「声なたてそ。われは汝が眷属なれば」


 一雨くるかと思っていたが結局空は崩れることなく蒸し暑い夜が来た。
 仕事をしようと机に向かったものの筆は一向に進まず、汗ばんだ腕に原稿用紙が張り付く不快感に辟易して私は早々に万年筆を放り出した。電灯の明かりも暑苦しいから消してしまった。暗がりで壁に凭れて煙草に火をつける。妻は隣の部屋で眠っている。私と違って寝付きがいいのだ。昼間働いているから暑さなど気にならないほど疲れているのかもしれない。そう思うと何か少しでも収入に繋がるものを書かねばと思うのだが気は焦っても何も書けぬ。それでも形だけは机に向き直って頬杖をついた。暗い中でじっと机に向かっていたって仕事にならないのは変わりないし、実際この暑さでは集中することも出来ないのだが。
 子供の頃から夏の夜はなんだか落ち着かない気持ちになる。昼間は強すぎる日差しをやり過ごすのに精一杯で半分死んでいるようなものなのだが、日が陰りさあっと夕立を呼ぶ風が吹くとどこかからか何かの気配に誘われるようで気も漫ろになる。
 夏は闇の静けさの中にも生命力が満ちていてそちこちに何かが息を殺して潜んでいる気配がする。気を抜けばすぐに腐り落ちて腐臭を漂わせるはじめる濃密で心許ない甘い果実のような気配。古い知り合いがいつも手元に置いている和綴じ本の中のあれやこれやが頁の中から抜け出してこの世を跋扈しているのかもしれない。そんな事を言うとまたあの男は人を小馬鹿にしたような顔つきでああだこうだと長口舌をたれるのだろうが。
 汗が胸元を伝ってゆく。
 立っても座っても寝ていても暑いのだからこんな時はただじっとしているのが一番いい。石のように動かず流れるに任せた汗が身体の熱を奪ってゆくのを待つ。身体機能を極限まで低下させれば体温は自然下がるのじゃないだろうか。馬鹿げた考えかもしれない。それでも私は息を殺してじいっと気配を消し去るように縮こまっていた。
 どれくらいそうしていたのか。
 ふと静寂が耳を打った。
 先刻まで感じていたざわついた落ち着かない空気は消えてキンと耳鳴りがするほどの張りつめた静寂が部屋を満たしていた。
 暑さが悪寒に変わった。
 それ、が来ていることが分かった。
 気配。
 体中の汗が一気に冷えた。凍えたように震えがはしる。
 恐るおそる首を巡らした。石臼のようにぎしぎしと首の骨が音をたてるようだった。
 白い障子に女の影が張り付いていた。
「---------」
 口を開けたが声が出ない。低い呻きが漏れた。
 女は少し身を屈めるとひそりと囁いた。

「声なたてそ。我は汝が眷属なれば。」

























 目が覚めると私は机の前でだらしなく寝込んでいた。痒みに腕をさすると畳の跡がついている。寝不足のようで頭がはっきりしない。部屋の窓からは障子越しに明るい光が射している。もう午近いのだろう。のっそりと身を起こすと妻が庭先を掃いている音がする。さて、あれは夢だったのかとなんだか白々とした気持ちになった。顔を洗いにゆこうと立ち上がると「あら」と妻の声がした。
「どうしたんだい?」
 声を掛けると外から障子が開いた。
「タツさん、これ」
 妻の指したものを見て身が竦んだ。
 白い、大輪の花。
「お隣からこんなところまで伸びてきているわ」
 隣の庭から垣根越しに白い花をつけた朝顔の蔓が私の窓辺にまで伸びてきていた。小さな赤子の手のような葉を私に向かって差し延ばして、ゆら、ゆら、と寄る辺なく揺れている。
----私を助けて下さい。
 ぐらりと視界が歪んだ。
 あなただったのか。
 あなたが呼んでいたのか。
 妻は私の動揺には気がつかなかった様子でくるくると窓枠に絡んだ蔓をほどいて隣の庭の方へ這わせた。
「だめですよ、こちらに来ちゃあ。お前のお家はあちら。ここはタツさんのおうちですよ」
 子供に言い聞かせるように優しく妻が言う。その声の明るさに切なくなった。
 いいじゃないか、こちらに来たがっているものを----そう言い出すことが出来なかったのは私の中にある後ろめたさのせいだ。
 地面に這った蔓があの女の腕のようでひどく哀れだった。





