「まどろみ」
もうこんなのは厭だ、とずっと思っていた。
「そらそら、無様じゃないかサルめ!」
容赦なく振り下ろされる棒きれに、私は既に半べそをかいていた。
目の前の少年は自分よりたった一つしか年長で無いにも関わらず、そこらの子供より
秀でた脳味噌と体格と、人形もかくや、と思わせる白磁の容貌とを以て、全てにおいて
私を凌駕していた。
劣った人間が優れた人間の下僕になるのなど当然だ、と云わんばかりに、少年───
榎木津は、私をどこにでも連れ歩いては、必ず酷い目に合わせるのだ。ザリガニを釣り
に行けば池に落とされ、苦労して描いた絵には必ず悪戯書きをされ、鬼ごっこをすれば
いのいちばんに見つけられる。恩恵といえば、榎木津という餓鬼大将と一緒に居るせい
で、他に積極的に私を苛める者が居ないというその程度だ。
今だって、そうだ。
洋行帰りの父親が土産に持って来たのだという異国の絵本の、すりーぴんぐ何とやら、
という話を榎木津がいたく気に入り、以来、暇を見つけてはその話を元にしたチャンバ
ラごっこに付き合わされている。榎木津は姫を助けに来た王子の役所で、私はといえば、
王子の邪魔をする悪いバケモノ猿という役割を押しつけられて、毎度毎度、退治されて
いるのだった。
剣に見立てた棒きれを手に、それすら与えられずに逃げ惑う僕を、笑いながら追いか
けて来る。追いつかれれば、棒で叩かれる。だから、私は必死に逃げる。
けれど、もうその我慢も限界だった。
「ははははは!どうしたサルめ!そんなに僕と姫を会わせたいか!」
木の根元に追い詰められた私を、棒の先端で指しながらそう云って笑う榎木津に、私
はカッと頭に血が上るのを感じた。
感じたと同時に───泣き出していた。
「…も…こんなのやだよ……!!」
声を振り絞ってそう叫んだ途端、榎木津は驚いた貌をして笑うのをやめた。
「僕ばっかり、…いっつも猿で、やっつけられるだけなんてやだよ…! お姫さまなん
ていないじゃないかっ、居ないお姫様のために叩かれるのなんてもうやだよ…っ!!」
ぼろぼろと止め処なく零れてくる涙を袖で拭いながら、私は、私なりの意見を榎木津
に主張した。そして、
「エノさんなんて…っ、エノさんなんてもう大っきらいだよ……っ!」
そこまでを云ってしまうと、後はもう涙で言葉にならなかった。
暫しの間、私がみっともなく泣きじゃくる樣子を、榎木津は目の前にしゃがみ込んで
黙って眺めていた。が、やがて、不意にその手が私に伸びてきたのを見て取るや否や、
私は咄嗟に身を竦ませた。またいつもの如く、ぽかりとやられると思ったからだ。
だが。
その手は私の予想に反して───そうっと、優しく、私の頭に触れたのだった。
「…………?」
やさしく優しく撫でられる感触に、恐る恐る視線を上げて見てみると、榎木津は困っ
たように笑っていた。
今の今まで、榎木津の仕打ちを『酷い』と思っていた筈なのに。その整いきった綺麗
な顔に、私は朦朧と見とれてしまっていた。
「それじゃ、関君には違う役をやろう。それなら、いい?」
「…うん」
あやすようにそう云った榎木津に、私は半信半疑で頷いた。それを見るや、榎木津は
更に笑みを深くして、目を瞑って、と小さな声で私に云った。
私は云われるまま、ぎゅっと目を閉じた。
───眠りについていたお姫様は、王子様のキスで目覚めるのでした。
歌うような榎木津の声と、その直後に頬に触れた柔らかで温かい感触に、私は、──
────
*
「………関君、関君」
髪を大切に梳かれる感触と、耳元で幾度も呼ばわれる自分の名のせいで、ようやく関
口はうっすらと目を開けた。
どうやら眠り込んでしまっていたらしく、思考がすっかり鈍っている。
寝覚めの甚だ明瞭では無い視界に、まず見えたのは白い波間だった。うねり、まある
く皺を寄せた布の波間が、乱れた敷布なのだと解ったのは、その数秒後のことだった。
そして次に目に入ったのは、鳶色をした硝子玉のような瞳だった。
「関君、いつまでも寝惚けていると、終電が無くなって、雪ちゃんが悲しむ」
磁器人形のような綺麗な顔をしたその人は、そう云いながら、自分の方が悲しそうな
瞳をした。
その表情が何故か嬉しくて、関口は亜麻色の髪が解れかかる、硬質な白い頬にそっと
手を伸ばした。
「夢、見てたんだ。エノさんが出てきた。僕とエノさんと、何故か子供で一緒に遊んで
た」
頬に触れた指先で、彼の表情に『触れる』。
ふうん、と頷く声が振動となって、指先に伝わる。
「エノさんが王子様で、僕はバケモノ猿なんだ。チャンバラごっこで、僕は悔しくて泣
いて、───そしたら、エノさんが僕を───」
そこまで言いかけた関口の言葉は、榎木津の口唇によって封じられた。
ゆっくりと歯列を割り入り、とろりと舌を絡め取られるその接吻に、関口は低く呻い
た。
うなじに手を差し入れられ、逃げることも思いつかぬ程の甘い接吻を与えられるうち
に、既に一度ならず蕩けさせられた身体が、再び熱を集め始める。
そうしながら、ふと思い当たった。
あんな夢を見てしまったのは、多分、榎木津のせいなのだろう、と。
眠っていた自分の頭を撫でて、口付けた人が居たからだろう、と。
どんなに長い夢も一瞬の泡沫。目覚めの僅か数秒の間に、脳が作り上げた幻に過ぎな
い。
そして関口の望んだ幻は───眠り姫になることだったのか。
接吻から解放され、抱き締められ、そっと背筋を手で辿られただけで、ああ、と吐息
のような声が漏れた。
自分よりも一回り逞しいその背に腕を廻して、与えられる感覚に身を投げ出しながら。
「エノ…さん、エノさ………、ぁ…っ」
「…うん?…なんだい、関君……?…」
「僕が…眠って目を覚まさなくなったら……エノさん、助けに来てくれる…よね…?」
肌を溶かし始めた快楽にたゆたいながら、うっとりと、そんな問いを言葉にすると、
榎木津は小さく笑う気配の後、可愛いな関は、とそう呟いて、再び関口に接吻を与えた。
───それは、姫の眠りを解く、王子の接吻だった。
おわり