『蝶の墓守』


 ひらひらと鱗粉を煌めかせて羽ばたく華奢な生物を追って、ふわりと白い捕虫網が視 界をよぎった。
 奇妙な光景がここ数日の聖地では見られた。グレイとくすんだブルーの制服の研究員 達が捕虫網を片手に庭園や森の中を駆け回っている。
「エルンストー、そっちへ行きましたよー」
 細くてすぐにひっくり返るくせに不思議と神経質に聞こえない声は間延びした口調の せいか。セイランは自室の窓から研究員達に混じって外を走り回るモスグリーンの長衣 の人物のおぼつかない足下と不器用な網捌きを見下ろして小さく吐息を吐いた。
----転ぶな・・・
 そう思った途端、律儀に地の守護聖は裾に足を取られて転んだ。まるで一昔前の喜劇 映画みたいだ。
「大丈夫ですか、ルヴァ様?!」
「私に構わず追って下さい!あれは羽の斑点が少々違っています。変異体ですよー!」
「は、では失礼!」
 眼鏡を掛け直して主任研究員が捕虫網を振り立てて駆けて行く。幾人もの大人達が一 匹の蝶に翻弄されて聖地のあちこちを走り回っている様はなかなか馬鹿馬鹿しい見せ物 だ。セイランはまた一つ溜息をつくと窓辺から離れた。


 無論彼らは遊んでいるわけではない。
 新しい女王を迎え、まるごと空間移転したこの宇宙にどのような変化が現れているか、 その調査の一環なのだそうだ。昆虫は順応力が高く環境の変化に敏感に反応して次々と 亜種を生み出す。以前に採取されたものと現在採取されるものとを比較することによっ て環境の変化を知ろうという試みだ。
 女王陛下が宇宙中から集めた花々を二人の女王候補と新しく生まれた宇宙へ贈る際、 その植生を調査したエルンストが以前のこの宇宙では見られなかった花が幾らか混じっ ているのに気がついたのが事の発端らしい。エルンストが女王陛下の依頼で花探しをし た時に環境の安定しているはずの聖地でも幾つかの変異種が見られたのだという。植物 の方は既にエルンストが花探しのついでに調査したという話だ。ついででそんな気の遠 くなるような作業を片付けたエルンストの気が知れないが、それにいたく関心を示し植 物の調査を手助けしただけでなく昆虫にまで調査の枠を広げようと言い出した地の守護 聖には頭が下がる。ご苦労様。


 ラウンジへ行くと同僚二人が朝食の後のお茶を飲んでいるところだった。年下の方は ミルクティー、年上の方はブラックのコーヒーだ。今日は日の曜日だから二人ともいつ もよりゆっくりしている。
「飯は食ったのか?」
 年上の方が新聞から顔を上げて訊ねた。
「朝は食欲がないんです」
 お互い干渉しないことがここでの生活上の取り決めだったから彼はそれきり口を噤ん だ。その手から新聞の一面だけを剥ぎ取ってセイランは目を通した。
「人が読んでるものを・・・」
 ヴィクトールはぶつぶつと言ったがいつものこととさして気にはしない。セイランは 一面を読むでもなく見出しだけを眺めて裏に返し、連載のマンガを読んだ。実は毎日読 んでいる。取り立てて面白くもなくつまらないと言うほどの内容もないところがいい。 外で繰り広げられている眼鏡男と民族主義的コスチュームの共演よりはずっと上品だ。  鋭敏すぎる感性を持つこの芸術家にはどうも捻りが利きすぎて360度捻って返って きた上にもう7度捻ってしまったような所があって、時々よく分からない感覚を発揮す る。勿論、彼の感じるユーモアは精神の教官が第一面から隈無く活字を読み尽くした上 で辿り着いた最終面に他愛のない連載マンガを見つけて微かに頬を緩めるのとはその性 質において宇宙空間を横切って戻ってこられるほどの隔たりがある。
 窓へ目をやると外ではついに体裁を捨てたらしく長衣の裾を横でたくし上げて帯に挟 み込んだ地の守護聖が先刻よりはいくらか身軽に白い網を振るっていた。
「へえ、下はズボンだったのか」
 初めて見た。 深い緑の長衣の下は裾を絞った形のゆったりとした民族風のズボンだっ た。いつも灰色の革靴の爪先しか見たことがなかったから、その靴がローカットのブー ツなのさえ知らなかった。
「ああ、本当だ。初めて知りました」
 ティムカも滅多に見られない地の守護聖の姿を珍しそうに見ている。
「後でマルセル様達が迎えに来るんです」
 年少組の守護聖達と一緒に昆虫採集の手伝いをするのだとティムカは言った。
「僕たちは森へ行くんです。カブトムシとかクワガタとか採ろうって」
「カブトムシなら夜のうちに櫟の木に蜜を塗っておいて明け方に採りに行くのがいいん だぞ」
「そうなんですか?」
「昼間も採れないことはないだろうが、その方が簡単に沢山採れるんだ」
「へえ!知りませんでした。マルセル様達にも教えてあげよう」
 常春の聖地に果たしてカブトムシなんかいるのだろうか?セイランは首を傾げたが黙っ ていた。いまだにこの聖地の環境がどうなっているのか彼には把握できない。


