「最初はイルカ先生が嫌がるから、とことんベタにしてやれって思ったんだけど、途中から開き直っちゃって。ノリノリだったよ。面白いよね、あの人」
「嫌がってたんですか?」
「折角だから、どっかに遊びに行ったらどうですかっていうから、一緒に行きたいって言ったら、休暇取れないとか、忙しいとかごねるから、じゃあ新婚旅行でって事にしたんだ」
そりゃ、本部に申請しなきゃならないイルカの方は大変だったろう。もっとごねたくなったに決まっている。
「で、行き先も新婚旅行のメッカの南の島にしてやったの」
愛を試してやった。と、ニヤニヤ笑ってアロハ男は言った。
「でも俺はイルカ先生のすごさを再確認したよ。一緒に歩いてると色んな人に道を訊かれるんだ。ガイドだと思われるみたいでさ。地元民じゃないって何度も説明していたな」
カカシはビールの缶を振ってしゅわしゅわと小さな音に耳を澄ませながら語った。
島について半日くらいでもう現地に馴染んでいたそうだ。
堅気ではなさそうな青いアロハの男と地元の青年ガイドが親密そうに歩いている光景を思い浮かべて、そのいかがわしさに頭痛がする。外地に男を買いに来た旅行者だと思われてないといいけれど。火の国のイメージ的に。
統治国家としての火の国のあり方を憂いているヤマトには頓着せず、カカシはまた庭に目を向けた。
「あの人はどこででも生きていけるな」
カカシの零した言葉にどきっとする。
忍を辞めたら、体が動かなくなったら、どこか遠くで、故郷を捨てて。
恋人以外のすべてを捨てて。
そういう選択肢も多分、あるのだ。
あと何年かして、カカシが本当に忍として使えない事を確認したら、そしてイルカがアカデミー教師としての人生に見切りをつけたら。
特定の事柄についての情報を口に出来ないような精神操作を施し、監視役として中忍のイルカをつけて、火の国の国内ならどこへなりとも。里にもそのくらいの温情はあるかもしれない。
「おまえん家の庭を見てさ。羨ましかったんだよね」
カカシは狭い庭を眺めながら言った。入り組んだ住宅街の中のささやかな空間だ。すぐ向こうの空には背の高い集合住宅が見える。
真四角な畳敷きの部屋に冷蔵庫も置けない狭い板張りの台所がついているだけの、小さな下宿だ。庭を潰して広い家にしようとは考えなかったのが不思議なくらいの。
「俺も庭のある家に住みたいなーって思って」
紙と書く物を貸してくれと言われて、ヤマトは背の低い和箪笥からメモ帳と鉛筆を取り出してカカシに渡した。カカシは卓袱台の上でメモ帳に何やら書きつけてヤマトに寄越した。
「新しい住所。気が向いたら来なよ」
驚いた。今、住んでいる場所を教えてくれるとは思っていなかった。
だけど、驚いた自分にも驚いた。
そのくらいの親しさはあったはずだ。
忍を辞めるまで他の者達が知らずにいたカカシの素顔だって、ずっと以前から自分は知っていた。同じ部隊にいた頃は、誰よりも彼の近くを走っていた。
戦闘中は打ち合わせなどしなくても巧みに二人は連携を取る事が出来た。
今、自分がカカシに対して感じている隔たりを自覚してしまうのは辛かった。
−−−この人はもう走れない。
いつでも置いて行かれると思っていたのは自分だったはずなのに。
自分がこの先輩を追い越していく事などあるはずがないのに。
だからカカシが、自分の目の前に姿を現さなくなった、その事を当然と受け止めていた。
死期を悟った猫のように、ひっそりと身を隠してしまったのだと、寂しく、納得していた。
「誰にも土産なんて、買うつもりなかったんだよ。本当は」
本当は、ね。とカカシは小さく繰り返した。
「気を使わせるだけだろうってね」
でも、と覆面をしなくなった素顔が神妙に言った。
「イルカ先生が、世話になった人にはちゃんと挨拶するものだって言うからさ。新婚旅行に行ってきました。まだまだ未熟な二人ですが、今後ともよろしくお願いしますって。言って来いって言うからさ」
大きく開いた窓から初夏の風が吹き込んでカカシの前髪を揺らした。ヤマトの短く切りそろえた黒髪も煽られて逆立つ。胡座をかいたまま後ろ手に畳に手を着いて、カカシはふんぞり返ってにっと口元を斜めにした。
「来て良かったよ」
先輩らしい鷹揚な態度で、のんびりとした声で。
「紅のとこにもさっき行ってきたんだけど、甘い物かよ、ってイヤ〜な顔されたよ」
「そりゃ、酒の方がよかったでしょうね、あの人は」
「子供は喜んでたけどね」
ふふ、と柔らかくカカシは笑った。ヤマトもつられて微笑んだ。
午後の長閑な空気がビールを温めていく。ちびちびと気の抜けた苦さを舌にのせて啜りながら、庭を眺めた。
日の光が赤く色づく頃に、カカシはカンカン帽を被って帰っていった。
朱色がかった空の下で、真っ青のアロハシャツがはたはた風に煽られていて目に映える。
短いささやかな縁に座って、低い垣根の向こうに遠ざかる背中をヤマトは見送った。
誰かに、何かに、感謝しながら。
−−−まだ終わりではないんだ。
「今後ともよろしくお願いします」
マカダミアナッツチョコの茶色い箱に向かってヤマトは頭を下げた。
今度は自分が手土産を持って行こう。
本部で先輩の伴侶となった人の好きな物でも聞き出して。
きっと、長いつき合いになるだろうから。