『月のうさぎ』
巨大な洞窟を思わせる薄暗い地下室の板敷きの床にじかに座り込んで、いつものご
とく、まったく何時でもどこででもそうなのだ、彼は夢中で本を読んでいた。人の背
丈の倍くらいはありそうな書架に囲まれた一隅、建物の地上に出ている部分に作られ
た明り取りの窓から昼下がりの日射しが埃っぽい空気の中に差し込み、ちょうど彼の
周囲にいびつな金の四角形を作り出している。一日のこの数時間だけ差し込む日の光
は明るすぎず暗すぎず、古びて変色した頁をやわらかく照らしてくれる。彼のお気に
入りの場所の一つだった。
----まるで隠れ家だな。
やわらかな日射しの中の横顔をしばし眺めてヴィクトールは口元を緩めた。
「こんな所にいらっしゃったんですか」
不意に響いた声にはっとした様子でルヴァは本から眼をあげた。
「ああ、いらっしゃい、ヴィクトール」
「こんにちは」
まるで自分の部屋にいるような調子でルヴァはヴィクトールに微笑んだ。実際彼は
この王立図書館地下書庫の主同然だった。ヴィクトールは軽く会釈をするとルヴァの
方へと足を向けた。
「どうしたんですか、こんな所に来るなんて?」
普段は関係者さえもめったに入らない書庫にルヴァ以外の人物がやってくるのは珍
しい。
「何かお探しですか?」
「ええと、セイランに聞かされた、月のうさぎの話を・・・」
「月にうさぎですか・・・?」
少し考え込んでから、ああ、それなら・・・、とルヴァは微笑んだ。笑うとルヴァ
は下がり気味の眉がなおさら下がって、なんだか困ったような顔になる。それを見る
とヴィクトールはなんだか分からないが、やられた、という気分になる。どうにもこ
の人には敵わないような気がするのだ。
「ここの月のことではないでしょう?ずぅっと遠くの銀河にある惑星の伝承でしょう?
あのお餅をついてるうさぎですよね」
それはですねー、そう言って立ち上がってルヴァがよろけた。
「大丈夫ですか!?」
「痛たたた・・・」
「足が痺れたんでしょう」
片腕を取って支えてやる。また長時間我を忘れて夢中になっていたのだろう。
「いや、そうじゃなくてですねー」
ルヴァはきまりが悪そうに答えた。
「一昨日、ゼフェルとマルセル、ランディにつきあって森にいったんですが、いやー、
あの子達の散歩コースというのが実にハードでしてねえ、薮を突き抜けたり、川を飛
び石づたいに渡ったり、果てはとんでもない崖を登らされましてねー、それでー」
ははは、と笑ってルヴァが続けた。
「筋肉痛になってしまったんですよー」
「はぁ?」
「いやー、昨日はなんともなかったんですがねー、一日おいてなるなんてやっぱり歳
なんですかねー」
トントン、と腰をたたいてみせるルヴァに一瞬おいてヴィクトールは吹き出した。
「あー、笑わないでくださいよー」
「失礼、つい。でもあなたが歳なら俺なんて年寄じゃないですか」
「ああ、そうでしたね、あなたの方が年上なんですよね。でも普段から鍛えていらっ
しゃるから」
平気ですよ、そう言ってルヴァはヴィクトールの腕から離れた。そうしていつもに
も増してゆっくりとした動作で書架づたいに歩き出す。
「わたしなんか普段ちっとも動かないから、大変でしたよ−、ほらこんなに蒼痣つっ
くっちゃいました」
袖を捲り上げて見せると、なるほど大小の擦り傷や痣が痛々しく見える。
「ひどいでしょう」
情けなさそうな顔でルヴァが言った。
「あなたも何か運動なさったらいいんですよ」
滅多に晒されることのないルヴァの腕が外見の印象とは違って意外にしっかりして
いるのをヴィクトールは初めて知った。自分の鍛え上げた腕とは全然別の、細くてけ
