はたけさんは昔、忍者だったそうだ。
その道の人なら知らない人はいない「すごうでのじょうにん」だったらしい。
今は「イルカ先生のヒモ」なんだそうだ。
お母さんが仕事へ出掛けた後、朝ご飯の食器を片づけてわたしが庭に出ると、はたけさんは庭の小さな畑で草むしりをしていた。
わたしとはたけさんは同じアパートの一階のお隣同士だ。
アパートの南側には小さな庭があって、それぞれ部屋の境界はちくちくした葉っぱの垣根で区切られているのだけど、背伸びをすればすぐにお隣が覗き込めるくらいの高さしかない。うちの庭は時々、大家さんが手を入れてくれるのでそのままほったらかしになっている。勝手に生えてきた白粉花が夕方になると庭の隅で白い花を咲かせる。
はたけさんは庭を石でいくつもの長方形に区切って土を入れ、畑を作っている。夏の初めの日差しを受けてピーマンや茄子やトマト、胡瓜が緑の茂みの中にいくつもぷらぷらとぶら下がっている。
はたけさんはうみのさんという声の大きな男の人と一緒に住んでいる。
うみのさんはわたしのお母さんが出掛けるのと同じくらいの時間に家を出てしまうのであまり会うことがない。忍者アカデミーの先生をしているらしい。
お母さんはお隣の人と関わってはいけないと言うのだけれど、お母さんも他の部屋の人達も仕事に出掛けてしまった後、アパートにぽつんといると、同じように一人で留守番をしているはたけさんが気になって自然に様子を窺うようになってしまった。
わたしは苗の林の中にしゃがんでいるはたけさんを横目に、つっかけを引っ掛けて塀の所まで出ていってみた。お日様のひかりがだいぶあたたかくなってきたのでアオがそろそろ来るんじゃないかと思った。
「アオ、アオ」
私が呼ぶと、ぬるんと灰色の猫が塀の向こうから姿を現した。
向こう側から塀に飛び乗ったのだろうけど、いつも私は大きな魚が水面に浮き上がってきたみたいだと思う。
アオはわたしの猫だ。
家に飼っているわけではないけれど、わたしはそう決めている。
持っていた煮干しを地面に置くと、アオは前足を塀についてそろそろと下に滑らせると、と、たん、と地面に降りてきた。しゃりしゃりと乾いた音をたてて、煮干しを食べる。
「鯖猫だからアオなの?」
はたけさんが声を掛けてきたので、わたしはびっくりした。
わたしがじっとはたけさんの顔を見ているとはたけさんは首を傾げた。
「鯖って青魚でショ?」
私も首を傾げてはたけさんを見た。「でショ」という響きがちょっと変だ。しばらく、じっと黙ってお互いの顔を見合っていた。
「アオーーン」
わたしがアオの鳴き真似をすると、ああ、とはたけさんは頷いた。
「おおきいね、その猫」
はたけさんの言葉にわたしは頷いた。
お昼ご飯はお母さんが冷蔵庫の中に用意しておいてくれたおかずをレンジで温めて食べる。
南向きの硝子サッシから日の光が降りそそいであたたかい。昔、苺を摘みに行ったビニールハウスの中のよう。
昼ご飯を食べ終わると、食器を流しにはこんで水に浸けた。
一人でご飯を食べるようになってからどのくらい経つだろう。前は――どうだったかよく覚えていない。ずっと前、お父さんがいた頃。
一人ですることもないので庭に出た。
はたけさんは庭に置いた縁台の上で胡瓜を囓っていた。洗っただけの胡瓜に味噌をつけてそのまま食べている。じっと見ていると、はたけさんがこちらを向いた。
「食べる?」
きかれて困った。食べたいわけじゃないけど、誘いを断ってまた一人の部屋に入るのも退屈なのだ。
「今、とったばっかりだよ」
はたけさんは目の前の畑を目で示して言った。
大人が子供に語りかける時の変に明るい優しい調子とはかけ離れたのんびりぼんやりした口調で、本当に勧められているのか悩んでしまう。
わたしは垣根の隙間を潜って、はたけさんちの庭へ出た。耳元や手首をちくちくした細長い葉っぱが引っ掻いて白いひっかき傷がついた。
はたけさんはぷらぷらと手を振ってわたしを招き寄せると、縁台の上で胡瓜を盛った籠と味噌の皿をわたしの方へ滑らせた。わたしは縁台の端っこに座って胡瓜を囓った。とったばかりの胡瓜は温くて青臭い味がした。味噌には胡桃が入っていて美味しかった。
はたけさんはごろんと縁台に転がると肘をついて頭を支えながら目を閉じた。
「いい天気だねーえ」
鼻にかかった甘ったるい調子で言った。
はたけさんは白い髪をしている。最初はおじいさんなのかと思ったけど、近づいてよく見たら顔は若かった。前髪が長くて顔の半分は隠れてしまっている。
アオが庭を横切ってきて膝の上にのった。大きなアオはわたしの膝の上からはみ出して、だらりと後ろ足を床に垂らしている。わたしは両手で輪を作って、その中にアオをすっぽり入れた。ごろりと寝返りを打って、アオは白いお腹を見せた。
「でかい猫」
はたけさんはまた言った。
「餌貰って、膝で甘やかされて、いいご身分だねー」
はたけさんは歌うように言った。
ひとしきりゴロゴロしてから、はたけさんはまた畑に入った。茄子とピーマンをもいでビニール袋に入れて戻ってくると、サッシを開けて部屋の中へ入っていった。はたけさんの部屋はうちよりも一部屋多い間取りで、身を乗り出して覗くと、巻物や本が多くて散らかっていた。
はたけさん達が引っ越してきた時は随分と大掛かりだった。
