「あけがらす」
その夜関口はどうにも眠れずにいた。
夜、というのはもはや正しくない。空はまだ闇に覆われているが、時刻は既に
朝に近いはずだ。きっともうじき、空も白み始める頃合。
昨夜、布団に入って以来、ごろごろと寝返りをうち続けるのにも疲れた関口は
ようやく、もそり、と起きあがった。
元々、寝穢いタチである。鳥口とまではいかないが、朦朧することと眠ること
ならば、どんなに時間があっても困らないはずなのであるが。今夜の不眠は、た
だ単に日頃の不規則な生活のツケなのだ。
ここのところ、関口は仕事らしい仕事もしていない。いや、仕事自体はある。
が、要するに「気が乗らない」などという実に曖昧で傲慢な理由で、〆切に至る
までの日を無為に過ごしているのだ。自分でも、こんなことではいけない、と思
いつつ。
で、仕事をせずに何をしているかといえば、本を読んだり眠ってみたり。昼寝
をすれば夜はどうしても宵っぱりになる。宵っぱりをすれば朝寝坊する。朝寝坊
だって多少は無理をして起きているわけで、そうするとまた昼寝をしてしまう。
そんな悪循環を繰り返して、昨日などは朝10時頃起床してものの1時間もしな
いうちに昼寝にとりかかり、目を醒ましてみると日が暮れかかっていた。全く、
いいご身分、というヤツである。
それで結局眠れなくなり───今、自分の机について、ぼんやりとしている関
口が居るわけだった。
いつでも書けるように、といえば聞こえはいいが、これでも一応は仕事をして
いるのだというポーズのごとく、机の上にはまっさらな原稿用紙が広げられてい
る。傍らに置いた万年筆を手にもって、少々の間、もてあそぶ。今、書く気など
微塵も無い。
そのまましばらく朦朧と過ごして───思いついたのは、散歩、であった。
こんな明け方出歩く馬鹿などそういまい、とは関口だとて分かっている。だ
が、思いついてしまうと、それはなかなか良い案であるかに思われた。
ただここで朦朧していても眠れはしない。原稿を書く気にもなれない。煙草は
吸いたいが、そうやってごそごそとしているうちに雪絵を起こしてしまうだろ
う。それならいっそ、散歩にしよう、と。
そうしてその辺にあった衣服で身支度をして、関口はそうっと玄関から出た。
外の空気はひんやりとしていた。
既に季節は秋である。残暑のせいで昼間はそうも感じはしないが、この静か
な、湿ったような清々しい空気の匂いは、まさしく秋の匂いであった。
彼方の空がほんのりと白んでいる。
散歩に「あて」など無くて当たり前ではあるが、関口はそれこそあてどなく歩
き始めた。
我が家の軒先。隣家の板塀の節穴。その少し先の家の桜の木には、夏中、毛虫
がたかって大変だったそうだ。その隣の隣の家では、雨戸を閉めきった軒先に風
鈴が見えている。風はある。音がしないところを見ると、壊れているのか。なに
かつかえてでもいるのか。
普段から見知っている町並みなはずでも、夜明け前、人々が寝静まった状態だ
と違和感がある。
一人、歩いている関口の足音だけが路地に響くのが少し寂しく、少し面白くも
ある。
そうやってどのくらい歩いたであろうか。
いい加減、戻ろうかと思い始めた頃になって、関口は自分の『足』が慣れた道
を辿っているのを知った。
角にある煙草屋を曲がって、その二つ先の路地を曲がれば───えんえんと続
く油土塀が見えるのだ。
その坂は『眩暈坂』──その先に、彼の友人が住む。いや、いまは『眠って』
いる時分か。
一度立ち止まって躊躇った関口だったが、結局、このまま自分の足に任せるこ
とにした。
だらだらと続く坂の両側、土塀の内側は墓だと知ってはいるが、今夜に限って
はそれも別に不気味でもなかった。空が白みつつあるせいもあるだろうが、白茶
けた土塀の色のせいか坂は不思議と明るくて、関口は常よりもすんなりとその坂
を登り切った。
ひたひた、と自分の跫音だけをさせて坂の上の町並を歩いて行くと、古びた蕎
