く、か細く、時には悲鳴のように何度も彼の名を呼んだ。溺れそうな感覚
に逞しい肩に必死でしがみついた。きつく結んだ唇をこじ開けられてどうしていいの
か分からなくなった。
「なかなか慣れんな、学者先生は」
揶揄するように言われてますますルヴァは顔を赤らめた。
「はあ、すみません」
別に謝る事ではない、とヴィクトールは口づけでルヴァに伝えた。
「今日は予定は?」
「ええと・・・午後からオリヴィエが訪ねてくると言ってましたが」
「じゃ、そろそろ起きるか」
勢いよく跳ね起きて脱ぎ散らかしたままの衣服を掴むとヴィクトールはバスルームへ
消えた。このまま出動だと言われても平気な様子だ。
自分は、というとベッドから出て立ち上がるのさえ覚束ない。勘の良い友人の前で
はたして平常通りに振る舞えるか不安だった。とりあえず自分の衣服が首元から足先
まですっぽりと被ってしまうスタンドカラーのデザインである事を感謝した。
金の曜日、執務を終えた後ヴィクトールがルヴァの私邸を訪れる、そんなことがこ
こ数週間続いていた。
最初のいきさつは思い出しても顔から火が出る。
あの一件以来二人はなんとはなしに一緒に時間を過すことが多かった。
といっても大概は年少の守護聖やルヴァと親しいオリヴィエやリュミエールが一緒
だった。ティムカや、時折はセイランも訪れた。エルンストがファイルの山を抱えて
やって来ることも稀にあった。
だから傍目には変わった様子はなかっただろう。以前からルヴァの周囲に友人達が
集まるのはよくあることで、その人数が増えたとしても女王試験のおかげで聖地が賑
やかになったせいだと片付けられてしまう程度のことだった。
ヴィクトールはマルセルのお気に入りだったから、もう一人のお気に入りであるル
ヴァの元へと引っ張られてゆくのは自然なことだったし、マルセルと仲の良いティム
カが気後れせずにルヴァの書庫を訪れるために教官仲間のヴィクトールに同行を期待
するのも成り行きだった。リュミエールは二人をよくお茶に誘ってくれたし、賑やか
なことの好きなオリヴィエは既に二人を動員可能なイベント要員に数えていた。
決して意図した訳ではなかったけれど、断わる理由はなかったし、行けばそれなり
に楽しいのも分かっていたから誘われるままに友人達の一人としてルヴァの私邸で、
他の守護聖の私邸で、庭園で、川べりでと頻繁に二人は顔を合わせることになった。
ごく自然に、けれど細心の注意を払って、決して二人きりにはならないように。
間が悪いというのは、こういうことをいうのだろう。その週末、年少組達はルヴァ
の書庫の整理を手伝うという約束をすっぽかして森へ遊びに行ってしまった。
ヴィクトールとティムカは年少の守護聖達がルヴァの私邸の玄関の敷石に白墨で書
いたメッセージに唖然とした。
「守護聖様って・・・」
「うむ・・・」
「しょうがないですねぇ」
出迎えたルヴァはいつものように眉を八の字にして笑った。
「でも、今日は部屋の中で過すのには勿体無いようなお天気ですから、無理もないで
すかね」
よく晴れた空を見上げて肩を竦めたルヴァの顔をティムカはそわそわと窺った。
「あー、召集をかけられてしまっては仕方がありませんねー。ティムカも森へ行って
くるといいですよ」
地面のヘタクソな字のメッセージにはティムカも後で来るようにと御丁寧に地図ま
で書添えられていた。
「でも書庫の整理をなさるんじゃ?」
ティムカの言葉にルヴァは構わないと首を振った。
「私も今日は書庫に閉じ籠っている気分じゃなくなりましたから」
「そうですか。それでは、僕、失礼します」
礼儀正しく一礼して、ティムカは落ち着いた足取りでルヴァの私邸を後にした。が、
門を出た途端全力疾走で駆けてゆくのが植木越しに見えてルヴァとヴィクトールは笑っ
てしまった。
「しっかりしているようで、あれだ」
「やっぱり子供は子供同士が一番なんでしょうねー」
さて、とルヴァはヴィクトールを振り返った。