庭を畑に変えて、縁台を置き、思わず上でぴょんぴょん跳ねたくなるような大きなスプリングのマットレスが庭側のサッシから運び込まれた。
「新婚さんみたいだねえ」と大家のおばさんが笑っていた。引っ越し屋さんと一緒にはたけさんもうみのさんも行ったり来たりして荷物を運び込んでいた。
夜には蕎麦を持って二人が挨拶に来た。
お母さんは「今時、珍しいわね」と驚いていた。お母さんは最初はにこにこ対応していたのだけど、うみのさんが忍者アカデミーの先生だと聞いて、怖い顔になった。わたしに、あの二人には近づかないようにと釘を刺した。
その時の蕎麦はまだ食べられないまま戸棚の中に入っている。
はたけさんは奥で冷蔵庫の中を覗いていたけれど、「そろそろ買い物に行くか」と呟きながら戻ってきた。
「お裾分け」と言ってわたしに茄子とピーマンを持たせると、戸締まりをして買い物用の袋をぶら下げて玄関から出て行った。
平日の昼間、アパートにいるのはわたしとはたけさんだけだ。
アパートの裏に大家さんが住んでいて、何かあったらそこへ行きなさいとお母さんには言われている。はたけさんの庭に時々、入ることはお母さんには内緒だ。
わたしは鏡の前で、お母さんが頭に結んでくれた赤いリボンを色んな角度から眺めていた。昨夜はお店のお客さんが持ってきてくれたのだと、お母さんは赤いリボンの掛かった箱に入ったケーキをお土産に持って帰ってきた。
イチゴののった白いケーキはお母さんと二人で食べた。箱に掛かっていた幅広のリボンを捨ててしまうのが勿体なくて、わたしはせがんで頭に結んで貰った。
わたしは庭に来たアオにも余った分のリボンを巻いてあげた。
顎の下を通して耳の前にちょこんとリボン結びにした。アオは耳をいくどかぱたぱたと振ったけれど、されるがままでわたしの腕の中にだらりと抱き上げられた。お揃いが嬉しくてわたしはアオをぶら下げたまま庭を歩き回った。
はたけさんが、いつものように庭に出てきた。わたしとアオを認めると、何とも言えない顔をして吹き出した。
何が可笑しいのだろう。
わたしが呆気にとられた顔をしていると、はたけさんは首を振りながら顔を上げ、また笑った。
アオがリボンを巻かれて神妙な顔をしているのが可笑しいと言う。
「かして」と、はたけさんは垣根越しにアオに手を伸ばして抱き取った。アオの首の後ろにリボン結びがくるように結び直して返してくれた。アオはお金持ちの猫みたいになった。
はたけさんは水撒きに出てきたらしい。
片手に持ったホースの口を絞り、雨のように庭の畑に水を振らせるのを垣根のこちら側からわたしは眺めた。水が飛んでくると思ったのか、アオが腕の中で身を捩った。
ぬるん、とした感触を残してアオが飛び降りる。
いつもされるがまま、だらりとぶら下がっているのに水だけは苦手らしく、猫らしい動きで逃げてゆく。
わたしはカカシさんがホースの雨で虹を作るのを見上げていた。
はたけさんは、今日は朝からずっと縁台で逆立ちをして本を読んでいる。
背中も脚も真っ直ぐに上に伸ばして、片手で柱に立てかけた本のページを捲っている。朝からずっとだから何時間も逆立ちしているのだ。
もと忍者だからなのかなとわたしは思った。
忍者の人達は里の中を暗い紺色の服に枯れ草色のごつごつしたベストを着て歩いていたり、時々は塀の上を走ったり、屋根の上を跳んでいたりする。
もの凄いスピードでびゅんびゅんツバメみたいに跳んでゆくのだ。
わたしも里の人達も、ぽかんと口を開けてそれを眺める。
空を鳥が飛んでゆくのと同じように見慣れた光景なのだけれど、鳥を見上げるようにわたし達は忍者の人達を見上げる。
アオが「にゃーん」と鳴いて、逆立ちしているはたけさんの腕に顔をぐいぐい押しつけた。はたけさんは邪魔そうに片手でアオを押し退ける。アオは構ってもらえて嬉しいのか、尚更にはたけさんの腕に頭を押しつけ、腕の間、はたけさんの逆さまになった顔の下を潜り抜けて、ピンッと立てた尻尾ではたけさんの顔を叩く。
嫌そうに顔を背けるはたけさんがおかしくてわたしは笑った。
私ははたけさんの家の縁台によじ登ってポッキンキャンディー(そう、うちでは呼んでいる。凍らせて半分に折って食べる細長いアイスキャンディーだ)を、ぽきんと折って片方を口に入れた。もう片方をはたけさんに差し出すと、はたけさんは逆立ちしたままで片手を出して受け取ると、器用にそれを銜えた。
その時に見えてしまった。
いつもは前髪で隠れているはたけさんの顔の左側に、大きな傷があった。
わたしはびっくりしたけれど、気づかなかった振りをした。
忍者の人で、体に傷のある人はたくさんいる。
お父さんの腕にも細長くうねった縫い痕があった。
ちゅうっ、と音をさせてポッキンキャンディーを吸った。甘い砂糖水の味が口の中に広がる。
はたけさんはしゃりしゃりとキャンディーを囓りながら、逆立ちして本を読んでいる。
はたけさんはもう、ツバメのようには跳ばないのだろうか。
うみのさんは夜遅く帰ってくるので、はたけさんの庭に行っても会うことがない。
時々、夕方、空の色が薄くなってピンクがかってくる頃に帰ってくることもある。そういう時は、わたしはすぐに自分の部屋に帰るようにしている。
はたけさんはもう忍者じゃないからいいけれど、うみのさんは忍者でアカデミーの先生だから、やっぱり関わってはいけないと思う。
はたけさんはわたしが逃げるように自分の家に駆け込むのに不思議そうな顔をするけれど、あまり気にした風もなくうみのさんの方を向いてしまう。
