アオは自分のしっぽが大好きだ。
今も縁台の上に寝っ転がって、ぱたぱたと尻尾を振って、自分で自分のしっぽを捕まえては噛みついたりして遊んでいる。
わたしにしっぽはついていないから、それがどんな気持ちなのか分からない。
今日のはたけさんも同じだ。
縁台の上に横向きに転がって、オレンジ色の本を読みながらにまにま笑っている。
わたしがいることなんて気がついていないみたい。
アオもはたけさんも、一人で楽しそう。
ちょっと呆れてしまう。
わたしは縁台の端っこに座って、転がっているはたけさん越しにはたけさんの家の窓を覗き込んだ。
昨夜の犬はどこにいるんだろう。
うみのさんに構って欲しがって吠えていた犬。
きっと甘ったれにちがいない。あんなに吠えつくなんて、ちょっとわがままでやんちゃかもしれない。
なのに、人がいる時に出てこないのはなんでなんだろう。人見知りするのだろうか。はたけさんには懐いていないのかもしれない。うみのさんの前にしか出てこないのだろうか。
うみのさんは大変だなあと思った。
今日は曇っているけれど、暖かい。雨の日が続いていたけど、もうじき晴れてきそうだ。お日様が出たらきっと暑いくらいだろう。
お昼が近くなって、やっとはたけさんは起きあがった。
お昼ご飯にそうめんを茹でて、庭からもいできた胡瓜に味噌を付け、わたしも一緒にかじった。
はたけさんはいつもにもまして、ぼーっとしている。
ご飯を食べるとまた寝転がってしまった。なんだか怠そう。
はたけさんが起きないので、わたしは庭に降りてはたけさんの植えた野菜の苗を見て回った。
トマトの苗にアブラムシがくっついていて、茎から汁を吸っていた。
アブラムシがつくと、植物は枯れてしまうからよくないなと思った。
テントウムシはアブラムシを食べるから、テントウムシを放すと良いんだと、お祖父さんが言っていた。赤くて黒い星が七つついているテントウムシは害虫を食べてくれるけど、星の数が二十八のやつは逆に植物の葉っぱを食べてしまうからよくないのだ。
お祖父さんの庭はもっと広くて、大きな木が植えられていた。
お祖父さんと一緒に庭に水撒きをした時のことを思い出した。
わたしはナナホシテントウがいないかなと思って、庭の隅の雑草の茂みを覗き込んだ。黒い細長い体の羽虫や、豆粒みたいなコガネムシがいた。しゃがみ込んで茂みの中を探していると黒い背中に赤い星が二つついたテントウムシがいた。わたしはナナホシテントウの方が赤くて好きだけど、フタツボシテントウもアブラムシを食べると聞いたから、それを捕まえてトマトの茎にくっつけた。
アブラムシを食べないかなと思ったのに、テントウムシは急に違う場所につれてこられてびっくりしたらしく、アブラムシの背中の上を行ったり来たりするばかりでなかなか食べない。
どんな風に食べるのかみたいのに。
じっと座っていたけどテントウムシはウロウロするばかりなので、つまらなくてわたしはまた縁台に登った。お日様が出てきて暑くなってきた。日陰に入るとほっとする。
はたけさんは本を読むのをやめて、体を丸めて頭を抱えていた。
寝ているのかなと思ったのだけど、頭を押さえている手に力が入って震えているのに気がついた。灰色の髪を掻きむしるようにした指先が白くなっている。
様子がおかしい。
わたしははたけさんの顔を覗き込んだ。白い肌に汗が滲んで青白くなっている。
アオも気がついて、はたけさんに近寄ってきて心配そうにうろうろし始めた。
アォン、と鳴いて、アオがはたけさんの血の気の失せた頬に鼻先をくっつけると、はたけさんは小さく唸った。
とても苦しそうな押し殺した声。
「」
低く、はたけさんはわたしを呼んだ。
「悪いけど、氷持ってきてくれる?」
左眼を押さえて、はたけさんは言った。
笑ってみせようとしたみたいだったけど、顔を顰めたようにしか見えなかった。
わたしはすぐに縁台を飛び降りて、自分の家に走った。
掃き出し窓から中へ入り、台所の冷蔵庫の上の扉を開けた。製氷皿を取り出して、ビニール袋に氷を詰めて、水も少し入れた。
私が氷の入った袋を渡すと、はたけさんはそれを左眼にあてて深く息を吐いた。
少しは楽になったのだろうか。
はたけさんは左眼に氷を宛て、もう片方の手できつく頭を押さえている。
毛布を掛けてあげた方がいいだろうか。でも冷やした方がいいのかもしれない。