 頭の良い人間には二種類ある。
 一を聞いて十を知る、頭の回転の速い即断即決型と、記憶力と分析力の優れた塾考型 と。
 ルヴァは明らかに後者である。どちらかというと前者であるセイランは彼が苦手だ。
 必要以上にまどろっこしい物言いも、イエス、ノーをはっきりと言わない優柔不断さ も、そしてお人好しを絵に描いたようなあの笑顔も、全てが勘に障る。時々はその知識 の豊富さに愉快な気持ちになるけれども、概ね退屈な男だ。教え子の鋼の守護聖の方が ずっと気が利いている。
 防腐剤の匂いがたちこめる部屋の中央に置かれたテーブルで彼はなにやら作業中のよ うだった。
「ああ、いらっしゃい」
 ルヴァはセイランに気がつくとゆったりと微笑んで彼を迎えた。
 部屋の壁や棚に並べられたガラス蓋の木箱には様々な昆虫が背をピンで留められて、 細工物のように飾られている。
「すごいな・・・」
 セイランはその膨大な数に圧倒されて嘆息した。王立研究院の奥にこんな部屋があっ たなんて知らなかった。
「これでもほんの一部なんですよ」
 ルヴァは手を止めセイランを見上げた。
「虫の死骸の山だ」
「あー、まあ、平たく言うとそうですね」
セイランの言葉に少し困ったような顔で微笑むとルヴァは席を立ち窓辺に追いやられて いるポットを手に取った。
「ええと、お茶、お飲みになりますか?」
 ルヴァは自分の湯飲みの冷え切った出涸らしを備え付けの流しに捨てると急須に新し い茶葉を入れた。
「いつからここに籠もっているんですか?」
「ええと、昨日は一度昼間に邸に戻ったんですが・・・」
 愛用のロングベストは傍らの椅子の背にかけられルヴァは些か着崩れた長衣の裾を引 きずっている。元々色の白い顔は寝不足のために紙のように色をなくしている。
 そこまで夢中になってやることだろうか?
 セイランは机の上に広げられた何冊もの図鑑やノート類と三角紙に包まれた蝶や蛾を 見下ろした。ページの千切れかかった古いノートは一体いつ誰が作ったものなのか、黄 ばんだページには癖の強い細かな文字がびっしりと並んでいる。
「これは何?」
 奇妙な形の板で出来た器具を見つけてセイランは訊ねた。細長くて平べったい箱のよ うなものだが蓋に当たる部分の中心に縦に溝がある。
「ああ、これはですねー、展翅板といって------」
ルヴァは傍らの棚から同じものを出してきてセイランに見せた。セイランが手に取った ものと違うのはその板には4匹の蝶がピンで留められていることだ。中心の溝に丁度胴 体を納めるようにして胸を針で貫かれ、両側の細長い板に白いパラフィン紙のテープと ピンで羽を広げた姿で留められている。
「こうして羽の形を整えて乾燥させるんですよ。放っておくと羽がきちんと広がらない まま硬直してしまいますからね」
 机の上でパタパタと三角紙の中で蝶が羽ばたいた。
「生きてるね」
「ええ、気絶しているだけですから」
 ルヴァは三角紙の上から蝶の胸を摘むと軽く押さえた。蝶はまた大人しくなる。
「こうして胸を押さえてやると気絶してしまうんです。 捕まえた蝶が暴れて痛まない ようにね」
「生きたまま針で刺してしまうの?」
 ルヴァの細い指先に摘まれた蝶を見つめてセイランは言った。そうですよー、少しか わいそうですかねぇ、ルヴァはいつも通りの穏やかな表情で言った。
「これ、見て下さい」
 ルヴァが傍らの棚からもう一つの展翅板を取るとセイランに差し出した。瑠璃色に光 る黒い羽の大きな蝶が三匹磔にされている。
「ミヤマカラスアゲハの一種です」
「ずいぶん綺麗な蝶だね」
「ええ、これが日の光を受けて飛びまわる姿は本当に綺麗で・・・」
 でもね、ルヴァはセイランにもっと近づくように促すと自分もその蝶の留められた展 翅板の中を覗き込んだ。