はたけさんはうみのさんが帰ってくると、それまでしていた事なんて忘れてしまったみたいにあっさりやめてしまう。
まるで、ぜんぶがうみのさんが帰ってくるまでの暇つぶしみたいだ。
わたしにははたけさんの気持ちがわかる。
わたしも家で時間を潰しながら、ただお母さんが帰ってくるのを待っているからだ。
はたけさんの家の玄関の戸が開く音がすると、わたしはすぐに縁台を飛び降りて、垣根を潜って自分の家へ帰る。
「イルカ先生」
はたけさんの嬉しそうな声が後ろから聞こえる。
垣根越しに振り返ってみると、硝子サッシの向こうから顔を出したうみのさんに、はたけさんが「おかえりなさい」と言っているところだった。
うみのさんは穏やかな声で「ただいま」と応える。
やさしい顔をした人だなあと思った。
庭の塀には板と板の隙間が少しだけ空いているところがあって、わたしは時々そこから表の往来を覗いてみる。
いつもアオが現れる塀だ。
向こう側はアパートの裏の狭い小路で、道を挟んで大家さんの家がある。大家さんの家の広い庭には金木犀の垣根があって、塀の隙間からは油っぽい濃い緑色の葉っぱが繁っているのと、白茶けた乾いた道がほんの少し見える。
見知っている場所なのに、塀の隙間から覗くとぜんぜん別の場所のように思える。塀の間を潜り抜けたらぜんぜん別の場所に繋がってるんじゃないかしらと考えるとわたしは怖いような不思議な気持ちになる。
このまま、ひとりで誰も知らない場所へ行ってしまったらさみしいだろうか。でも、不思議と平気のような気もするのだ。さみしいという気持ちさえ置き去りにして、行ってしまえるような気がする。
背伸びをしてじいっと塀の隙間を覗き込んでいると、向こうの庭からはたけさんが呼んだ。
「買い物、一緒に行ってみる?」
わたしは振り返って、垣根の向こうに突っ立っているはたけさんを見た。
ん? とはたけさんは首を傾げた。
塀の隙間がわたしの髪の先をひいているような気がする。
こわい。
うっとりするほど。
「おいで」
はたけさんの声がそれを断ち切った。
わたしは大きくジャンプするように、はたけさんに駆け寄った。
はたけさんは細長い背中を丸めてのそりと塀に背を向けた。
ちくちくする垣根を潜り抜けてはたけさんの庭に入る。生い茂った野菜の苗から独特の青くさい匂いがする。
はたけさんは雪駄をひっかけて、庭の角の裏木戸を開いた。
わたしははたけさんの後について、裏木戸から塀の向こう側へ頭を出した。
そこは見慣れた、アパートの裏の小路だった。
大家さんの庭の上に、青い空が広がっていた。
はたけさんの少し後ろから乾いた道を歩いた。アパートのある小路から表通りに出ると、急に世界が眩しくなった。お母さん以外の人と外を歩くのはすごく久しぶりだ。
わたしはきょろきょろと周囲を見回した。わたしの住んでいるアパートは里の外れにあるので、表通りもお店はまばらだ。
十分くらい歩くと商店街の端っこに出る。昼日中の白い道を、ぱらぱらと人が歩いている。はたけさんはのらくら人を避けながら、ひょろひょろ歩く。わたしは早足でその後を追う。ぶらぶらはたけさんの右手で籐の買い物籠が揺れる。全然そうは見えないのに、はたけさんは足がはやい。
「木の葉西商店街」と書かれた看板の下を通って七軒目の魚屋さんの前ではたけさんは足を止めた。
平たい冷蔵庫の中にうろこを光らせた魚がいっぱい並んでいる。
半透明のくず餅みたいな膜の中に青黒い目がたくさん、こちらを見上げている。
はたけさんは買い物籠を持ったまま腕組みして、冷蔵庫のガラス戸を覗き込んだ。
「鮎か……イルカ先生、好きそうだなあ……」
「塩焼きか天ぷらにするとおいしいよ!」
魚屋のおじさんが大きな声で屈み込んでいるはたけさんに声を掛けた。
「天ぷらはイヤだなあ……」
はたけさんは真剣に硝子ケースを覗いている。
「じゃあ、塩焼きにしなよ。鮎は今時分が一番おいしいからね」
うーん、でもちっさいなあ。とはたけさんは呟いた。
はたけさんがじっと見ているのは黄色い苔の生えたような色の魚だ。他の魚と比べるとちいさい。なのに、値札に書かれた値段はずっと高い。
「喜ぶか、怒るか、どっちだろう。その辺がまだ読めないんだよねえ」
「塩焼きにしてさ、冷酒をきゅっと。旨いよ」
「ううーーーーーん」
わたしは悩むはたけさんを見上げていた。はたけさんの家の夕飯なので、わたしには関係ない。でもあんまり真剣に悩んでいるので、わたしもいっしょに考えてあげなきゃいけないかしらと思った。
「あれ、おじょうちゃん、さんちの子じゃないかい?」
はたけさんの横で考えていると、魚屋のおじさんが急に気がついたみたいに言った。
わたしはぱちくりと、おじさんを見上げた。
「お正月にお母さんと一緒に餅つきに来てただろう?」
今年の初めに町内会でやった餅つきのことを言っているみたいだ。わたしはこくりと頷いた。
「そうだ、そうだ。ちゃんだ」
おじさんは私の名前を呼んで笑った。日焼けした顔に白い歯が覗く。
「っていうの、この子?」
はたけさんがおじさんに訊いた。
「そうですよ。知らなかったんですか?」
「うん。この子、口きかないから」
はたけさんが言うと、おじさんは、え、と一瞬、驚いた顔を見せてから、困ったように口もむにゅむにゅさせた。
