『恋の鳥』


 本と埃と、どちらかがここの主人であるに違いない。王立図書館の地下書庫では人間 達は彼らの邪魔にならないように極力静かに大人しく振る舞わねばならない。長年馴染 んできたルヴァはともかく、新参者のヴィクトールなどはよく彼らと衝突する。
 分厚い年鑑を書架から引き出した拍子に降ってきた埃の山にヴィクトールは派手に咳 き込んだ。ルヴァが大丈夫ですか?と問うと、ヴィクトールは涙を目に滲ませつつも大 丈夫です、と笑ってみせた。精悍な顔つきに笑うと親しみやすい笑い皺ができる。 一 見強面だが笑顔はとても魅力的だ。


 ヴィクトールという男をルヴァはまるで種族の違う生物のように思っていた。自分が 考えに考えを重ねて出す結論を一瞬のうちに出してしまう。それはまるで野生動物の勘 のようなもので、現場での作業を多くこなしてきたために身につけた技能というより、 彼という男が生まれ持ってきた性質のようにルヴァには思えた。無論そのような男でな ければ王立派遣軍の士官など勤まるはずはなかったし、あの大災害で犠牲者を最小限に とどめるという奇跡的な、まったく民間人にほとんど犠牲者が出なかったというのは奇 跡に等しかった、偉業は成し遂げられなかっただろう。
 だから、ルヴァは興味を持ちつつある程度の距離を保ってヴィクトールと接してきた。 彼の方もどうやら自分と話すのは調子が狂うらしく、避けるというほどではないが積極 的に話そうという態度を見せないのも確かだった。それでも聖地での生活が数ヶ月も続 くとそれなりに慣れてきたのか、以前ほどヴィクトールがルヴァと話していて困惑する ことはなくなってきたようだった。いや、困惑を楽しむ余裕が出てきたと言った方がい いだろう。
 互いに悪意を抱いていないのならば大概のことは気に障らない。ルヴァはそう思って いるのだが他の人々がルヴァと同じように考えている訳ではないらしく、聖地内でもちょ くちょく諍いが起きる。そのたびにルヴァは右往左往するのだが、それを見てヴィクトー ルは呆れたように言ったものだ。
「好きにさせておけばいいんですよ。やりたいからやっているだけのことなんだから」
 わざわざ諍いを起こしたがる人がいるとは思えない、とルヴァが反論すると
「女王陛下のお膝元で聞くにふさわしい発言ですね」
と苦笑された。
「世界中があなたのような人だったら争いなんかなくなるでしょうね」
とも言われた。皮肉だったのかもしれない。しかしそう言ったヴィクトールの目はなん だか傷ついた優しい動物のようだったのでルヴァは何も言わなかった。結局自分もやり たいからやっていることなのだと結論を出してしまうと、それでいいように思えた。ル ヴァは考え込む質ではあったが考え方は明瞭だった。


 ところで最近ルヴァはその自分とは別の生き物であるヴィクトールと仲がいい。
 以前、一冊の本をここから借り出してからヴィクトールはたびたびこの地下の書庫を 訪れるようになった。いつも一冊ずつ本を借りてゆく。そしてまたその本を返しに訪れ る。
 以前はほとんど人の出入りしないルヴァの専用書庫兼隠れ家だったのだが、ヴィクトー ルは大股で書架の間を歩き回り、よく響く低い声で話し、静かな書庫を彼の存在でいっ ぱいにした。
 そしてルヴァは何よりも本が好きで他人に邪魔されず本を読むためにここを訪れてい たはずが、本などそっちのけで気がつくとヴィクトールの方ばかり見ている。彼の声に 聞き入っている。
 一生の内で今ほど本を読んだことはない、と笑うヴィクトールがここで過す時間をど う思っているのかルヴァには分からない。
「あなたといると、なんだか・・・」
 職員さえ滅多に訪れないのをいいことに勝手に床に敷いた敷布の上に座りルヴァは手 にした本を閉じて自嘲するように小さく笑った。
「なんですか?」
「いえー、ちっとも本を読めないなー、と思って」
ルヴァの言葉に途端にヴィクトールの顔が厳しくなった。
「お邪魔でしたか?」
「い、いいえー」
 ヴィクトールのあまりに急激な表情の変化にルヴァは面喰らう。こういうところが二 重人格と陰口を叩かれるゆえんなのだろう。本人はけじめだというが、気を許したつも りで話していると突然硬い岩盤にぶち当たる。どんな相手に対しても決して礼儀を失し ない、彼の人間としての謙虚さの現れなのだろう。ルヴァはこういった本質的に品位の ある人間には好意を感じる。しかし一方でヴィクトールの頑さを寂しくも思う。
「本は一人でも読めますし、あなたとお話してる方が楽しいですから」
ルヴァの言葉にヴィクトールはほっとしたように笑った。うって変わった柔らかな笑顔。 まったく、二重人格といわれても仕方がない。
「邪魔になるようでしたらはっきり仰って下さい。元々ここはルヴァ様の隠れ家ですか ら」
「えー、元々は公共の施設なんですがねー。私が不法占拠しているだけで…」
 ヴィクトールは手にした本の埃を払い落としページを開いた。その顔をルヴァは見詰 めた。額から右頬にはしる傷跡に自然に目をひかれる。
 以前、ヴィクトールが初めてこの書庫へとやって来た時、ルヴァはあの傷に触れた。
 不思議な時間だった。
 薄暗い地下のせいだったのかもしれない。
 ルヴァはさして親しくもない男の横でおかしなくらいに寛いでいた。自分の隠れ家へ の闖入者に秘密を共有し合う者同士の気安さを感じていた。故郷のあの家の父親の書斎 に忍び込んで本を読みあさっていた頃の事を思い出した。何の力もないただの少年だっ た頃の自分に戻ったような気がしたのだ。
 何の力もなくても、きっと自分はあの傷に触れただろう。


