「ところてん」
お邪魔します、と上がりこんだ居間で作家は納豆を食べていた。
卓袱台の上には納豆が入っていたらしき小鉢と醤油指しと、他には何もない。
湯飲みすらない。
作家は左手に茶碗、右手に箸を持ったままむぐむぐと口を動かしている。
「奥さんはお留守なんですか?」
鳥口の言葉に関口は頷きで答える。
玄関で誰何した時に聞こえてきた不明瞭な応えは納豆飯のせいだったらしい。
見たところから推理するに作家が起きてきた時には奥方は既に出かけた後で、腹が減ったと覗いた台所で見つけられたのが炊かれた飯と納豆だったのだろう。
「先生、お茶くらい煎れたらどうです?」
むぐむぐ言いながら関口は首を横に振った。その後で、君が飲みたいならというようなことをまた不明瞭に付け足した。
「じゃあ、僕が煎れますよ」
口に納豆飯を詰めたまま立ち上がろうとした関口を制して鳥口は台所へ立った。薬缶に湯を沸かそうと持ち上げると中には麦茶が入っていた。
なんだ、用意してあるんじゃないか。
鳥口は湯飲みに二つ、麦茶を汲んで居間に戻った。
「先生、もうちょっとちゃんと食べた方がいいですよ」
「納豆は体にいいから大丈夫だよ」
麦茶で口中の粘りを流し込んだ関口がやっとまともな口をきいた。
「いくら体にいいからって、納豆だけ食べてればいいってもんじゃないですよ。他に野菜とか魚とか食べた上で納豆も食べるんなら体にいいってことでしょう」
鳥口が言うと関口ははー、と溜息をついた。
「面倒くさいね」
色んなものを細々と少しずつ。
「何か一つのものを沢山摂ればいいっていうなら僕にも出来そうなんだがなあ」
「一生納豆だけですか?」
それでいいならそうしたい、と関口は言った。
「面倒くさいことばっかりだ」
それは面倒なことをきちんとこなしている人間が言うべきことであって、面倒くさいと厭うだけの人間が面倒くさいことなんて実際にはないのだが、おそらくこの作家にとっては納豆を食べることだけでも十分に面倒なのだろう。
「納豆だけ食って、体は健康。理想的だ」
そうだろうか。おからだけ食べている東南の山岳民族の話は聞いたことがあったかもしれない。鳥口としては納豆にしろおからにしろ、一生それだけなんてのは勘弁してもらいたい。世の中には刺身もカツレツもあるのだ。
「なんだか嘘臭い健康食品みたいですよ、それ」
鳥口の言葉に関口は笑った。
「むしろ新興宗教かもしれないな。納豆教だ。納豆だけを信じて納豆に身を捧げるんだ」
なんだかとてつもなく馬鹿馬鹿しい宗教だ。
「宗教なんてのも、詰まるところは面倒くさいが始まりかもしれないねえ。ひたすら神頼みしてればなんとかなるんだもの、そりゃあ便利だ」
「うへえ、神様と納豆は同じですか」
「一番面倒くさがりの宗教は禅宗かな。ただひたすら座っているだけだもの」
「でも、それは苦行の一種でしょう?」
「苦しいのを我慢するのと、楽になろうと努力するのとどっちが面倒くさいかな」
とにかく面倒くさいが、今の関口の一番の関心事らしい。
ああ、調子が悪いのか。
今日は雨が降ってはいないが朝から重苦しい曇天で、気温も暑いのか寒いのか半端な気温で湿度ばかりが高い。こういう日は関口でなくても調子の悪くなる人間は多いようだ。
納豆を食うだけでいっぱいいっぱいらしい関口に原稿の進み具合など尋ねるのも無駄だろう。
「でもきっと楽になったら、なんであの時あんな馬鹿みたいに我慢なんかしてたんだろうって思いますよ。納豆ばっかり食ってて損したってね」
「そうかなあ」
そうなんだろうね、小さく呟いて関口はぼんやりと窓の外の曇天を見上げた。
「ところてん」
「は?」
関口は「ははは」と小さく笑った。
「心太が食いたいんですか?」
「いや、違うよ。ああ、でもそういわれると食いたくなるかな」
「じゃあ、ちょっと行って買ってきますよ」
「いいのかい?」
「ええ。それとも一緒に出ますか?」
「いや、僕は君が帰るまで少し仕事でもするよ」
おや、珍しい。口に出そうになった言葉を飲み込む。今、拗ねさせちゃ元も子もない。
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
立ち上がった鳥口に「待ってるよ」と関口が言う。
ちょっといい気分になってこの辺で心太が買える店はあっただろうかとか、張り切って考えたり。
ところてん。
君に押し出されてにょろりと今日が始まる。