「猫としかしゃべらないんだよね」
はたけさんが言うと、ああ、とおじさんは安心した顔になった。
「恥ずかしいんでしょ。人見知りする子みたいだから」
横に立っているはたけさんがわたしを見下ろした。わたしもはたけさんを見上げた。
そうなの? とはたけさんの目が訊いている。わたしは首を傾げた。
「お隣に住んでてね。俺の留守番仲間なのよ」
はたけさんは顔をまっすぐに戻して、おじさんに言った。
はたけさんは鮎を二尾と、鯵を二尾買って帰った。
は何にも買わないの? とはたけさんが、わたしの名前を言ったのでびっくりした。
わたしはお金を持っていないし、買い物はお母さんがして来るから何も買わなかった。
イサキさんは一生懸命、魚屋さんをやっている人だ。
ということが、はたけさんと通っているうちにわかってきた。
「へい、らっしゃい!」
と、いつものように挨拶したあとで、すこしだけ照れたような顔をする。
今のは魚屋っぽかったな、と自分で思っているみたいだ。
はたけさんは可笑しそうに目を細める。
わたしも真似して目を細めた。
「いやだなあ、なんだか親子みたいですよ」
イサキさんは自分が笑われたことがわかるのだろう、恥ずかしそうに首を縮めた。
「え? 親子に見える?」
はたけさんは目を丸くする。
わたしははたけさんを見上げた。
はたけさんは髪が白いし、目の色も鈍い灰色だ。肌の色も白くって、わたしとはぜんぜん似てない。なにより、わたしのお父さんとぜんぜん似ていない。
見えないよ。
わたしは心の中で言った。
はたけさんはぼうっとしたような目をして、「黒髪の子供かぁ……」と、小さな声で言った。
その日は、はたけさんはちいさい鰯をたくさん買った。
アパートの裏木戸を潜って、はたけさんの庭に帰った。
はたけさんはわたしに鰯の入った袋を持たせると、「ちょっと待ってて」と部屋の中へ入っていった。
しばらくして、まな板とボールと包丁を持って出てきた。
「お母さんが働いているんだから、も料理くらい作んないとだめだよ」
そう言って、はたけさんは袋の中の小鰯をボールにあけて、わたしに寄越した。
「そこの水道で洗って、うろこを落として」
わたしは言われるままに、縁台の横の水場で鰯を洗った。ボールの中でじゃぶじゃぶかきまぜていたら尖った胸びれが手に刺さって、びっくりした。痛い。
わたしは手を水から出して、ひれの刺さった指を口にくわえた。血の味がする。
「刺したの?」
はたけさんが訊くので頷いた。
「気をつけなよ」
かして、と言ってはたけさんは自分で鰯を洗い始めた。
一匹いっぴき、掴んで爪の先で鱗をこそいでゆく。
うろこを水で流して、水を切ると、はたけさんは鰯をまな板の上に載せた。
はたけさんが持ってきたうすい刃の銀色の包丁は、うちでお母さんが使っている包丁とは形が違った。細長い葉っぱみたいな形をしている。
はたけさんが鰯のエラの下に刃を入れると、スッと身が骨から剥がれてゆく。小骨を断つ、ぽきぽきという音が聞こえた。
「は生姜をすって」
はたけさんが皿と一緒に盆に載せてきたおろし金と、茶色い生姜のかたまりを顎でさした。わたしははたけさんが鰯をおろすのを横目に、生姜を小皿の上で擦った。
はたけさんはあっという間に、鰯を捌いてお刺身の山を皿の上に作った。
生姜をおろしたお皿に醤油を差して、はたけさんは鰯を一切れ指でつまむと、そこへひたしてぺろりと食べた。
「ん。うまい」
一つ、頷くと、はたけさんはまた部屋の奥へ引っ込んだ。
箸を二膳、持って帰ってきた。
「も食べなさいよ」
箸をわたされて、わたしも一緒にお刺身を食べた。ご飯もなしにお刺身だけ食べるなんて変な気がした。
はたけさんとお刺身を食べていると、アオが庭の奥の茂みからやってきて、甘ったれた声で「にゃああん」と鳴いた。お刺身を一切れ投げると、アオはそれを庭の隅へくわえて走っていき、かふかふと食べ始めた。
この頃、お昼ご飯をはたけさんと一緒に食べるようになった。
はたけさんは庭でとれた野菜で色々なおかずを作ってくれる。
わたしがお母さんが作っておいてくれたお昼ご飯を、はたけさんの縁台まで持っていくと、ふたりで一緒に食べる。
「のお母さんは料理がうまいね」
はたけさんが言うので、わたしは頷いた。
お母さんの作るおかずは味が染みていておいしい。
はたけさんの作る料理は歯ごたえがあってシャキシャキしている。キュウリやナスはいいけど、セロリやピーマンは生の味がそのままして、あんまり食べたくない。わたしがなるべくよけて食べていると、はたけさんは「好き嫌いはダメだよ」と言う。
はたけさんはにんじんとかネギとか、わたしが嫌いな野菜ばっかり好きみたいだ。
今日は雨が降っていて、すこしだけ寒い。
わたし達は縁台の上でカーテンみたいに軒の向こう側を覆っている雨を見ながらご飯を食べた。
アオはわたし達から離れた所に座って、濡れた体をせっせと舐めている。
はたけさんが立ち上がって、サッシを開けて部屋の中へ入っていった。しょうゆを忘れたと言った。
わたしは開いたガラス戸からはたけさんの家の中を覗き込んだ。
はたけさんはわたしを家の中には入れない。
そう言われたわけではないけれど、なんとなく入ってはいけないのだとわかる。
雨の日の家の中は薄暗くて、他人(ひと)の家の匂いがした。
向こう側の襖が少し開いていて、くしゃくしゃのベッドが見えた。