「一度徹底的に掃除をした方がいいんじゃないですか?」
 ヴィクトールの声にルヴァは我に返った。見ると埃に塗れた手をズボンで拭っている。 よほど埃の山に辟易しているのか。徹底的、というのがこの男らしい。
「そうですねぇ・・・」
 否定とも肯定ともつかない返事をしてルヴァは考え込んだ。手を入れなければ書庫自体 傷みは早い。しかし、なんとなくこのままにして置きたいような、そんな気もする。
「人手には困らんでしょう。ここの職員やお子さま達を集めればいい」
「なんだか騒がしくなりそうで・・・」
 先の地の守護聖がまだ少年だったルヴァの手をひいて連れてきてくれたのだ。この地 下の書庫へ。内緒だよ、と念を押して。一人になりたくなったら、ここへ来るといい。 本と降り積もった年月がお前を慰めてくれるだろう、と。
 だからルヴァはこの書庫に手を加えたくはないのだ。
 だが、そんな事をどうやって伝えればいいのだろう。考え倦ねてますます口が重くな るルヴァの返事をヴィクトールは根気よく待っている。ヴィクトールのこういうところ が親切なのか意地が悪いのか時々ルヴァには分からない。どうしてヴィクトールはそん なにじっと自分を見つめるのだろう。
「え?」
 不意に触れた手にルヴァは驚いてヴィクトールを見た。
「埃を被ってますよ」
ヴィクトールが身を屈めてターバンに積もった埃を払ってくれた。
「あ、ああ、すいません、ええとー・・・」
それだけのことにひどく狼狽えてしまった。
「ええと・・・」
「まるであなた自身がここの本みたいですね」
 目が合った。ぼんやりとルヴァは、ああ、この男はこんな色の瞳をしていたっけ、と 考える。鳶色の瞳は日の光の下では金色を帯びてもっと鋭い印象だった。薄暗い書庫で は濃い鳶色の眼差しの強さだけが分かる。
 不意にもぎ離すようにヴィクトールはルヴァから視線を逸らした。そのまま大股で通 路の反対側の書架へと歩いていく。ルヴァは途切れた視線を持て余してヴィクトールを 目で追った。書架の谷間で足を止め深々とヴィクトールが息をついた。こちら側に向け られた横顔の引きつれた傷跡にルヴァの視線は吸い寄せられた。もう一度触れてみたい と思っている自分に気付く。鞣した皮のように滑らかな日に焼けた肌に触れてみたい。
「なにか・・・?」
 ルヴァが訊ねた声は変に掠れて囁くようだ。ぎこちなく微笑んでみたものの、振り返っ たヴィクトールの強い眼差しを受け止めかねてルヴァは俯いた。視界に入るのは自分の 爪先と古びた床板だけだったが、ゆっくりと大股で近づいてくるヴィクトールの足音が 聞こえた。慎重に、まるで軒先にとまった小鳥を捕まえようとするように近づいてくる 足音。
 おかしいな、とルヴァは思う。自分は小鳥ではないのに。捕まえようとするなんて。 飛び立ったりしないし手の中にすっぽりと収まってしまったりしない。自分の鼓動が早 くなっているのを感じる。
 小さな生き物は心音が早い。
 自分は鳥ではない。
 おかしな話だ。
 ゆっくりとした思考がルヴァの頭を巡った。足音は近づいてくる。


 だしぬけに扉が軋みをあげて開いた。
 途端にルヴァの胸の中にいた鳥は羽ばたいて飛び去った。
 戸口に地上から降りてくる階段を背にしてファイルを抱えたエルンストが立っていた。
 おや、とエルンストが意外そうな顔をする。ルヴァは飛び立った鳥のイメージが撒き 散らした羽の中で茫然と立ち尽くした。
 背後でゴツン、と鈍い音がした。見るとヴィクトールが本棚の横木に額を打ちつけて いた。
「失礼します」
 低く言ってヴィクトールは足早にエルンストの横を擦り抜け開いた扉から出ていった。
「どうしたんですか?」
訝しげにエルンストが言った。