どうしたらいいのか分からなくて、わたしは色々、迷いながらはたけさんのそばに座っていた。
考えているうちに、昨日、うみのさんが言った事を思い出した。
りんごジュースが欲しいとはたけさんが言ったら、うみのさんは心配そうに「頭痛い?」と聞いていた。
はたけさんは頭が痛い時、りんごジュースが欲しくなるんだ。
自分の家にりんごジュースはなかったから、わたしははたけさんの家に入った。どこかに犬が隠れていて、急に吠え掛かられたりするんじゃないかとおっかなびっくりで足を踏み入れたけれど、何も出てはこなかった。
わたしは昨日うみのさんがしたように、冷蔵庫からりんごジュースを取り出して、流しの横に伏せてあったコップに注いで、はたけさんの所に持っていった。
寝ているはたけさんの前にりんごジュースを置くと、はたけさんはまた苦しそうに顔を歪めて笑ってみせた。
「ありがとう」
コップを掴みそっと顔を持ち上げて、はたけさんはりんごジュースを啜った。
半分くらい飲むと、はたけさんはまた体を横たえた。
はたけさんは目を閉じ、眉の間に皺を寄せている。
わたしは自分が病気の時にする事を思い出そうとした。
お布団に横になって、お母さんが氷枕をしてくれる。ビタミンCが入ってるからとオレンジジュースを飲む。それから、薬。
――薬だ。
昨日、はたけさんが持っていた紙袋。青い文字で「木の葉病院」と書かれていた。病院でくれるお薬の袋だ。
わたしはもう一度、はたけさんの家に入った。
昨日、はたけさんが紙袋を置いた卓袱台の上にはもうなかった。
茶箪笥の扉を開いてみる。引き出しも開けてみる。メモ帳や短い鉛筆、細々とした物が詰まっていて、薬の袋はない。
台所の流しの上や食器棚も見たけれど、見つからなかった。上の方の戸棚は手が届かない。
居間に戻って、左手の襖を開けた。中には大きなベッドがあって、床には服が散らばっていた。うみのさんが着ていた黒い、忍者の人が着ている服と、はたけさんの白いTシャツが一緒になって丸まっている。ベッドの上では毛布が足もとの方へ押しやられている。
わたしは薄いタオルケットを引っぱって、腕に抱えた。薬は見つからない。
縁側に戻ると、はたけさんにタオルケットを掛けてみた。
はたけさんは水色のタオルケットにすっぽりくるまってじっとしている。
薬が見つからない。
お医者さんに行ったら貰えるだろうか。でも、はたけさんは自分では歩けそうにない。わたしがはたけさんを運んでいくのは無理だ。わたしははたけさんの傍でうろうろと落ち着かないアオを見た。アオも不安そうにわたしを見上げた。
私ははたけさんの庭の隅、板塀の端っこにある木戸を見た。
はたけさんといつも行く商店街の魚屋さんのもっと向こうに、お医者さんの看板があったのを覚えている。じゅうびょうにんが出た時は、お医者さんは黒い大きな鞄を持って家に来てくれる。ずっと前にお祖父さんの家にお医者さんが来ていたことがあった。
「一人で外に出てはだめよ」という、お母さんの言葉を思い出す。
水色のかたまりになってしまっているはたけさんを見た。アオが首を傾げる。
わたしはしゃがんでアオを抱き上げると、庭に降りて靴をはいた。
それから、ゆっくりと木戸に向かって歩いた。
錆びた取っ手を回して引くと、ぎきぃいと音をたてて木戸はひらいた。
アオをしっかり抱いてわたしは外へ出た。
はたけさんといつも歩く道だ。一人で外へ出てはいけないとお母さんは言ったけど、アオが一緒だからいいだろう。
向かいの大家さんの庭には垣根に沿って、背の高いムクゲの花がこちらを見下ろしている。うすいピンクで、真ん中だけ赤紫だ。たっぷりと花粉をつけた黄色いおしべが花びらと一緒にゆらゆら揺れる。
塀に挟まれた細い路地を抜けると、商店街にでた。
明るい通りには買い物をしている人がちらほらいるだけだ。わたしは周囲を見回してから、商店街へ踏み出した。
そうしたら急に腕の中でアオがにょろにょろ動き出した。
しっかり抱きなおそうとするのだけれど、アオの体はくにゃくにゃで腕をすり抜けてしまう。アオはわたしの手から抜け出して、肩をよじ登り、頭の後ろへ回ってしまった。背中を踏み台にされたわたしはアオが落っこちないように自然と前かがみになって顔が上げられない。
手を肩越しに回して足を捕まえると、アオは引きずり降ろされまいと背中に爪を立ててきた。
痛い、痛い!