大人の人の部屋だと思った。
前に住んでいた家のお父さんとお母さんの寝室も、あんな感じだった。
こどもは入ってはいけない部屋。でも時々、怖い夢を見たり、寒くて眠れない夜はお父さんとお母さんの部屋に行って、布団に入れてもらって一緒に眠った。長い冷たい廊下を裸足で歩いて、そっと襖を開くと、必ず、お父さんが先に顔を上げた。お母さんは「お父さんは、誰か来るとすぐに起きちゃうのよ」と言って、わたしと二人の部屋で寝起きするようにしようかと言ったけど、お父さんは「いいよ」と言って、いつもわたしを二人の布団の間に入れてくれた。
今は、このアパートにお母さんと二人で同じ部屋に寝るから、寒いとすぐにお母さんの布団に入り込める。お母さんはあったかくて、わたしの冷たい足もすぐにあたたまる。
はたけさんのうちの襖の向こうに見えるのは大きなベッドがひとつだから、はたけさんとうみのさんも一緒に寝ているのだろう。きっと毎晩、あたったかくてすぐに眠れるだろう。
そんな風に考えていたら、おしょうゆを持ってはたけさんが戻ってきて、わたしの視界をふさぐように、サッシをぴしゃんと閉めてしまった。
そろそろ十時になるのに、今朝ははたけさんは庭に出てこない。
わたしはアオを抱っこして自分のうちの窓に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。
うちにははたけさんのうちみたいな縁台がないので、サッシを開けるとすぐにコンクリの地面があって、そのむこうに庭がある。この頃はだいぶ暑くなってきたけれど、お昼前はまだそれほどでもない。
腕の中のアオのお腹の柔らかい毛が腕にあたってくすぐったい。
今日ははたけさんは水撒きをしないのだろうか。
わたしは耳をすまして、お隣の音を聞こうとしたけど、なんにも聞こえない。
お母さんはいつものように、もう仕事に出かけてしまった。はたけさんがいないとつまらないなあ、と思った。
そしたら、いきなり玄関の呼び鈴が鳴った。
わたしはびっくりして、自分のうちの玄関を振り返った。
ドアの外で、誰かがうちの呼び鈴のボタンを押している。
「誰かが来ても、ドアを開けちゃだめよ」とお母さんに言われていたから、わたしは息をひそめてじっとしていた。
何度か、ジージーと呼び鈴が鳴った。それから外で、人の声がした。
「留守なのかしら」
女の人の声が言った。
「そんなはずはないだろう。母親は仕事に行っているが、子供はいるはずだ」
年取った男の人の声も聞こえた。
どんどん、とドアが叩かれて、男の人の声がわたしの名前を呼んだ。
「、」
どんどん、とドアが叩かれる。わたしが答えないでいると、ドアノブががちゃがちゃ回される。
わたしは窓から庭にそうっと降りた。
足音を立てないようにそうっと、アオをしっかり抱いて、垣根をくぐって、はたけさんの庭へ出た。はたけさんの庭の土はやわらかくて、つま先が少しだけしずみこむ。
縁台までたどりつき、アオを上にのせると、わたしもよじ登った。
わたしのうちの開いたサッシから、ドアががちゃがちゃいう音がした。
わたしははたけさんの家の窓をたたいた。
窓の向こうはカーテンが引かれたままで、こつこつ、最初は小さくたたいたけど、はたけさんが出てきてくれないので、てのひらでばんばん窓をゆらした。
はたけさん、開けて。おねがいだから、開けて。
わたしの家の中からドアの開く音がする。
はたけさん!
わたしは声を出さずに呼んだ。
カーテンの向こうから、大きな男の人の手がのぞいて、サッシの鍵をかちゃりと回した。
カラカラとガラス戸が開いて、わたしは夢中でカーテンをめくった。
そしてわたしははっと息を吸い込んだまま固まってしまった。
そこにいたのは、はたけさんじゃなかった。
うみのさんだった。
「!」
垣根の向こうから男の人の声が呼んだ。
わたしのうちの中に入ってきたんだ。
足音が玄関から、こちらへ近づいてくるのがわかった。
――たすけて。
わたしはうみのさんを見上げた。
わたしの気持ちが通じたみたいに、うみのさんは脇によけるとカーテンをまくってくれた。
わたしはうみのさんの足許から、はたけさんとうみのさんの家の中へもぐりこんだ。
薄暗い部屋の中を、四つん這いで音を立てないように進む。部屋の真ん中に置かれた卓袱台のかげに入って丸くなった。
うみのさんは少しだけ開いたカーテンの隙間をさえぎるように立っている。
、、と男の人と女の人の声が呼ぶ。
「おい、君」
窓の外から声がした。わたしは卓袱台のかげでぎゅっと丸まった。
「小さい女の子を見なかったか?」
声はすぐそこからしているような気がした。胸の中で心臓が痛いくらいドキドキした。うみのさん、お願い。わたしがここにいるって言わないで。わたしは膝小僧の中に頭を突っ込んで祈った。
「いいえ」
うみのさんのはっきりした声が言った。
「だが、誰かが窓を叩いていなかったか?」
「猫ですよ」
うみのさんは身を屈めて、窓の外へ手を伸ばした。わたしは卓袱台の足の間からそれを見ていた。
「近所の野良猫なんですが、うちに餌だけ貰いに来るんです」
アオがまだ縁台の上にいるんだ。うみのさんの手の先に、灰色のシマの尻尾が絡むのが見えた。
しばらく、間があった。
「しかし、子供はここを抜けていったようだ」
男の人が言った。
「足跡が残ってる」
あしあと!