麦屋の隣に地味な古書店が在る。
京極堂。
雨曝しになった扁額には、上手いのか下手なのか判別しかねる字でそう書かれ
てある。当然、店は閉まっていた。
友人の手になるその文字をしばしその場で眺めてから、関口は引き返さずに更
にその先へと歩き出した。
今度はちゃんと目的がある。というよりもたった今、思いついたのだ。
関口はそこからは殊更ゆっくりと歩いた。
暗い森。ここだけは夜が明けないのではないかと思われるほどの暗さはだが、
静寂に包まれているせいか、怖くはない。むしろ、神聖な気すらする。
が、その時、微かに音がした。
関口の跫音以外に、いやに規則的で、何か軽い、葉擦れのような。
「…………」
その音は、関口が歩を進めるたびに確かになり───神社へと続く石段の下に
立った時点で、かなり明瞭なものとなった。
それは間違いなく、箒の音だ。
明け始めた半端な闇の中、石段の上の鳥居目指して、一段一段、踏みしめるよ
うに関口は登る。少しばかりの後ろめたさと期待と気恥ずかしさを胸に秘めつ
つ。
登り切った先に在ったのは、晴明桔梗を染め抜いた提灯のぼんやりと滲んだ灯
りと、友人の、見慣れたシルエットだった。そのシルエットがゆっくりと振り返
る。
落ち着いた色の着流し姿が、竹箒を手に、いつものあまりな仏頂面でなく──
少しばかり驚いた貌をした。
その一瞬、時が止まった。
「いい心がけじゃないか、関口君。こんな朝早くから」
片方の眉を吊り上げ気味にそう云うと、京極堂は箒を持って拝殿の裏へとすた
すたと歩いて行ってしまった。
そもそも彼が神主らしいことをここでしている姿にお目にかかったことの無い
関口にしてみれば、今ついさっきの京極堂の姿はつまり『お務め』中の姿なので
あり、実を云えばもう少し眺めていたかったのだが。当の京極堂にしてみれば、
それはそれで照れ臭いのかもしれない、という想像もついた。京極堂の後を追う
ように、関口は拝殿の前まで来た。
案の定、戻って来た京極堂は手ぶらになっていた。箒を仕舞って来たのだろ
う。
「なんだ、ちゃんと神主の仕事もしてるんじゃないか。初めて見たよ」
「それは君が知らないだけだろう」
「それは、…そうだけど」
そっけないことこの上ない京極堂の返事だが、それもいつものことである。
拝殿の前に立つと、賽銭箱の向こう、僅かに開いた扉の向こうに灯りが揺れて
いるのが見えた。
ぼんやりとその灯りを見ていると、京極堂が横に並んで立ったのが分かった。
「何をしに来たんだい。こんな時間に」
視線は感じなかった。だから関口もそのままで答える。
「うん、ちょっと。…散歩だ」
「散歩?こんな時間に君がかい?」
寝穢い君がねぇ、と続けられた京極堂の言葉に、それは酷いよ、と苦笑しつつ
も関口には否定など出来なかった。何故ならその時、関口は不用意にも大きな欠
伸を洩らしてしまったばかりだったからだ。
本当に急に何故、と思うほどにいきなり眠気はやってきた。それは、この『散
歩』のせいなのか、拝殿の中の暖かそうな灯りのせいなのか、隣に立つ友人のせ
いなのかは判別つかなかったのだが、ひとつだけ確かなのは、今から歩いて家ま
で帰るのがすっかり億劫になってしまったことだった。
そしてもう一度、欠伸を噛み殺す。
立て続けの欠伸のせいか、景色の輪郭がわずかにぼやける。どうしたものか
な、と思って見上げた京極堂の、いつの間にか関口に向けられていた顔もぼやけ
ていた。
京極堂は暫し黙って関口の顔を見つめていたが、やがて『困ったな』と呟く
と、眉間に皺を刻んだまま少し微笑う。
「徹夜で原稿、という訳でもないんだろう、君の場合」
「………うん。…あ、まぁ…」
正直に頷いてしまってから関口は少々取り繕おうとしたのだが、すぐにどうで
もよくなってしまった。それは眠気のせいもあったが、目の前に立つ京極堂の少
しばかり眇められた眼差しのせいであったかもしれない。