「これ・・・?」
「卵です」
 蝶の黒くて太い腹の先端が当たる板上に微かに黄味を帯びた半透明の微少な粒が積もっ ていた。
「展翅板の上で産卵したんです。針に胸を刺し貫かれながら・・・すごい生命力でしょ う?」
  無表情、いや、むしろ楽しげに蝶を見つめている傍らの青年の表情に少しばかりゾク ゾクするものを感じながらセイランは蝶の頭や太い腹を凝視した。間近で見ると黒い 滑らかな毛に包まれた蝶の体は美しいというよりグロテスクだ。
「悪趣味なものを見せるね」
 セイランの言葉におや、とルヴァが微かに笑った。
「生命の神秘ですよ。こういうの、お好きなんじゃないかと思いましたが」
「興味深いですよ」
 ルヴァの顔を薄い唇が酷薄そうだと、そういえば以前思ったことがある。そっとセイ ランは展翅板に留められた蝶の胸を指先で撫でてみた。既に死んで堅くなった感触が作 り物めいて感じられた。
「この卵、どうするの?」
「種類によって幼虫が食べる植物は決まっていますから、食性にあった植物の上に置い てやれば育つと思います」
「孵化したらまた見せてください」
「ええ」
 にっこりと微笑んだ青年のくすんだ瞳は故郷の霧のように底を見せない。不意に彼に とっては自分も一匹の蝶のような存在に過ぎないのではないかという考えが頭を過ぎっ た。何千年もこの聖地にあってあらゆる生命、星々の生き死を見つめ続けてきた彼にとっ てはそうであっても不思議はない。思えば奇妙な場所に自分は今、立っているものだ。
「ああ、お茶を入れたのをすっかり忘れていましたねー、どうぞ、座って下さい」
 ルヴァに促されてセイランは書物に埋もれた机に辛うじてスペースを作って椅子に落 ち着いた。温くなったお茶に口をつける。東方の香りの強い茶だった。
「人間にも変異体が出たらこうやって標本にしたりするんですか?」
「まさか!・・・ああ、でもそれなりの調査はするんじゃないでしょうか。死後に献体 して貰えれば標本にもなりますね。プラスティネーションとか、今は色々な技術があり ますから」
「プラスティネーションっていうのは?」
「ええ、と、死体に液体樹脂を染み込ませて保存する技術です。この処置を施すと形を 崩さずに数ミリ単位の薄さで人体を輪切りにする事ができるんですよ」
「ふうん」
 今、この場で自分たちは「残酷」という言葉の意味を正しく言うことができるだろう か?価値観のぐらつく心地よい困惑にセイランは知らず笑みを零した。
 ナフタリンときつい茶の香りと昆虫達の独特の死臭に包まれた部屋でパラフィン紙に 包まれて微かに羽を振るわせる蝶の羽音を聞いているとなんだかひどくエロチックな気 分になる。傍らの青ざめた瞼に疲労の影を見せる青年の顔はセイランの趣味に適ってい た。
「いつもそんな風ならいいのに」
セイランの言葉にルヴァは応えない。
 ルヴァは口を噤んだ暫しの沈黙の後、連日の疲れからかゆっくりと船を漕ぎだした。 ぐらつく頭をそっと自分の方へ引き寄せるとルヴァは一瞬眼を醒ましたがすぐにまた眠 りに引きずり込まれるようにセイランの胸に頭を持たせ掛けてきた。
 そうしてセイランは夥しい虫達の死骸に見守られながらじっくりと時間を掛けて血の 色をなくした滑らかな象牙色の頬や形のいい眉を愛でることができた。自分を蝶にたと える酔狂な男や芸術愛好家もいたけれど、一匹の蝶に満たない存在の自分が腕の中に残 酷な神に似た男を抱いているのはなかなか楽しい状況ではないか。
 セイランの胸の中でゆっくりと言葉達が新しい意味をもって物語を紡ぎ出す。
「蝶を殺す男の詩だ」
 満足げにセイランは呟いた。


おわり

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