通り過ぎる人がわたしとアオを見てクスクス笑った。
笑い事じゃないのに。笑っている場合じゃないのに。早くお医者さんに行かないといけないのに。
アオの足を掴んだ手を無理矢理引き寄せようとすると、アオはわたしの背中を蹴って地面に降りて、そのままお店とお店の間の狭い隙間に滑り込んで消えてしまった。
アオ、アオと呼んだけれど出てこない。
しばらく、建物の間のせまいすき間をのぞき込んでいたけれど、しかたなしにわたしは立ち上がった。まわりを見回してみた。金物屋さん、布屋さん、なにを売っているのか分からないお店、小さい酒屋の錆びたトタンの壁を通り過ぎて、いつも行くイサキさんの魚屋さんのもっと向こうに、こんもりとそこだけ緑の葉っぱが茂っていて、その間に白い看板が見える。
「指定医療忍機関」と読めない漢字の列の横に、一回り大きな文字で「ヤマメ医院」と書かれている。
よじれたような形の椿の木があって、ジージーと蝉が一匹だけ鳴いている。そういえば、今年初めて聞く蝉の声だ。小さな門の奥に剥げかけたオレンジ色の木の扉が見える。わたしはそっと門の中に入っていった。
玄関のドアの周りには色硝子がはめ込まれていて、古いけれどきれいな家だった。こんな古い家は今の木の葉では珍しい。ドアを開けて中へはいると、板張りの床に黒い皮の長椅子が並んでいた。
奥へ続く廊下の手前にある受付には誰もいない。
薄暗い廊下を進んでいくと、つきあたりに階段があって踊り場の窓から明るい光がさしていた。
廊下の左側にドアがひとつ、あった。
ドアは開いていた。のぞき込むと大きな木の机が窓際に置かれていて、白いカーテンで仕切られた部屋の奥には白いシーツを敷いただけのベッドがあった。
中を見回してみたけど、だれもいない。
ごめんください、と言おうとしたのだけど、やっぱりわたしの口からは声が出なかった。
開いた口の奥で、喉の中でわたしの声は溜まり込んで出てこない。
わたしは開きかけているドアを叩いた。
トントン。
もう一度。
トントントントン。
「はいはい。聞こえておるよ」
しわがれた声がして、部屋の奥のベッドの脇のドアから白衣を着たおじいさんが現れた。
ぼさぼさの白髪頭で眼鏡をかけている。
聴診器を首にかけているからお医者さんだとわかった。
知らない大人の人を前にして、わたしはすごく緊張してしまったのだけれど、とにかくはたけさんを診てもらわないといけないと思って、それを伝えようとした。
じゅうびょうにん。いえにきてください。
わたしはぱくぱくと口を動かした。
お医者のおじいさんは「ん?」と首を傾げて、わたしの方へ身を屈めた。
じゅうびょうにん。はたけさんをみてください。
繰り返して口を動かした。声が出ないのがもどかしい。わたしはなんども繰り返して、口を動かした。
「もっと、ゆっくりしゃべってくれんか」
お医者さんは眼鏡をずらして目を凝らすような仕草をした。
わたしはゆっくりと、一言ずつ区切って口を動かした。
「じゅう、びょう、にん。はたけ、さん、の、家、に、来て、ください」
お医者さんは、ようやくわたしの口の動きを読んでくれた。
「病人がいるのか」
うん、うん、とわたしは頷いた。
「今、用意しよう」
お医者さんは机の下から黒い大きな鞄を引っ張り出して、肩に掛かった聴診器を仕舞い込んだ。それから机の引き出しから、いろんな道具を鞄の中に移した。
わたしはドアの外へ出てから中を覗き込んだ。お医者さんが鞄を持って歩いてきたので、先に走り出すと、「待ちなさい。そんなに走らないで――」くれんかのぉぉ、と間延びした声が後に聞こえる。玄関のドアを飛び出して、後ろを振り返って少し待った。お医者さんは鞄を抱えて、ゆっくり靴を履いて、えっちらおっちら歩いてくる。
