「黄泉路」


 夕刻のバスの中で私は窓の外を眺めている。
 他に乗客は誰もいない。昼と夜の狭間の薄黄色い光が外の世界を照らしている。それとは対照的に車内は暗く運転手も人型の影に過ぎない。もう少ししたら通路の天井に蛍光灯が灯り寂しい光で車内を満たすのだろう。
 単調な振動が座席の下のエンジンから伝わってくる。窓から吹き込む陽の温かさを留めた風が顔を撫でてゆく。心地よさに私はうっとりと外を眺めている。
 窓の外には木とトタンの古びた町並みが何処までも続いている。少しだけ埃っぽい。黒ずんだ建物が長く影の尾を引いて次々に通り過ぎてゆく。
 不意にエンジンの振動が調子を変えた。停車場が近付いたのだ。車体が軽く軋んで速度を落とす。私は落ち着かない気持ちになって座席を立った。ここで降りなくてはならないことを急に思い出したのだ。
 運賃箱に硬貨を何枚か落とす。その際に運転手を見遣ったが帽子を目深に被った男の顔は薄暮れの光ではっきりとしない。年寄りのようにも青年のようにも見える。ハンドルに掛けた腕の手袋だけが日の光に白く映えていた。タラップを降りて振り返ると運転手は帽子を被り直しギアを引くと空の車両を何処へか走らせていった。こんな人気のない町を乗客のいない車両を走らせて幾らかでも儲けが出るのだろうかとふと考えた。
 私は道なりに歩き出した。人気のない静かな町だった。路地を覗くとうち捨てられたアルマイトの洗面器や何かの残骸らしい板きれやらが埃を被って積まれている。
 変に入り組んだ作りの町並みだ。何かの商店らしい建物に挟まれて通路のような細長い前庭の奥に小さな扉が見えた。開け放たれた扉の向こうには、下宿屋か何かなのだろう、幾つかの扉が並んでいる。その廊下の奥の窓からは黄昏の光が逆光で射し込んでいる。
 しばらくそんな家々を眺めて歩いてゆくとガラス張りの小さな喫茶店があった。店の中は改装中なのか取り壊されている最中なのかガランとして床の隅に壊れかけた椅子だのテーブルだのが転がしてある。ペンキの剥がれた看板には「月世界」とある。日に焼けてほとんど彩りを無くしたその看板には丸く豆電球で囲まれた中に薄白い月の絵が描かれていた。昔博物館で見た月球儀のようだった。クレーターやら水のない海が黄色いペンキの線で記されている。
 水のない海は死んでいる海なのだ。
 誰かの言葉を思い出す。月の世界には空気すらないのだから、そこはとても寒いに違いない。
 緩く温かい風に吹かれながら黄昏の街角に私は佇んでいる。






「大丈夫か?」
 覗き込む男の顔を見上げて私は大きく息をついた。
「ああ、起きあがるな。どこか傷むか?」
 掠れた男の声に私は小刻みに首を振った。幾箇所か打撲したようだが傷らしいものはないようだった。
「爆風で吹き飛ばされたんだ。やばかったな」
 もう一メートルずれていたら直撃だったと男が言った。
「他のみんなは?」
 名前だけのとはいえ小隊長として他の者の安否を把握して置かなくてはならない。訊ねた私に木場は曖昧に頷いた。
「少し眠るといい」
 何かを投げ捨ててしまったような空虚な表情だった。だが囁かれた声の意外な柔らかさに安心して私は再び目を閉じた。濃い緑の匂いと湿った暑い空気にすっぽりと包まれて私は眠りに落ちた。






 少女の手を引いて私は人気のない町を歩いている。
 またここに来てしまった。
 初めての町のはずなのに既視感にとらわれて私はしげしげと辺りを見回す。夕暮れの光が眼に映る世界を青い影と黒い影の印画紙のように見せている。
 少女は黙りこくって私の後をついてくる。切りそろえた前髪の下からじっと私を見上げている。その視線に背中を押されるように私は歩き続ける。だが私はとうに自分が道を失ってしまっていることに気がついている。
 日は既に沈みかけている。家々の黒い影がのしかかるように私達の上に落ちてくる。繋いだ手がじっとりと湿っているのが不快だった。
 夜が来るまでに-----なくてはいけない。
 夜が来るまでに。
 遠くの町並みに一筋の細い煙が昇り立った。
 迫る夕闇に急かされて私は歩いている。






 生き物の焦げる匂いに咽せて私は咳き込んだ。
「大丈夫かね?」
 そう言って老医師が背をさすってくれた。
「今川さんが火の中から担ぎ出してくれたんですよ」
 ああ、と私は吐息のように返事を返す。まだぼんやりとしていて私はいきなり目の前 に開けた世界に馴染めずにいる。
「無事でよかった、本当に」
 久遠寺老の後ろに心配げな顔の敦子が座っていた。目が合うと少しだけ微笑んだ。つられるように笑んでみてやっと体の感覚と意識が同調し始めるのが分かった。 焦げた匂いは自分の髪から匂ってくるのだった。それと古びた畳の匂いと。
 帰ってこられたのだ。
 何故かそんな風に感じて私はようやく安らかな気持ちになることが出来た。
 ただ、あの街角に少女を置き去りにしてしまったことだけが気懸かりだった。