わたしはまた顔を膝に埋めた。
昨日、雨が降ったから。はたけさんの庭の土は引っ越してきた時に新しく入れた土だから、まだやわらかくて、足あとがくっきりと残ってしまう。
「隣の子はよくうちの庭を通って、そこの木戸から表へ出ているみたいですからね」
うみのさんが答えて言う。
でも、今、地面にのこっている足あとは、はたけさんのうちの縁台で途切れているはずだ。
「わたしはあの子の保護者なんだ。少し探させてもらうよ」
外にいる人達もそれに気がついているのだろう。そう言って、垣根の枝をガサガサいわせる音が聞こえてきた。
こっちへ来る。
どうしよう、見つかってしまう。
――お母さん。
わたしはそろそろと顔を上げた。あの人達は庭にいる。いまのうちに、はたけさんの家の玄関から外に出ようか。そして、お母さんの働いているお店まで走っていこうか。このままここにいたら捕まってしまう。
――どうしよう。
わたしはゆっくりと立ち上がった。玄関からこっそり出ていって、走って走って、お母さんのところまで行けば――
「止まりなさい!」
うみのさんの声にびくっとわたしは動きを止めた。
「ここは忍の家です。それ以上踏み込むつもりなら、相応の覚悟をして頂きます」
ぴんと張った声でうみのさんが言った。
「あなた方も、一般人には見えません」
おそるおそる振り返ると、うみのさんは真っ直ぐに立って、窓の外へ向いている。うみのさんが言葉を発するたび、頭の上で縛った髪がゆらゆらと揺れる。
「わしらは別に、あんたの家を荒らそうというわけじゃない。ただ子供を探しているだけなんだ」
「わたし達はあの子の親類なんですよ」
窓の外で、男の人と女の人はあれこれとうみのさんに言ったけれど、うみのさんは頑として聞き入れなかった。
どうしてもうみのさんが敷地内へ入る事を許さなかったので、外の人達は「仕方がない。今日のところは帰ろう」と、帰っていった。
わたしは、ほう、と息を吐いて、強張っていた肩から力を抜いた。
うみのさんがからからと戸を閉めて、振り返った。
「もう大丈夫」
にこりと笑うと、うみのさんは優しい顔になった。
「そこに座りなさい」とうみのさんが言ったので、わたしは部屋の真ん中の卓袱台の横に敷かれた座布団の上に座った。
うみのさんは台所へ行って、冷蔵庫を開けるとコップにりんごのジュースを注いで持ってきて、わたしの前においた。
「どうぞ」
うみのさんはやさしく言った。
わたしは正座して四角くなったまま、両手でりんごジュースのコップを持った。うみのさんをそっとうかがうと、にこにことわたしを見ていた。
わたしはりんごジュースを一口、口にいれた。
あまくてすっぱいりんごの匂いが鼻の奥と胸の奥に広がった。
ごくごく飲んだ。
一生懸命、ぜんぶ飲みきってしまうと、うみのさんが目を丸くした。肩で息を吐くわたしを見て、うみのさんは少しだけ困ったように眉を下げた。
「無理にぜんぶ飲まなくてもいいんだよ」
わたしはうみのさんを見上げて、ああ……と口を開いたり閉じたりした。自分が間違ってしまったと思ったからだ。
うみのさんは笑って、「カカシさんから聞いてるよ。いつもカカシさんと遊んでくれてるんだって?」と言った。
カカシさんというのは、はたけさんのことだ。わたしはこくりとうなずいた。
うみのさんはクスクスと笑っている。
うみのさんはもう一度、りんごジュースを注いでくれた。
「ゆっくり飲みなさい」
うみのさんに言われて、わたしはうなずいた。
うみのさんが立ち上がってカーテンを開けると、部屋は明るくなった。白いレースのカーテンを透かして、うみのさんは窓の外を確認してからまた戻ってきた。
「しばらく、ここにいていいよ」
散らかってるけど、と言いながら、うみのさんは床に落ちている丸まったタオルを拾い上げた。脱ぎっぱなしの服も拾って、奥のお風呂場の脱衣所にある洗濯機に持っていった。しばらくすると水を流す音が聞こえてきて、洗濯機が回り始める音がした。うみのさんは洗濯をはじめたらしい。
わたしは座布団に正座して、部屋の中を見回した。
壁沿いに本棚があって、床にまで本がはみ出している。ひもでくくった巻物が何本か、本棚の一番下の棚に突っ込んである。卓袱台の上にも開いたページを下にして、本が一冊置いてあった。オレンジ色の表紙の、ずいぶんと読み古した感じの本だった。
「あの人、また出しっぱなしにして」
ひょいと視界に手が伸びて、戻ってきたうみのさんがその本を掴んだ。
おんなじシリーズらしい本が本棚の端っこに並んでいて、その空いたところに、うみのさんはその本を差し込んだ。
わたしがいるのにお構いなしで、うみのさんは部屋の片づけをはじめた。
床に落ちているものを拾ってはどんどん棚や引き出しに詰めてゆく。床の上に物がなくなると、今度は掃除機をかけはじめた。
向こうの方で洗濯機がごうんごうんと鳴っていて、すぐ横をごおごおと掃除機が通りすぎてゆく。
「男所帯だから、すぐに散らかっちゃうんだよなあ」
うみのさんが言った。
「カカシさんは料理はするけど、掃除はあんまりしてくれないんだ」
そうなんだ。
うみのさんは掃除機をかけ終わると、腕まくりをしながら大股で台所へ入っていった。