お医者さんがついてくるのを確かめながら、わたしは商店街を走って、路地を曲がった。路地の入り口でまた少し待った。お医者さんが追いつくと、また走って、わたしの住んでいるアパートの塀の所まで行った。板塀の端っこの板戸を開けると、もう振り返らないでまっすぐはたけさんのいる縁台へ駆け寄った。
はたけさんは水色のタオルケットから抜け出して、縁台の縁から落ちかかったように倒れていた。頭がぐったりと地面に向けて垂れている。近づくと、つん、と酸っぱいような臭いがした。
縁台の下、地面の土にはたけさんの吐いたものが広がって浸みていた。
はたけさんはぐったりとして、動かない。
わたしははたけさんを見下ろして立ち尽くした。こめかみのあたりから、すーっと冷たくなった。
昔、こんな風になってしまった人がたくさんいた。わたしはそれを覚えている。
その人達はみんな、どこかへ片づけられてしまって、もうどこにもいないのだ。はたけさんもこのまま動かなかったら、どこかへ片づけられてしまうかもしれない。
木戸をくぐって、お医者さんがやっと庭に入ってきた。わたしははたけさんから目が離せずに立っていた。
私の横からお医者さんは縁台に鞄を置いて、はたけさんを見た。
「これはいかんな」
呟くと、ひょいと縁台に登った。
倒れているはたけさんの脇に屈んで抱き起こすと、仰向けに寝かせた。まず口元に手を持っていって呼吸を確かめた。仰向けになると小さくだけど、はたけさんの胸が上下しているのがわたしにもわかった。
動いている。
とりあえず、ほっとした。
それからお医者さんは、はたけさんの前髪を掻き上げて、閉じた目蓋を指で押し上げて目の中を覗き込んだ。わたしも一緒に覗き込む。はたけさんの額には汗の粒がびっしりと浮かんでいた。目蓋の間のほとんど白目になっている上の方に灰色がかった黒い目がぎょろりと見えた。
少し考えて、お医者さんははたけさんの左眼の目蓋も押し上げた。傷がある方。目が開いたのでわたしはびっくりした。
目蓋の下は塗りつぶしたように真っ黒だった。目がないのかと思ったけど、ちゃんと目の玉は入ってるみたいだった。濡れた真っ黒なガラス玉をはめ込んだみたいだった。真っ白い顔に、真っ黒な目玉のお化けみたい。無理に開かされた目からたらりと涙が流れた。痛いような、怖いような気持ちがしてどきどきした。
「はたけ……あの、はたけか?」
お医者さんは小さく唸って、はたけさんの目蓋から手を放した。
「体が冷えてる。布団に寝かせよう」
そう言ったけど、お医者さんは自分より背の高いはたけさんを持ち上げる事ができなかった。わたしにも無理だ。
仕方がないから、部屋の中の座布団を集めて布団代わりに敷くと、その上にはたけさんを寝かせた。わたしはお医者さんと一緒に、さっき入った寝室に行って毛布を持ってきて、はたけさんにかけた。
「よく、こんな事はあるのかね?」
お医者さんにきかれて、わたしは首を傾げた。
あたまが、いたくなる。りんごじゅーすをのむ。
昨日からのはたけさんの様子をわたしは説明した。
どこかに、くすりが、ある。
口をぱくぱくして伝えると、お医者さんは立ち上がって、部屋の中をきょろきょろと見回した。わたしも一緒にあちこちの引き出しをもう一度、開けてみた。
寝室でお医者さんがベッドの脇の引き出しからくしゃくしゃの薬の袋と注射器を見つけた。袋の中には粉薬の袋と、細長いガラス瓶みたいなものが何本か入っていた。
「痛み止めか」
細長いガラス瓶に書かれた文字を読んで、お医者さんが言った。
「こっちは血行を良くする薬だ」