して無骨な印象は与えないのに華奢にも見えない腕。
「今度一緒にロードワークでもしますか?」
「あなたと一緒にやったら私は三日くらい動けなくなっちゃいますよー」
「ランディ様の崖登りに付き合えたんだったら大丈夫でしょう」
「勘弁してください。死ぬかと思ったんですから」
捲り上げた袖を元に戻し、ルヴァは書庫の一角で立ち止まった。
「この辺に伝承文学の本があるはずなんですけど・・・」
ルヴァが書架を見上げて背表紙を眼で辿る、その横顔をヴィクトールは見詰めた。
鼻筋の通った整った横顔。砂漠の星の民特有の切れ長のアーモンド型の眼。青みを帯
びた濃い色の髪。色素の薄い人種とは違う、東方の磁器を思わせる肌の白さ。ヴィク
トールが聖地へやってきて既に数カ月が経っていたがいまだに守護聖を間近に見るの
は不思議な気がした。砂漠の惑星の出身である彼の風貌もヴィクトールにとっては珍
しいものだった。王立派遣軍の志願兵の中に数人を見たような記憶があったが、ルヴァ
とは随分雰囲気が違っていたように思う。ゆったりとした物言いも彼の故郷のアクセ
ントではなく彼独特のものらしい。
----それはそうか。
皆が皆こんなのんびりしたテンポの惑星なんて・・・とヴィクトールは苦笑する。
きっと自分は三日と暮らせない。それとも案外、ずっと住み着いてしまうだろうか?
この地の守護聖の振りまくおっとりとした空気にいつの間にか親しんでしまっている
ように。
軍人として長年現場での職務に従事してきたヴィクトールには何事に対しても慎重
すぎるほど慎重で、判断を下すまでの時間が長過ぎるルヴァが最初は頼り無いように
思えた。判断することの責任から逃げているような気がしたのだ。だがそれは違った。
判断し解答を出すことの責任の重さを誰よりもよく理解しているからこそ慎重にもな
るのだ。長い時間を掛け、考え抜いた結論には揺るぎがない。今ではルヴァが地の守
護聖として十分以上に責務を果たし、加えて守護聖全体を陰から支える、聡明さと精
神の強さを兼ね備えた人物だと言うことを知っていた。それを表に出さない奥床しさ
と潔さにも敬服している。
「鳥は空に、魚は水に」
「え?」
「蓼食う虫も好きずきと言いますでしょう?」
不意に話し掛けられてヴィクトールは自分がひどく無遠慮にルヴァを見詰めていた
ことに気が付いた。
「だからあなたはロードワークを、私は読書を」
慌てて視線を逸らそうとしたヴィクトールにルヴァはにっこり笑って一冊の本を差し
出した。
「はい、これに載っているはずですよー。銀河系の衛星に関する伝承をまとめた本で
す」
「どうも」
「第三惑星風に言うと、うさぎは月に、ですね」
「対岸の火事は美しい、ってね」
歌うようにセイランは言った。
学芸館のラウンジで朝刊を読んでいたヴィクトールが顔を上げると、正面のソファ
に皮肉屋の同僚が優雅な仕種で腰を下ろすところだった。
「何の話だ?」
「貴方なんか救助のために真っ先に火の中に飛び込んじゃうだろうけど」
「何がだ」
こんなふうにセイランが絡んでくるのはいつものことだ。相手のテンポに巻き込まれ
ないように注意してヴィクトールは聞き返した。
「最近、守護聖様方と仲が良いようだね」
「ああ?お前だってよくゼフェル様やオリヴィエ様と話してるじゃないか」
そうだねぇ、と珍しくセイランは歯切れが悪い。
「そんなもの毎朝よく読んでるよね」
ヴィクトールの手の朝刊を眼で示してセイランは首を竦めた。
「世界の現状を把握しておくのは、軍人としても教官としても重要なことだ」
「活字を読むだけで把握できることなんて、僅かなものさ」
