「けだものの恋」
一目で惹かれあったに違いない。
群をはぐれた獣が初めて同種族の獣に出会ったように。彼らは発情し肉体を交わした。
それは恋とは呼ばないのかもしれない。
情愛などなかったはずだ。ただ、二言三言、言葉を交わしただけで情の生まれるはずもない。純粋な生殖行為だったのだろう。
彼のことは、よく知っている。
ひどく奥手で、小娘のように潔癖だ。笑ってしまう。髭も剃らずに日がな一日寝てばかりいるむさ苦しい男が。
潔癖とは少々意味が違うかもしれない。彼には分からないのかもしれない。人の男女の情愛が。異種間での恋愛が成り立たぬように、彼は女を愛することが出来ないのかもしれない。
人を、愛することが出来ないのかもしれない。
そこまで考えて彼は微かに口元を歪めた。自嘲したのだ。
自分こそ、人を愛したことがあるのだろうか。
妻を愛している。
その愛情は何処から来る?
彼が大切だ。
それはいったい自分の肉体のどの部分から生じる感情なのだ?
彼は顎に手を持っていく。
肥大化した大脳皮質のせいで頭がぐらつくのだ。
「彼女に惚れているのか」
彼は何度も彼に尋ねた。
そうではないと彼は繰り返し答えた。
彼に分かるはずがない。
その記憶を大脳皮質が封じたのだから。大脳辺縁系に綴じられた記憶と感情は決して彼の意識上にはのぼらない。言葉になど出来ない。
恋をしたのは獣の脳だ。大脳皮質に押しひしがれた間脳が彼を駆り立てあの雨の中を走らせたのだ。
彼の操る言葉は人の脳に語りかけ、彼を引き寄せる。
何度もそうしてきた。
彼は人の脳でしか人を恋うたことがない。
獣の恋とはどういうものだろう。生殖に直結する生理的欲求に過ぎないのか。
人の恋と獣の恋はどちらがより深いのか。
そうしてまた、いたいけな間脳は大脳皮質の生み出す言葉や思考に覆われ日常に埋没してゆく。そうでなければ立ちゆかぬ。
人は人であることをやめられぬ。獣は狩り出され放逐される。
だから彼も彼女から逃げ出したのではないのか。
「僕は君を守っているのだよ」
小さな震える獣の脳を包み込み灰色の大脳皮質が囁く。
けれど獣は忘れないだろう。
番を殺された痛みを。自分に痛みを与えた者を。
脳髄の内にそっと憎しみを抱いたまま、獣の脳は震えている。
痛みを感じながら大脳皮質は考え続けている。
焦がれる気持ちの深さなど、測る術もない。