お医者さんは注射器と薬の袋を持ってはたけさんの所まで行くと、鞄から銀色のまるいケースを取り出した。中には濡れた脱脂綿が詰まっていて、消毒薬のにおいが、つん、とした。お医者さんは脱脂綿ではたけさんの腕を消毒して、それから細長いガラス瓶を、細くくびれたところから折って、中の薬を注射器で吸い取った。針の先を上に向けて、じっと見ながら注射器の空気を抜くと、お医者さんははたけさんの腕をとった。
半袖のTシャツからのびたはたけさんの白い腕に、注射の針が刺さるのをわたしは自分が痛いような気持ちで見ていた。
「しばらく様子をみよう」
お医者さんはそう言って、はたけさんの腕を布団の中にしまった。
「いっしょに住んでいるのは君だけか?」
お医者さんにたずねられて、わたしは首を横に振った。
わたしははたけさんと一緒に住んではいないし、ここにはうみのさんも住んでいる。
「家の人はどこにいるんだね?」
うみのさんは仕事に行っている。
お医者さんは少し考えてから、鞄から小さくたたんだ白い紙を取り出した。
広げると鳥みたいな形をしていた。不思議な文字のような模様のようなものが墨で書かれていた。お医者さんはその紙に、一緒に鞄から出した短い鉛筆でなにか書き付けると、元通りたたんだ。
「家の人に連絡を取るから、どこにいるか教えてくれるかね?」
わたしはちょっと考えた。うみのさんは忍者アカデミーの先生だから、きっとアカデミーにいると思う。
にんじゃあかでみーにいます。
わたしが口を動かすと、お医者さんは頷いて、たたんだ紙を窓から外へ放り投げた。
空に向かって投げあげられた紙は、そのまま落ちてきそうになって、でも落ちる前に、羽を広げて空をすべって飛んでいった。
わたしはぽかん、とそれを見上げた。
忍者の人が使う式鳥だ。
このお医者さんも忍者なんだ。
わたしがお医者さんの顔をびっくりして見つめていると、お医者さんは不思議そうな顔をした。
「君だって忍者の家の子供だろうに。そんなに珍しかったかね?」
わたしは答えずに、縁台に出て式鳥の飛んでいった方角を眺めた。あっちに忍者アカデミーがあるんだ。
しばらく並んだ屋根の向こうを見ていたけれど、もう式鳥も見えなくなってしまったので、部屋に戻った。足下にさっき、わたしがはたけさんに渡した氷水の入ったビニール袋が落ちていた。氷はもう溶けて小さくなっていた。
「頭部は冷やした方がいい。水枕はないかな?」
お医者さんが言った。わたしははたけさんの家のどこに水まくらがあるか分からない。わたしの家では洗面台の下に氷まくらが入っているけれど。
わたしは庭に向いた窓から外に出て、自分の家に戻ることにした。
わたしが縁台から飛び降りて、垣根を潜っていくと、お医者さんはびっくりして「どこへ行くんだ?」と叫んだ。わたしは答えずに自分の家に入った。
洗面所の下の棚からだいだい色のゴムのまくらと、口をとめる金具を引っ張り出して、また垣根を潜ってはたけさんの家に戻った。
「お隣さんから黙って借りてきたのか!?」
お医者さんはまだびっくりしたままだ。
わたしは首を振った。
これは、うちの。
わたしのうちの。
説明したけど、お医者さんはまだ首を傾げていた。
わたしは水まくらを持って、はたけさんの家の台所に行った。冷蔵庫の上の扉を背伸びして開けた。はたけさんの家の冷蔵庫は大きくてなかなか手が届かない。背伸びをして氷のお皿を取ろうとしていたら、お医者さんが取ってくれた。氷をまくらの中にあけて、水を入れると、お医者さんはまくらの口を留め金でぱちんと閉じた。
洗面所できれいなタオルを巻くと、お医者さんは水まくらを寝ているはたけさんの頭の下に敷いた。