 風が吹いている。波が金色に光をはじいている。
 吹く風に全てを剥ぎ取られるような心持ちで私は砂の上に立ち尽くしている。なま温かい水が足下を洗ってゆく。潮の香りに咽せて私は幾つかの空咳を吐き出した。海の水は黄昏の光と同じ金色に染まっていた。
 ああ、この海は生きている。
 私は風と水の温かさに安心する。普段なら不安に思う波が足下の砂を突き崩してゆく感触さえくすぐったいばかりで心地よかった。時折大きな波が私の足首から臑の辺りを濡らしていった。
 方角が違うのか水平線上に落ちる日は見えなかった。ただ夕刻の光がきらきらと波に反射している。沖に向かってその様を眺めていると背後から灰色の声が言った。
「この海は膨張しているのだ」
「生きているからね」
「膨張し続けているということは死につつあるということだよ」
「拡散は死だ」
「果てしなく成長し続けることで世界はその力を失ってゆくのだ」
 そんな話を学生時代の講義で聴いた覚えがある。聞き覚えのある声は恩師の声によく似ている。
「生き続けるということは死に続けるということと同じなのだよ」
 私は灰色の声の主を振り返った。しかしそこに立っていたのはその声の主ではなかった。
 黒い男が一人立っていた。
 自身が影のような、黄昏の光の中でその輪郭はおぼつかない。にもかかわらず私は自分の肉体よりもその男の存在をはっきりと感じることが出来た。
 男がじっと私を見ているのが分かった。私は急にその視線に晒されているのが恐ろしくなった。その男に自分の中の何かが殺され続けていることに気がついたのだ。私は狼狽し視線を彷徨わせ立ち尽くした。
 男は私を見つめたままぬっと手を突きだした。そして私の胸元に指先を掛けると蝶番の付いた扉のように私の胸を開いた。私は呆然と自分の胸に開いた暗い穴を見つめた。吹き付ける風に蝶番がきぃきぃと甲高い音をたてている。
 私は男の顔を見上げた。男は私の胸の中に手を差し込み大輪の白い花を一つ掴みだし海へと投げ捨てた。もう一輪。もう一輪。幾つもの白い花が取り出され海に落とされた。
 男は重たげに花を摘み続ける。その視線、眼の中にひどく無惨なものを見つけて私は目を逸らした。
 やがて夥しい数の白い花が足下を埋め尽くした。
 私は呆けたように波の上を沖へと押し流されてゆく花を眺めていた。






 人の声がする。
「やっと眼を覚ましたか」
 聞き覚えのある騒がしい声が頭の上から降ってきた。
「僕が折角遊びに来ているというのにぐうぐう寝て、」
 仕様のない猿だ、日本人離れした美貌の男が喚いている。
「暑い---」
「炬燵に頭まで潜り込んでいれば当然だろう」
 部屋の主は相変わらず不機嫌そうに読んでいる本から顔を上げもせずに言った。
 襟元から背中までじっとりと汗をかいていた。私は炬燵から這い出すと部屋の中を見回した。見慣れた京極堂の居間だった。
「なんだ、まだ寝ぼけているのか?」
 私の呆けた顔が可笑しいと言って榎木津が笑った。
「ああ、夢を見ていたんだ」
「いつも同じ夢を見ているような気がする」
 誰に言うともなく私は呟いた。
「なんだ、もう帰るのかい?」
 外套を引き寄せた私に京極堂がはじめて目を上げた。
「うん・・・」
「寝て起きて、君は何をしに来たんだい」
「うん、すまない」
 見返した眼の中にひどく無惨なものを見つけて私ははっとする。
「すまない、」
 私の言葉に京極堂は僅かに片眉を上げ怪訝そうな表情をした。自分の言葉がその場にそぐわぬものだったことに気がついて私は赤面し、誤魔化すように慌ただしく外へ出た。
 既に外は暗かった。













「気がついたか」
 目の眩むような強い光に晒されて私は呻いた。再び眼を閉じようとしてキンと耳鳴りが走る。遅れて感じた痛みに頬を張られたことを認識する。
 目の前の男が何か怒鳴っている。よく聞き取れない。再び耳鳴りがする。パイプ椅子の堅い背もたれに背骨が擦られて痛んだ。
 よく聞こえない。人の声が遠い潮騒のようだ。
 目の前の男をよく見ようとして眼を眇めるのだが人の姿が影絵のようにちらちらと瞬いているだけなのだ。彼は私の認識できない光で存在し、私の聞き取ることの出来ない波長で話しているのだ。













 滑り落ちるように私は波間にいる。
 海月のように波にのって彼方の水平線上まで白い花が押し流されてゆく。その植物は私の奥深いところまで根を張っていて摘んでも摘んでもまた蔓を伸ばし花を咲かせるのだ。
 男の無惨な瞳を思い出して私はとても済まない気持ちになった。
 無駄と知っていながら彼に続けさせた自分の仕打ちを呪わしく思った。
 もうこの波打ち際には誰もいない。海が膨張し続けいつか全ての力を失い完全に凪いでしまうまで私はここで温かな水に足下を浸しているのだ。
 死んだ海の畔で私は凍りついている。