ソファの背に凭れ掛かり溜め息のようにセイランは続けた。
「ここは宇宙の中心なんだぜ?昨日興った文明がほんの数カ月で遺跡だ。女王陛下と
守護聖様方はここですべてを見守っていらっしゃる、か。」
たまんないなぁ、そう言ってセイランは天井を見上げた。
「興味深くはあるか」
こちらに顔を向けた時には既にいつもの皮肉な笑いを浮かべていた。
「月にはうさぎがいるって知ってるかい?」
「は?」
「月で餅をついているんだとさ」
「どうしてお前の話はあちらからこちらへと・・・」
気侭な性格そのものの話振りに生真面目なヴィクトールはついてゆけない。からか
われているようで時々うんざりする。
「そんな顔しないでほしいね。からかっているわけじゃない、全部繋がっている話さ」
そう言ったセイランの顔は、今にも「なに、初歩的な推理だよ」などとどこかの嫌
味な探偵のような事を言い出しそうじゃないか。
「つまり、ここは一生に一度は訪れてみたい場所だけど永遠に暮らすのはごめんだ、っ
てことさ」
違った、彼には彼自身のお得意のフレーズがあったのだ。
だがなんとなくヴィクトールにもセイランの言いたい事が分かるような気がした。
自分は女王候補の教官として聖地にやって来た。試験が終われば二度とここへは来る
ことはない。一方、守護聖達は力が尽きる日まで聖地を出ることはない。おそらく何
百年か何千年かの後まで・・・。一体彼らにとって自分達はどのようにみえているの
か。彼らに比べれば自分達などほんの一瞬に生まれて消えてゆく泡のような存在だろ
う。
「どうしました?」
ルヴァの問いにヴィクトールは我に返った。怪訝そうにルヴァが覗き込んでいる。
「いえ、ちょっと・・・」
窓から差す日の光もだいぶ細くなって地下の書庫はすでに薄暗い。二人して床に座
り込んで頁を繰っていた。いつもは行儀の良いルヴァが胡座をかくのを初めて見た。
「あなたが守護聖でなかったらこうしてお会いすることもなかったのかと思うと、な
んだか不思議な気がして」
「そうですね、あなたが生まれたのは私が生まれたずうっと後なのに、今はあなたの
方が年上なんですよね。なんだか面白いですねー」
二人はお互いの顔を見合って笑った。
「最初ね、あなたが聖地へいらっしゃった時、私、なんだか緊張してしまいまして
ねー。だって自分より年上の方にお会いするのはすごく久し振りだったんです。もう
随分長い間、ここでは最年長でしたから」
とても、久し振りなんですよ、そう言ったルヴァはいつも謁見の間や執務室で見る
地の守護聖ではなくかつての自分の部下達とかわらない年若い青年に見えた。
「・・・日が陰ってきたせいかな、ここでこうして見るあなたは別人のようだ」
ヴィクトールの言葉にルヴァも眼を細めて不思議なものを見るような顔をする。
「そう、ですね」
いつもよりも相手の存在が確かに感じられるような気がして、自分の呼吸と同じく
らい相手の呼吸が近くに聞こえる。
「あなたがそんな風に床に座って本を読むのを初めて見ました。こんな所を秘密の隠
れ家にしているのも」
「あ−、お行儀が悪く見えちゃいます?でも私の故郷では男性はこうやって座るもの
なんですよ。文化の違いってやつですね。聖地では一人の時、こういう隠れ家にいる
時だけは自由にできますから」
クスリ、とルヴァが笑う。
「前任の守護聖もここを隠れ家にしていたらしいんですよー。初めてここへ踏み込ん
だ時はまさに宝の山だと思ったものです。海賊の財宝を発見したみたいにドキドキし
ました」
少年時代の彼が眼に浮かぶ。きっと今みたいに無邪気に眼を輝かせてこの本の洞窟
