「あの月を---」
月が欲しいという。
馬鹿げている。
いい年をして、口を開けっぱなしにして見上げている。
また遠くへ行きかかっている。
中禅寺は深々と溜息をつく。
-----月なんて手に入れたってしようがないじゃないか。 何に使うんだ、そんなもの。そう問うと「だって綺麗じゃないか」という。答にもなっていない。月に関するあれこれで煙に巻いてやろうか。いつもみたいに。数値的事実と伝承だの信仰だの織り交ぜて、そんなことが聞きたい訳じゃないことは分かっているけれど。
けれど彼自身が、自分の賢しい声がこの夜の空気を濁すのを欲しない。そういう夜なのだ。月がまあるくて、綺麗だ。
中禅寺は立ち上がると部屋を出ていった。
そして戻ってくると、手に水を張った盥を抱えていた。
ほら、と関口に押しつける。
「月だ」
盥の水を指してぶっきらぼうに言う。
関口は暫し、呆気にとられた。そういうことをする男だとは思っていなかった。月も見上げず本ばかり読んでいるような男だ。でも本当は中禅寺は月が好きだろうとも知っていた。難儀な男だ。
関口は水面に目を落とした。ゆらゆら月が揺れている。薄黄色く輝く天体の表面の凹凸さえ見て取れる。関口は戸惑う。
戸惑いながら水面の月を見つめている。
中禅寺がいきなり盥の中に手を突っ込んだ。月がくしゃくしゃに壊れた。
「ひ、ひどいよ中禅寺っっ!せっかく、せっかく‥‥」
「しっ。騒ぐんじゃないよ。じっとして」
制されて関口は身動きをやめた。ゆらゆら揺れる水面に薄黄色い月がまあるく像を結ぶ。関口は息を詰めてそれを見守った。
腕の中の月はわずかな振動でもたわんで形を変えてしまう。
泣いても、手を伸ばしてもいけない。
関口は悟る。
本当に綺麗なもの、本当に欲しいものはじっと息を詰めて見つめることしか出来ないのだ。
きゅう、と胸が痛くなったが涙も落とせない。
ただ、こうしているかぎり月は自分の腕の中にあった。
「本物の月みたいだね」
労うように中禅寺が囁いて、前髪が額に触れた。
二人でずっと腕の中の月を眺めていた。
あの月をとってくれよと泣く子かな
小林一茶