はたけさんは白髪なんだと思っていたけれど、お医者さんのぼさぼさの白い髪とはちがった。お医者さんの髪は太さの不揃いな針金みたいにぐねぐねとしているけれど、はたけさんの髪はつやつやしていて太さもそろっている。色もお医者さんの髪はちょっと黄色っぽい。はたけさんの髪は、アオの灰色の縞の白っぽいところみたいな色だ。
若いのに白髪なんだと思っていたけど、猫の毛並みといっしょで生まれつきこういう色なのだろうか。
きれいなガーゼではたけさんの額をふくお医者さんの横に座って、わたしはそんな事を考えていた。
式鳥を飛ばしてから二十分くらいした頃、外の廊下を誰かの足音が近づいてきた。
足音ははたけさんの家のドアの前で止まって、がちゃがちゃと鍵が鳴ってドアが開いた。
うみのさんが帰ってきた。
「すみません、あの、」
うみのさんは肩で息をしながら、靴を脱ぎちらかして大股で部屋へ入ってきた。
わたしはお腹のそこから空気が抜けるように息をついた。
よかった。
「あの、」
うみのさんはわたしとお医者さんの顔を交互に見ながら、なにか言おうとしているのだけど息が整わないでいる。
お医者さんはうみのさんの顔を見て、左側の襖の向こうの寝室を何度も見た。目がまん丸になっている。
お医者さんは気を取り直したように、うみのさんに向き合った。
「お邪魔しとりますよ。わしはそこの通りのヤマメ医院の者なんだが」
式を飛ばしたのは自分だとお医者さんは言った。
「この子が医院まで来て、病人がいるから診てほしいと言うから上がらせてもらいました」
うみのさんは大きく頷いて、はあ、と息を吐くと、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「カカシさんは――」
「さっき、痛み止めの注射を打ったから落ち着いてきとる。木の葉病院から処方されたアンプルを使わせてもらった」
「はい、ありがとうございます」
うみのさんはもう一度、頭を下げた。
「まあ、落ち着いて。座ったらどうかね」
「はい」
うみのさんはお医者さんと向き合って正座した。
「よくこういう事はあるのかね? 嘔吐や気を失うほどの痛みの発作が」
うみのさんはぎゅっと顔を顰めて、ほんの少し斜め下へ目を向けた。
「月に一度ほど」
「木の葉病院から出されている薬を見るかぎり、偏頭痛か群発性頭痛のようだな。即効性がある薬だから十五分もすれば効いてくる。もう大丈夫でしょう」
「あの、」
うみのさんは迷いながら口を開いた。
「月に一度、木の葉病院へ行くと発作が起こるようなんです」
うみのさんは寝ているはたけさんを、自分も痛いような顔で見つめた。お医者さんは首を傾げながらうみのさんに尋ねた。
「病院へ行くと?」
うみのさんは口を開いて、少しだけ迷ってから言った。目はずっとはたけさんの事を見ている。
「ただの検査だと本人は言っているんですが、なんらかの治療の副作用ではないかと――」
お医者さんは卓袱台の上に置いた薬の袋を手にとって眺めた。
「これは一般には鎮痛剤として扱われているが、正確には脳の受容体に作用して血管を収縮させる薬だ。眼球の裏側の動脈を選択的に収縮させる」
「はい」
うみのさんは頷いた。
「だが、こちらの粉薬は血行を良くするための薬だ。効き目は緩やかで日常的に薬湯で飲むような」
お医者さんはうみのさんの顔を注意深く見ながら言った。
「薬で代謝をコントロールしているように思える」
「――木の葉病院に行った後は、ひどく気が高ぶるようなんです」
思わずといった風に、お医者さんは寝室の襖に目を向けた。また、うみのさんの顔を見る。
うみのさんもお医者さんの視線につられたように寝室の襖を見た。わたしもいっしょに寝室の方を見て、うみのさんの顔を見た。
うみのさんは、お医者さんと私の顔を見て、それからはたけさんを見た。