「お昼ご飯、食べていくだろう? お好み焼きでいいかな?」
そう訊かれて、わたしはこくこく頷いた。
うみのさんはテキパキとものすごくよく動く。のったりしたはたけさんとは大違いだ。
流しの下の戸棚から鉄板とコンロを持ってきて、卓袱台の上にセットすると、こんどは冷蔵庫の中から新聞紙にくるんだキャベツを一玉、取り出した。
「キャベツとネギ、いっぱい入れような」
ネギがいっぱいと聞いて、わたしはちょっと気が重くなった。
うみのさんがざくざくとキャベツを刻みはじめると、玄関のドアが外から開かれた。
「ただいま」
と言って、はたけさんが帰ってきた。
「おかえりなさい」と答えたうみのさんに、はたけさんは嬉しそうに笑った。それからはたけさんは靴を脱いで、こちらに目を向けた。
わたしが卓袱台の前に座っているのを見つけて、びっくりした顔をした。
「イ……、イルカ先生が、俺のいない間に女を連れ込んで――」
最後まで言わないうちに、うみのさんがペチンとはたけさんの背中を叩いた。
「ほらほら、手を洗って。もうすぐご飯ですよ」
うみのさんに追い立てられて、はたけさんは洗面所へ向かった。手を洗って、がらがらぺっぺっとうがいをする音が聞こえた。
それから、のっそりと居間へ来て、わたしの向かい側に座った。
「イルカ先生、俺にもりんごジュース」
はたけさんに言われて、うみのさんは仰け反って、台所から顔を覗かせた。
「りんごジュース? 野菜ジュースじゃなくて?」
うみのさんはりんごジュースを入れたコップを持ってきて、はたけさんの前に置くと、はたけさんの額に手を宛てて、顔を覗き込んだ。
「頭、痛いんですか? 疲れた?」
心配そうな声でいう。
はたけさんは、ふるっと頭を振って「平気です」と言った。
「ちょっと甘い物が欲しくなっただけです」
うみのさんは、それでも心配そうにはたけさんの顔を見ている。
「検査はどうでした?」
「いつもどおりです。変化無し」
はたけさんは手元に置いた紙袋をがさがさいわせた。
「これも気休めみたいなもんですよ。別にどこも悪くないです」
だから大丈夫、とはたけさんは目を細めた。
「お昼はなんですか? お好み焼き? 俺、イカ玉食いたいな」
キャベツは俺が刻みます。もう刻んじゃったの? イルカ先生、おおざっぱだからなあ。ネギも細く切った方がよく火が通るし、こないだみたいなぶつ切りは勘弁して下さいよ――はたけさんはりんごジュースを飲みながら、うみのさんに色々と注文をつけはじめた。うみのさんは、首を竦めて台所へ退散した。
はたけさんが持って帰ってきた白い紙袋を見ると、青いインキで「木の葉病院」と書かれていた。
うみのさんが鉄板をよく熱して油をひいた。
うみのさんのうちのお好み焼きを焼く鉄板は四角くくて縁のない平たい真っ黒なフライパンみたいなので、小さな丸いガスコンロの上で熱されて、もうもうと黒煙をあげている。
そこへ、うみのさんはネギをばらばらと撒いた。
最初に言ったとおり、うみのさんはネギをたくさん切った。わたしはネギがこんなにいっぱいでは食べられないと思ったのだけど、熱した鉄板の上でこんがりと焼けていくネギからはとてもおいしそうな匂いがしてきた。
うみのさんは焼けたネギの上からお好み焼きのタネを流し込んだ。ジュウウと鉄板が鳴いて、香ばしい匂いが広がる。
「そろそろホットプレート買いましょうか」
はたけさんが言った。
「支給品をこんな事に使ってるなんてばれたら叱られるでしょ」
「みんなやってますよ。ガスボンベは自前なんだから、問題ありません。このコンロの方が火力も強いし、いろんな料理に使えますよ」
「――なんだか野営してるみたいな気分だなあ」
片側半分焼けた生地の上にうみのさんはイカの切り身をのっけた。
それからうみのさんは真剣な顔で、フライ返しと木のへらを両手に構えた。そろそろと、お好み焼きの下にフライ返しをもぐらせてゆく。
「イルカ先生、がんばって」
はたけさんが声援を送ると、うみのさんは頷いて「えいや!」と気合いと同時にお好み焼きをひっくり返した。
お好み焼きは少し横にすべって、生の生地が白くスライディングの跡を引いた。
うみのさんはそれを木のへらでこそいで、お好み焼きの下にしまいこんだ。ちょいちょいと、お好み焼きを鉄板の真ん中に戻すと、元通りの丸いお好み焼きになった。
「うまい、うまい」
はたけさんが喜んで言う。ふん、とうみのさんは鼻息を吐いてわたしを見た。にっこり笑う。つられてわたしも笑う。
じゅうじゅうと美味しそうな匂いがする。
こんな風に人と一緒にごはんを食べるのは久しぶりかもしれない。
いつも一人か、お母さんと二人、この頃ははたけさんと二人でお昼を食べているけれど、うみのさんが一緒なだけでとてもにぎやかに思える。
うみのさんは木べらでお好み焼きをぱんぱん叩いた。こんがりきつね色の上にソースを垂らし、かつお節をふりかける。かつお節が生きているみたいにふらふら踊るのを見て、また笑い合った。
青のりをまぶしたら出来上がりだ。
「マヨネーズ、かけるか?」
皿に取り分けて貰ったお好み焼きを食べようとしたら、うみのさんがちゃぶ台の向こうから腕を伸ばしてマヨネーズのチューブを渡してくれた。中ぶたの星形の穴からねちりとマヨネーズを皿に絞り出す。