「賽銭ぐらいは払うつもりだろうね」
「え?」
「そもそも氏子でも無い君を神殿に上げるわけにもいかないのだが、いまにも眠
りそうな顔をしている君をこのまま追い返して途中で行き倒れられても僕の寝覚
めが悪い。かと云って家に連れて帰っては千鶴子も迷惑だ。だから賽銭くらい出
したまえ」
話の筋についていけずに、賽銭?、と関口が聞き返すと、分からない男だな、
と京極堂は呆れたように溜息をつく。自分が『分からない男』なのは関口自身
重々承知しているし、そうでなくとも今は眠気で頭もまわらない。
ただ、賽銭、というのは単語としては分かっているので、取り敢えずズボンの
ポケットなどを探って見たのだが、生憎、小銭すら持ち合わせていなかった。
無いよ、と困った顔をして告げると、再び京極堂に溜息をつかれてしまい関口
は尚更に困った気分になってしまった。
帰るしかないんだろうなぁ、と思いつつ京極堂の顔を見上げていると、───
不意に、手首を掴まれた。
京極堂の手は、少しばかりひんやりとしていた。
掴まれた手首と京極堂の顔を見比べる暇も無く。
「本当に君は…───いや。おいで」
「…?…京極堂、」
手を引かれるまま、拝殿の階段を登る。
賽銭箱の裏、京極堂の手によって開かれた拝殿の扉の入り口に立つ。
中の暖かな明るさは手燭に立てられた蝋燭の灯りだとその時知った。
振り向いた京極堂の顔は微かに微笑っているようだった。
「少し眠っていくといい。ここは僕しか立ち入らない」
いつもは良く通る京極堂の声が、今は何故かひそめられている。関口はその囁
くような言葉に少なからずドキリとした。
その内心を悟られるのが恥ずかしく、慌てて関口は京極堂から目を反らした。
「で、でも、ここは、君」
「関口、」
「い───いつも、ここは僕なんかの立ち入る所じゃない、と、」
「関口、───目を閉じて」
その一言に驚いて視線を戻すまでも無く、頬に添えられたひんやりとした手に
よって関口は顔を上向けられた。
まさかこんな所で、と言葉にする暇も無く───言いなりに目を閉じると同
時、口付けられてびくりと震えた。
口唇を割り差し入れられた舌によって、舌を吸い上げられ翻弄される。時折、
軽く歯を立てられると甘い疼きのようなものが背筋を駆け下り、眠気を削ぎ取り
身体を熱くする。それを厭がり身を捩ろうとすると、京極堂の腕によってしっか
りと抱き締められた。うなじに差し入れられた手のせいで逃げようもなく───
やがて、逃げることなど思いつかなくなるまで、接吻は終わらなかった。
それは甘美な接吻だった。
常に知っている京極堂とのそれよりも、ずっと。
漸く接吻から解放された頃には、関口は膝に力が入らなくなりつつあった。京
極堂の肩に手で縋り息をつく。
口許が濡れているのは自らが零した唾液だろうか。それを指先で拭われる感触
にさえ、自分の身体が反応しているのを関口は自覚した。
頬が火のように熱かった。頬と云わず顔も首筋も。
「…賽銭、というより供物の類だな、これでは」
「あ、……京…極…っ」
軽く耳朶を噛むようにして囁かれた言葉に、恥ずかしいほどに甘い声を漏らし
つつ───関口はようやく、京極堂の云う『賽銭』が『こういうこと』だと悟っ
た。
そんなつもりで来たんじゃない、と、消え入るような声で反論をしては見た
が、上がりきった鼓動と熱くなりきった身体を任せたままでは弁解にすらなりは
しないことを関口自身も知っていた。
知っているよ、散歩で来たんだろう?
からかうような京極堂の囁きに目を閉じて、関口は京極堂に導かれるまま拝殿
の扉の中へと入ったのだった。
*
少し眠るといい。だが寝過ぎは困るよ、と。
情事の後の心地よい気怠さに浸りながら、そんな声を聞いた気もしたが、既に
関口は板間の堅さも気にならぬほどの眠りに引きずり込まれていた。
遠くで明けの烏が鳴いたようだった。
(了)