「鼠の手土産」
今日、珍しく東京は雪だった。
ちらちらと白いものが風に舞う中、私は背を丸めながら眩暈坂を登っていた。
昨夜、急に京極堂から電話が来た。なんでも、以前に私が『読みたい』と云っていた
本が手に入ったのだと云う。ただ、京極堂が思うには私が読んで面白いとは思えない本
ならしい。
他に買い取り手もあるかもしれない、君だけのためにいつまでも取り置きも出来ない
ので明日でも見に来るといい、それじゃ。そこまでを云うと一方的に切られてしまった。
いいも悪いも言いようがない。
確かに私は時間に融通が利く。今は〆切らしい〆切も無い。だから、毎日暇だと言え
ば暇なのだ。それを京極堂も承知しているからこその云いようなのだとも解っている。
ただ。
どうにも、今日は足も気も重かった。
出来ればあと二〜三日、この坂の方へは足を向けたくなかったのだ。
───何故ならば。
私は昨日、たまたま用事があって町へと出掛けた。そのついで、何となく気が向いた
ので榎木津の許を訪れたのだが、それが何よりまずかった。
薔薇十字探偵社のドアを開けると、事務所はめずらしく無人だった。
入り口で『おおい』と声を出してみたのだが、いつもならにこにこと迎えてくれる寅
吉の姿は無い。無論、その他の面子の姿も。
折角ここまで来たのにそのまま帰るのもちょっと癪だったのもあった。私はそのまま
部屋の中へと進んで、榎木津の寝室をノックした。
返事は無かったのだが、なんとなく、人の気配というのは解るものだ。
「榎さん、いるのかい?」
思い切って声をかけてみると、案の定、返事らしき声がした。聞きようによっては単
なる不機嫌なうなり声のようでもあるが、榎木津に「標準」を求める方が間違っている。
ドアをそうっと開けてみると、部屋の中は微昏く、榎木津は寝台に転がったままだっ
た。入るよ、と一応断ったが、聞こえていないかもしれなかった。
寝台の上はかなりの寝乱れようで、無論、そこにはまだ半分がた眠った状態の榎木津
が長々と横たわっていた。上掛けからのぞいている肩が素肌なところを見ると、身につ
けているのは下履き一枚かもしれない。なんとはなし、私はそれを真っ直ぐ見られない
ような気分だった。
「どこか具合でも悪いのかい?こんな時間まで寝ているなんて」
私が寝台の横に立つとようやく、榎木津はゆっくりと目を開けて私を見上げた。相変
わらずの整った顔立ちに、色素の薄い眸と肌───磁器人形のような容貌に、私はほん
の少しの間見蕩れた。
「…やあ。関君か。いいところにきた」
思いがけず、榎木津の声はかすれていた。ほんの少しだが、いつもより張りもない。
「なんだい、本当に具合が悪いのかい?」
「うん」
えらく素直に頷く辺り、既に尋常ではないと私は思った。風邪かい、それとも…など
と云いながら、寝台の上に屈み込む形で榎木津の額に手を当てる。さらり、とした髪が
指先をくすぐる。榎木津の額はほんのりと温かいだけだった。
「うーん、熱はないみたいだけど……、?」
そう云いながら額から手を引こうとしたところ、榎木津の手が私の手をそうっと握っ
た。
───いま思えば、その時に咄嗟に手を引いていれば良かったのだろう。
「榎さん?………!、───あ!、」
「関、」
ぐい、とその手に引っ張られてバランスを崩し、気付いた時には榎木津の身体の下に
いた。もがこうとした手が、布團に隠されていた榎木津の素肌に触れてしまいびくりと
竦む。その隙に口付けられて───後はなし崩しだった。
抵抗しなかった訳ではない。ジタバタと暴れて寝台から落ちそうにさえなった。
しかし、その度に榎木津の腕に抱き寄せられ、下肢が疼くほどの接吻を与えられ、抵
抗することすら忘れるほどの濃密な愛撫を惜しみなく与えられ───最後は、声を噛む
ことすら出来ずに、身体の奥深くまでを開かされて啼き咽んだ。馬鹿だなあ関は、と幾
度も耳元に囁かれた。思い出すだけで頬が熱い。
寅吉が帰って来た声がするまで、私は解放して貰えなかったのだ。
慌てて身繕いをして探偵社を飛び出して、───その夜に、京極堂から電話が来たの
だ。
京極堂に榎木津のような能力があるわけではない。だから、私さえちゃんとしていれ
ば、昨日の榎木津とのことなど解るはずはないのだ、と解っていても───なんとはな
し、後ろめたい気分が伴う。
そんな理由で足も気も重かったのだが、色々なことを思い出しているうちに、目指す
京極堂に着いてしまっていた。
今日は珍しく店が開いている。入り口から覗くと、主人らしき影が帳場に座っている。
「やあ、来たよ」
そう声をかけて店に入った私は───そのまま動けなくなってしまった。
「関口君か。君にしては感心に早いじゃないか」
確かに京極堂は居た。
「昨夜、あんまりいい声を出していなかったから、今日は来ないかと思ってた。どれ」
そう、確かにそれは動作も声も京極堂なのだ。
だが。
ぺたぺたぺた、と近付いてくる京極堂は、あからさまに不審げな顔をしている───
のだと思う。多分。
「何だい。そんなところに突っ立って。先に座敷に上がっていると良い。僕は店を閉め
てからいく」
ああそうだ、千鶴子は出掛けているからお茶は出涸らしだが君は気にしないだろう。
いつもとちっとも変わらない言葉も、無論京極堂なのだ。
でも何故。
「関口?」
何故。
なぜ───ペンギンに見えるんだろう───。
小首を傾げて関口を見下ろす京極堂の姿に、私は思考することを放棄した───。』
次回『ペンギンはお風呂がお好き』をお楽しみに!
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榎×関です、榎×関!しかも京極堂を意識しつつの榎×関。最近の私のツボです(笑)
えっへっへー、江さんありがとうございました!