「すみません、無駄足になってしまいましたね」
「いや、構いませんよ。他に用事があった訳でもありませんから」
「ええと、じゃあ、釣りにでも行きませんか?」
「いや・・・そうですね」
一瞬の逡巡の後、ヴィクトールは頷いた。
「では支度をします。どうぞ中に入っててください」
「いや、ここで待ってますよ。すぐでしょう?」
じゃあ急いで、と言い残しルヴァは邸の中に消えた。
いつも通りに振る舞うルヴァが自然体なのか強いてそうしているのか判断しかねて
ヴィクトールは考え込む。どちらにせよ自分もそうするしかないのだろう。そう考え
ると気が重くなった。だがこのまま帰る気にもなれない。今さらながら自分がルヴァ
に会うためにここに来ているのだと自覚してやりきれなくなった。
ではルヴァはどういうつもりなのだろう。
考えても答は出なかった。どうってことはない。釣りなら以前も一緒にしたことが
ある。自分に言い聞かせヴィクトールは晴れ渡った空を見上げて溜息をひとつ吐き出
した。
ゼフェル言うところの暇で退屈で何の面白みもないルヴァの趣味は、ヴィクトール
にとっては意外に楽しいものだった。 釣りの成果さえ期待しなければ。
風のない暖かな日で、何も考えずぼんやりとするのは悪くはない。ここ最近ヴィク
トールは様々な想いに捕われて周囲の景色を見ることさえしていなかったのに気付い
た。
少しばかり離れたところで釣り糸を垂れている彼の物思いの種である人物の方を見
ると、学者というよりは仙人といった風情で無心で水面を見詰めている。またなにや
らヴィクトールには分からない類いの思索に耽っているのだろう。
驚くほど簡単に、ふい、とルヴァは自分の世界に入り込む。体を抜け殻にして心だ
けがどこか別の世界に行ってしまうようだ。話をしている時でさえ、心の一部をその
世界へ置きざりにしているような、そんな印象を受ける。決して他人を蔑ろにしてい
る訳ではない。むしろ人一倍他人の心配ばかりしている青年の親しみやすい笑顔の向
こうには、しかし静寂をたたえた湖面のような澄んだ距離感が横たわっていて、それ
が時折ヴィクトールの心にひやりと触れる。その感触は彼をひどく切なくさせたがけ
して不快なものではなかった。冷たいという感触が優しさや寛容さにひどく似通って
いることをヴィクトールはルヴァに出会ってから初めて知った。
一度はその捕らえ所のなさに苛立ち無理矢理に暴こうとしてしまったのだけれど。
結局、ヴィクトールは景色など眼にはいらずその人の背中ばかりを見詰めていた。
「ああ、雨」
川面にぽつんと広がった波紋を見詰めてルヴァが呟いた。
すぐに幾つもの波紋が川面を埋め尽した。
「本降りになってきたな」
慌てて二人は釣りの道具をたたみ川べりの樹の下へ駆け込んだ。河原の柔らかな草
を雨が濃い緑に染め変えてゆく。
ヴィクトールは隣に立つルヴァの横顔をちらと見遣った。
先刻道具を片付けながら過ってルヴァの手に触れた時、ルヴァの顔に怯えの色がは
しったのをヴィクトールは見逃さなかった。では、釣りをしながらずっと自分がルヴァ
の方ばかり見ていたことにも気がついているのだろう。ヴィクトールの心の底を苦く
ざらりとしたものが撫でていった。視界がぼやけているな、と思った。眼をしばたい
ていつの間にか霞が出ていることに気がつく。
「さっきまであんなに晴れていたのに、変なお天気ですねー」
ルヴァが暗い空を見上げて言った。いつも通りのゆったりした口調。だがその奥に
先程のような表情を押し隠しているのかと思うとなんだかいじらしく思えた。自身の
内の苦さとは裏腹にルヴァを安心させてやりたいという思いからヴィクトールは努め
て穏やかな声を出した。
「ここのところ晴天続きでしたから丁度いいんじゃないですか」
「あの子達は大丈夫でしょうか」
森へ行ったティムカ達を案じてルヴァが言う。
「こういう時のための隠れ家の一つや二つあるでしょう」