「いい加減にしたまえよ」
 不機嫌な顔を更に不機嫌にして彼は言った。
 いつものように座卓を挟んで私は彼と向き合っていた。
「彼女は生身の人間として君の前に立ったのだ。君がいつまでもそんなふうでは----」
 彼女が気の毒だ、そう彼は言った。
 悲しむのは死んだ人間ではなく生きている人間なのだ、そんな話を以前聞かされた。だから今はきっと私に合わせた言い方をしているのだろう。
 私は項垂れて蝉の声に耳を傾けた。風鈴がりん、と澄んだ音を響かせる。仕方がない、といったふうに彼は溜息をついた。
「そういう囚われ方は不幸だよ。君にも雪絵さんにも。季候が悪いのだろうが、」
 目を上げるとどんよりと空には厚い雲が垂れ込めていた。
 降り出す前に帰らなくては。
 私は京極堂を後にした。





 雨は夜半を過ぎても降り続けた。屋根に叩き付ける雨の音に不安になって私は起き出して仕事部屋の机に向かった。空が低く鳴っている。ときおり閃光が世界を照らし出す。雲の中で氷の塊がぶつかり合い摩擦で電気が起こる、----それがどうしたというのだろう。そんな知識はなんの役にも立たない。光る空を前にした時の身の竦むような恐怖は消えない。
 あの夜もひどい雨だった。ぬかるんだ闇の中を私は走っていた。彼女を捜していた。
 あの闇を彼は知らない。
 妻も知らない。
 あの闇を通り抜けねば彼女の処へは辿り着けないのに。
 窓の隙間から冷たい風が吹き込んだ。
 気配がした。
 一瞬の閃光が照らし出す。
 私を呼ぶ。
 ゆら、と。
 花の影。

----声なたてそ。

 ああ、そうだ。
 誰にも言ってはいけなかったのだ。

























 翌朝、窓の外を見るとあの花は消えていた。
 私が京極堂に話したから消えてしまったのだ、などと考えもしたがそれこそ私の妄想だろう。
 まるですべてが夢の中で起こったことのようだ。
 なんだか悲しくなった。
 妻は仕事に出掛けたようだ。蝉の声がする。夕べの雨に洗われた世界は明るく鮮やかで部屋の中から見ていると目が眩んだ。何となく人恋しいようなそれでも誰とも会いたい気にもならず本など読みながらごろごろして過ごした。
 夕刻、妻が帰ってくる頃になったので玄関の上がり框に腰掛けて開け放した引き戸から通りを眺めていることにした。通りから吹き込んでくる風が心地良い。夏の夕刻の風は切ないようなわくわくするようなそんな気配を連れてくる。ようやく私はいつもの夏の心持ちにかえることが出来たようだ。じきに妻が帰ってくる。視界の端に空色のかけらがひらひらと揺れた。
 随分日が長くなったんだな、と思う。傾き掛けた陽が斜めに庭に影を落とす頃通りの向こうから妻の日傘が見えた。
 垣根越しに妻は私の姿を見つけると微笑んだ。
「どうしたんですか、こんな所に座り込んで」
「うん………」
 待っていたんだとは照れくさいので言わなかったが妻が嬉しそうに微笑むので私も笑った。
「あんな所に朝顔なんかあったかい?」
 私は前庭に置かれた鉢を指していった。先程から涼しげにひらひらと揺れている明るい空色の大きな花をつけた鉢だ。
「あれはお隣にお願いして譲っていただいたんですよ」
「お隣から?」
「ええ、タツさんの部屋の方に蔓が伸びていたでしょう」
 え、と私は問い返した。
「だって…あ、あの花は……白かったじゃないか」
「ええ、陽に当ててやったら葉の色も花の色も濃くなったみたい。あんな日陰に置かれていたからお日様が恋しくてこちらに伸びてきてたんですねえ」
  タツさんが随分気に掛けているみたいだったから、そう妻は言った。
「は………」
 気が抜けてしまった。なんだ。蓋を開けてみればこんな事なのだ。誰も私を呼んでなどいない。
 いつだって私はこうなのだ。
 相手の真意など分かりもしないでただ怯えて勘違いして…情けなくて笑ってしまう。
「タツさん?」
「………うん」
 怪訝そうに妻が私の顔を覗き込む。鮮やかな現実の女。私の愛おしい妻だ。愛おしい日常だ。
 西日の射す庭でようやくモノクロオムの世界を抜け出すことのできたあの女が空の色を纏って涼やかにひらひらと微笑んでいた。