「やっぱりお好み焼きにはマヨネーズだよな」
うみのさんが言うと、はたけさんが嫌そうな顔をして「邪道……」と呟いた。
「カカシさんは好みがうるさいから」
うみのさんは大きな口でがぶりとお好み焼きに食いついた。
「だって、ネギが嫌いですよ」
はたけさんが言ったので、わたしはお好み焼きを口に入れたまま思わず背筋を伸ばした。
「ネギ、嫌いだったのか?」
うみのさんが目を見開いてわたしを見た。わたしは答えに困ってしまう。ネギは嫌いだけど、うみのさんの焼いてくれたネギのたくさん入ったお好み焼きは美味しいと思う。
答えられないでうろうろ目を泳がせていたら、うみのさんは
「でも、こうやって食べると美味しいだろう?」
と聞いてくれた。
わたしはこくこく頷いた。
うみのさんはにっこりした。
うみのさんは食べながら次々と鉄板の上でお好み焼きを焼いた。三人で四枚のお好み焼きを食べた。お昼だけでおなかがぽんぽんになった。
お昼を食べ終わった後、うみのさんが鉄板を仕舞いに台所へ行ったので、わたしも自分の使ったお皿とおはしを持ってうみのさんの後につづいた。
背伸びして流しの中に食器をつけると、うみのさんはにかっと笑った。
「えらいな、自分の分は自分でちゃんと片づけるんだ」
ほめられてわたしは恥ずかしくなってうつむいた。
「のお母さんはしっかりした人なんだな」
そう、うみのさんが言ったので、わたしは嬉しかった。
うみのさんの後について部屋にもどると、はたけさんは卓袱台の横でころがっていた。
うつぶせで、ひじをついて、足をぶらぶらさせている。
アオが寝そべってぱたん、ぱたんとしっぽをふっている時とよく似ている。
うみのさんは、はたけさんの食器も流しに持っていって洗い始めた。
わたしは卓袱台の横に座って、部屋の中を見回して、はたけさんの様子をうかがった。はたけさんは体を伸ばすと、さっきうみのさんが本棚にしまったオレンジ色の本を引っ張り出して読み始めた。
わたしは窓の外を見た。
もう、あの人達はいなくなっただろうか。また戻ってきていたりしないだろうか。
窓にそろそろと近づいて、レースのカーテンを少しだけ捲って外を見てみた。
はたけさんの庭には誰もいない。
わたしの家はどうだろう。
見えないだろうかと頭を窓にくっつけていたら、上の方でかしん、と鍵を外す音がして、からからと窓が開いた。うみのさんが後ろから、わたしの頭越しに窓を開けたのだ。
「誰もいないよ」
うみのさんは左右を見渡して言った。
にゃあああん、と声がして、縁台にアオが飛び乗ってきた。わたしが手を伸ばすとアオは体を擦りつけてきた。わたしはアオを抱っこした。
うみのさんも身を屈めて、アオを撫でた。
「おっきい猫だなあ」
うみのさんがびっくりしたみたいに言った。
アオの柔らかいお腹が腕の中でむにゅむにゅして気持ちいい。
その日はお母さんが帰ってくるまで、はたけさんとうみのさんの家にいた。
夜、布団の中で暗闇の中をじっと見ていると、どこまでも奥へ奥へと空間があるような気がする。そこに天井があって、壁があると分かっているのだけど、何もないつもりになって目を凝らすと、底のない暗がりを覗き込んでいるみたいな気がする。
しばらくそうやって目を凝らしていると、今度は真っ黒な壁が目の前にあるような気もしてくる。
どこまでも何もない暗がりが続いているのかもしれない。すぐ目の前は行き止まりなのかもしれない。
隣に寝ているはずのお母さんも、いないみたいな気がしてくる。
息を詰めて、目を見開いている。なんにも見えない。
寝そべっているのが自分の家の暖かい布団の中なのか、知らないどこかなのか分からなくなってくる。
突然、犬の吠える声が聞こえて、わたしは我に返った。
だんだん暗さに目が慣れて、見慣れた部屋が見えてくる。やっぱり、ここは自分の家のお母さんと私の部屋で、隣にはお母さんが眠っている。もぞもぞと寝返りを打って、私は声のする方へ目をやった。
わんわん! と勢いよく犬が吠えている。
わんわん、わんわん、壁の向こうのお隣から聞こえてくるみたいだ。
「やめなさい! ちょっと……!」
うみのさんの声がした。
やっぱり、お隣のはたけさんの家から聞こえてくるらしい。
「やめなさい! やめなさいって! ばかッ!」
ガタガタ、バタン、と音がして、うみのさんが何か言っている。
どうしたんだろう。
今日の昼間は見なかったけれど、今まで見た事もなかったけど、はたけさんの家では犬を飼っているのだろうか。
うみのさんが犬に吠え掛かられているみたい。小声で叱っている声も聞こえる。
はたけさんは助けてあげないのだろうか。
心配になったけど、お母さんは眠っているし、もう夜中だし、どうしよう。
暫くすると静かになった。
それからもっと時間が経って、わたしがうとうとしはじめた頃。
お隣から小さく、犬の声が聞こえてきた。
ふん、ふん、くぅん、と甘えた声を上げている。
ああ、かまってほしかったんだ。
柔らかく甘ったるい、その声を聞いていると安心して、わたしは眠ってしまった。
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