先程の敷石に描かれた暗号めいた地図はきっと彼らの秘密の隠れ家だろう。
「また無茶な遊びをしていなければいいんですけどねー」
「それは、ちょっと心配だな」
でも、考えてみれば自分達も子供の頃は色々と無茶な遊びをやったものだ。
「子をもって知る親心、ですねー」
しみじみと言ったルヴァにヴィクトールは吹き出した。
こんなふうに二人で取り留めもない会話をしながら過す時間が好きだった。できれ
ばずっとこのままでいたいと思うほど。
「春雨みたいだな」
暖かな湿った空気を吸い込んでヴィクトールが呟いた。
「はるさめ、ですか?」
「こう、冬が終わって暖かくなってくる頃に降る雨のことですよ」
植物が芽をだし伸び始めようとする時季に降る恵みの雨のことだとヴィクトールは
説明した。暫し考えてルヴァが、鍋物に入れる方なら知っていると言った。ヴィクトー
ルはそれは知らないと答えた。鍋物と雨の相関性についてルヴァが思索を巡らすあい
だヴィクトールは川面に落ちる雨粒のたてるさらさらとした軽い音を聞いていた。や
がて雨は小止みになり霧雨に変わった。
「そろそろ行きましょうか」
二人は樹の下をでて歩き出した。風にのった細かな雨が二人の顔を撫でていく。
「今時分の雨は不思議と冷たい感じがしないな。濡れて帰るのもかえってわくわくす
る」
「あなたは時々子供みたいなことを言うんですねー」
ルヴァに笑われてヴィクトールはそうか?と首を傾げた。
「砂漠で育ったあなたには分からない感覚かもしれませんね」
少々照れくさくなっての反論。
「ここは一年中こんな気候ですから」
「そうか、そうだったな」
自分にとってはこの気候は春そのものだと感じるのに、とヴィクトールは残念そう
に言った。
「子供の頃に感じた風の匂いや微妙な湿度がいつまでも感覚の下敷きになっているの
は不思議なものだな」
「普段は意識しないだけで視覚以外の感覚も私達には大きな影響を与えているという
ことなんでしょうね」
春の雨、舌の上で転がすようにルヴァが呟いた。
「この先どこかで本物の春の雨に出会っても、きっと私にはそれが分かりますよ。今
降っている雨と同じ雨なんでしょうから」
ルヴァの言葉にヴィクトールは静かに笑った。
春の雨に出会うたびにこの横顔を思い出すだろう。
「それじゃあ、これで」
玄関先まで来てヴィクトールは釣り道具を床に下ろして言った。
「え?」
春の雨の空気に酔っていたルヴァは意外そうにヴィクトールを振り返った。
「どうぞあがっていってください」
「いや、今日はよします」
「でもそんなに濡れているのに、風邪をひいてしまいますよ」
固辞するヴィクトールにルヴァは重ねて言った。 濡れそぼった二人の衣服と髪から
滴った水滴が玄関のタイルの床に模様を描いた。ヴィクトールが困惑したように眉間
に皺を寄せる。
「いえ、今日は」
その表情の意味に気付かずルヴァは招き入れるようにドアを開いた。
「あがってください。ええと、今タオルを持ってきますから--------」
奥へと足を向けた途端、手首を掴んだ強い力に引き戻されルヴァはヴィクトールの
胸にぶつかった。
「いいんですか?」
ヴィクトールが耳元に囁いた。先ほどまでの穏やかさが嘘のような切迫した声だった。
「何を・・・」
「いいんですか?」
低い声。ヴィクトールの言葉の意味を悟ってルヴァははっと身を離した。
「二度としないと言いました・・・!」
「しません。あなたが嫌だと言うなら」
嫌ですか、と囁かれてルヴァは言葉を失う。
向き合って立ったまま、触れているのは手首を握った手だけだ。だのにルヴァは金
縛りにあったように身動き一つできなかった。
「手が触れただけで竦み上がるくせに、どうして俺に会いにくるんですか?」
「それは・・・」
そっとヴィクトールが顔を寄せた。
軽く唇が触れた。
嫌ではなかった。
「女王試験が終わったらあなたは・・・わかっているでしょう?」
