「僕に名前をつけないで欲しい」
しいて云うなら、それは母国語に対する憎しみだ。
いつも己の頭の中を占めている、言葉、言葉、言葉。
それこそが決して逃れることの出来ない檻なのではないか?
私を惑乱させるのは生まれ落ちたときから降るように浴びせかけられ続けてきた故国の言葉達だ。それなしでは私は思考すらままならない。
生まれたときにはなかったはずのものが蓄積され私の内を満たしている。
日本語を母国語とする人間と英語を母国語とする人間とでは自ずと思考方法が異なってくるというが、それは人間の脳自体は良くできた二進法の電算機に過ぎず、言語によってフォーマットされると云うことだろう。
では、言葉を知らないまま成長すると人はどうなるのだろうか?
記憶は言葉ではない。
視覚であり聴覚であり嗅覚、触覚で記録されている。
それを取り出すために私は言葉を綴る。その言葉自体が私以外の人間と互換性があればいいが、正確に理解されることは少ないだろう。
私が「海」と云ったとき、私の中にある「海」は重苦しく鉛色の空を映したうねりだが、その言葉を耳にした人間にとってはよく晴れた日の青い海かもしれない。子供時代を過ごした懐かしい温かな海かもしれない。
そして「海」という言葉が孕むのは、どこかにあった、あるはずの、どこにもない「海」なのだ。
ああ、言葉。言葉。言葉。
言葉に喚起され私はあるはずのない海を脳裏に描きだす。潮の匂いや、まといつく湿った風、波の音、砂を踏む感触、遠く雲の向こう側の太陽の光。
夢と現を言葉は区別しない。
だから、夢までを言語で計り取ろうとする事に、私は嫌悪を覚える。
私の夢も記憶も言葉でなどないのだ。
言葉は喚起するだけだ。
夢を、記憶を、感情を。
私に名前をつけないで欲しい。
私を喚起する言葉で、あるはずのない私を作り出さないでくれ。
私はここにいる容量だけで存在している。きっかり、ここにある分だけなんだ。少なくても多くてもいけない。
君がどんなに言葉を尽くしても、私を計り取ることなんて出来やしないのだ。
けれど、君がその声で私の名を呼ぶときに、私が君の名を呼ぶ時そうであるのと同じ様に、君の内に私が声の響きや匂い、感触をもって存在することを私は喜ばなくてはいけない。
二人の間の空隙を渡ってゆけるのは言葉だけなのだから。