を探検していたにちがいない。
「俺も近所の悪ガキ達と一緒に秘密基地を作ったりしたっけな。ちゃんと合い言葉や
暗号まで作って」
「ガキ大将だったんじゃないですか?」
「いえ、そんなんじゃありません。隊長でした」
「隊長?」
「そう、隊長」
「その頃から隊長だったんですかー」
ルヴァが珍しく声を上げて笑った。
「憧れていましたから、王立派遣軍に」
そう言い無意識に額の傷をなぞったヴィクトールを見てルヴァは笑みを消した。ヴィ
クトールもルヴァの表情で自分の手の動きを意識した。
「いや、これは癖で・・・」
手を下ろし繕うように言ったが言葉だけが浮いてしまう。
いつも自分の背負っているものの重みが知らずに相手に伝わってしまわないようヴィ
クトールは注意していた。あんなことは聞いて愉しいことではない。徒に他人に重苦
しい思いをさせるのは嫌だった。
「すみません・・・」
なのに、いつの間にか傷をなぞるのが癖になっていた。自分の弱さがそうさせるの
だと思う。守護聖であるルヴァがあの事件を気にしていないはずはないのに。日の光
はもう随分弱い。
「顔をあげてください」
自分を恥じて俯いたヴィクトールにルヴァは静かに言った。
厳かな声音にひかれて眼をあげる。間近にルヴァの瞳があった。雄弁で静かな瞳。
とても遠くて深い、気が遠くなりそうなほど。胸を突かれるような思いがした。こん
な瞳は見たことがない。
「とても優しい傷です。勇敢で優しい」
額から目蓋、右頬へとルヴァの指先が触れた。
眼を閉じてヴィクトールはその羽のようなやわらかな感触を受け入れた。目蓋の裏
に漣のような光が広がった。眼を灼くようなきつい輝きではなく、遠く深くから微か
に瞬く静かな光。
ルヴァのサクリアの光だ。そう感じた。
「月のうさぎはね、人の手の届かない月の世界で暢気に餅なんかついているんだよ」
セイランが言う。いつものように皮肉な調子で。
「知っているさ」
執務室の机で手にした黒革の分厚い本を示してヴィクトールが答える。
「へえ、面白い本を持っているね」
「洞窟のキャプテンクックに借りたんだ」
「へえ?」
目を開くとルヴァの瞳があった。銀灰色に煙った、宇宙の深淵を覗き込む知恵の瞳。
この聖地からは永遠が垣間見える。守護聖として過ごした永い時がそうさせたのか、
彼の故郷の砂漠がこんな瞳を育てたのか。
全てを受け入れ黙する瞳。公平で公正で、そして遠い。
右頬の傷をなぞり離れようとしたルヴァの指先を捉えてヴィクトールはその肩に額
を押し付けた。目蓋の奥に残る光を少しでも長く見ていたかった。清々と凍てつくほ
どに澄みきった星空に似ていた。
ただ、受け入れられている。
その感覚がヴィクトールを満たした。
すっかり日が落ち、地下の書庫が闇に被われるまでそうやってヴィクトールはルヴァ
の瞳の深い虚空に身を浸していた。
「お月さん、か」
ヴィクトールは呟く。自分とは異なる時間軸の中にルヴァは住んでいた。不思議な人。
目の前にいて、目の前にいない。 時の輪を離れ、永遠の虚空の中で出会う人々。それ
でもあの書庫で確かにルヴァの存在は自分に触れたのだ。
「俺達がこの聖地に来たのも何か意味があるんだろう」
少なくとも自分はもうこの傷を恥じたりはしないだろう。
ヴィクトールの言葉にふん、とセイランが鼻を鳴らした。
「彼の岸と此の岸、灼かれているのは一体どちらかな」
セイランが机に凭れ掛かりしなやかな背中を見せて言った。
「どっちでもいいか。平穏すぎる世界にはうんざりだ」
爪を研げないからね。
「おまえらしい」
性根の悪い猫の呟きが聞こえたような気がしてヴィクトールは苦笑した。
おわり