「それでも俺はあなたが欲しいんです」
間近に立つ男の熱を感じてルヴァは目眩さえ覚えた。
いつもいつも、会うのが怖かった。それでいて会わずにはいられなかった。他の人
間に紛れるようにして、見詰めていたのはこの男だけだ。
ルヴァは眼を閉じた。
受け入れてしまった後のことが恐ろしい。けれど今、目の前に立っている男をこの
場で失ってしまうのは耐えられなかった。
眼を開く。
言葉では答えなかった。
ルヴァは静かに頭を被うターバンの端をひいた。結び目がとけ、濡れて重くなった
布が足下に落ちた。
白いシャツに袖をとおしてヴィクトールは浴室から現れた。いつもの詰め襟の制服
と違い薄い布地は見事に鍛え上げた肉体をよりはっきりと印象づける。ルヴァはヴィ
クトールのこの寛いだ姿が結構好きだ。
「起きないのか?」
ベッドに入ったままのルヴァにヴィクトールが言った。
「はぁ」
「オリヴィエ様がいらっしゃるんだろう?」
「そうなんですけど・・・」
口籠るルヴァにヴィクトールは怪訝そうな顔を向けた。困ったようなルヴァの顔に
はた、と気付く。
「立てないのか!?」
「あー、いいえー、そこまでではないんです。ただちょっとお見苦しいんじゃないか
なーと・・・」
「痛むのか?ちょっと見せてみろ」
「えええええ!?ちょ、ままま、待ってください・・・!!」
ヴィクトールの言葉にルヴァは真っ赤になってベッドにしがみついた。あんまり必
死で抵抗するのでヴィクトールは諦めて手を離した。
「そんな泣きそうな顔することないだろう」
「勘弁してください、本当に・・・」
半泣きのルヴァにヴィクトールは仕方ないなと呟くと、軽々と彼を抱え上げた。
「------------!!」
「大人しくしてろよ?」
そのまま浴室へ入るとルヴァを湯を張った浴槽の中に下ろした。
「お世話かけます」
いたたまれない様子でルヴァは俯いて小さい声で言った。
「原因は俺だからな」
深々とヴィクトールは溜息をついた。
「大丈夫か?」
「はい。えーと、あの・・・濡れちゃいますよ?」
しゃがみ込んだ姿勢で浴槽の縁に肘をついて心配げに自分を見詰めているヴィクトー
ルをルヴァはなんだか主人の心配をしている犬みたいだなと思った。そんなことを考
えていたらいきなり目尻を舐められた。
「だから声を出せと言ってるんだ」
憮然とした顔でヴィクトールは言った。
「何でも我慢して飲み込んで、それじゃあ分からんだろう。大体あなたは他人の心配
はするくせに自分のことには無頓着すぎる。あの時だって・・・」
ぽかんと聞いているルヴァの様子に焦れてヴィクトールの声は大きくなった。
「俺が大人しく帰ろうとしてるのに、人の気も知らんでしつこくあがれと言って・・・
まったくどういうつもりかと思ったぞ。その前だって・・・そんな風に無防備だか
ら・・・!」
言いながらヴィクトールは自分の腕に顔を埋めた。
「こんな獣の餌食になる・・・」
それきり黙り込んでしまったヴィクトールの肩にルヴァは顎をのせた。ルヴァなりに
ヴィクトールの心中を察してみようとしたのだが口の端が上がってしまってどうも上
手くいかない。その気配に気付いたのかヴィクトールが顔をあげた。
「・・・何笑ってるんだ?」
「いやー、人にお説教されるのは随分久し振りだなーと思って、なんだか新鮮です
ねー」
暢気なルヴァの言葉にヴィクトールは口をぱくぱくさせた。
「人の話を聞いているのか!?」
「はい」
にっこり笑ったルヴァにヴィクトールは頭を抱えた。
「いいんですよ。私もあなたが欲しかったんですから」
「は・・・」
随分間抜けな顔をしたことだろう。だめだ、やっぱりこの人には適わない。
ヴィクトールは苦い顔で立ち上がると、自分を見上げている銀灰色の瞳を閉じさせ
るために屈み込んで軽い口づけを交わした。
眼を閉じていてもルヴァが笑っているのがわかった。
二人にはもうすこしだけ時間がある。
とりあえず今はそれで充分だった。
おわり