うみのさんと目が合った。
ひゅっと、うみのさんは息をのんだ。それからみるみる顔が赤くなった。
「いや、まあまあ。二人とも男盛りだしな」
お医者さんはそう言ってなだめるように手を振った。
うみのさんはますます赤くなった。
オッホン、とお医者さんが咳払いをした。
「わしはしがない町医者でな。中央の病院が何をやっているかまでは分からないが――あれが写輪眼か?」
シャリンガン、とお医者さんは知らない言葉を言った。
「今はもう、ただの目です。視力はほとんどないはずです」
お医者さんは腕組みをして重たく頷いた。
「治療というのは、目の治療かね?」
「いえ――彼は一度、チャクラを使い果たして、それからチャクラを練れなくなったんです。もちろん、中央の病院で様々な治療を受けました。でもチャクラは戻らなかった。だから退役して忍をやめました」
チャクラを練れなければ忍術は使えないというのはわたしも知っている。この里の子供はみんな小さい頃に「てきせいしけん」を受けて忍者になれるかどうか確かめる事になっている。わたしもうんと前に受けた事がある。
「綱手様も手を尽くして下さって治らなかったものを、今更治せるものでしょうか?」
うみのさんに訊かれて、お医者さんは腕組みしたまま唸った。
「さてなあ。チャクラが練れなくなるというのは経絡の流れが滞ったり、乱れが生じているという事だろうし、やはりこういった薬で気長に代謝を整えていくしかない、というのが大方の医者の見解だと思うが」
お医者さんは粉薬の方を指差して言った。
「頭痛の原因は、憶測ではなんともいえんな」
うみのさんはお医者さんの言葉に黙ってうつむいた。
「しかし、度々こんな事があるのでは不安だろう。あんたも働いているようだし、病人と子供だけを家に残している状況というのも心配だしな。娘さんもそろそろ学校へ上がる歳じゃろう?」
お医者さんの言葉にわたしはどきっとした。恐る恐るうみのさんの顔をうかがうと、うみのさんは困った顔で笑って、
「いえ、娘ではなくて。この子はお隣の子なんです」
と言った。
お医者さんはぱちぱちと瞬きをして
「ああ、そうか、そうか。わしゃ、てっきり……」
と焦ったように笑った。うみのさんはまた少し赤くなった。
お医者さんは鞄から何枚かの紙切れを取り出して、何かを書きつけた。さっき、うみのさんを呼ぶのに使ったのとおんなじ鳥の形をした紙切れだ。
「これを投げればうちの医院に届くようにしたから、何かあったら呼びなさい」
お医者さんは鳥の紙をうみのさんに渡して言った。うみのさんは頭を下げて、「ありがとうございます」と言った。
お医者さんが帰ると、うみのさんははたけさんのそばに座って、じっとはたけさんの顔を見ていた。
はたけさんの顔はもう苦しそうではなかったけれど真っ白だ。
うみのさんははたけさんの前髪をかきあげて、とても大切そうにほっぺたを撫でた。
傷のある方の眉を指先で辿って、髪を梳いた。
てのひらで痛いのを吸いとっているみたい。
わたしはうみのさんの手がやさしく動くのを見ていた。そしたら、庭から「ナァーン」と声がして、アオが歩いてきた。
さっき、アオがわたしを置いて逃げ出してしまったことを思い出してわたしはちょっと怒った。
今頃、やっと戻ってくるなんて。
はたけさんが大変だったんだからね。
わたしはアオを叱ってやろうと思って縁台に出た。アオは縁台の下で地面のにおいをかいでいた。縁台の下の地面にははたけさんの吐いたものが広がっている。
さわっちゃダメだとアオを追い払おうとしたけど、アオは耳をうしろに倒して鼻をくっつけそうにかがみこんでにおいを嗅いでいる。
わたしが縁台の下を覗き込んで、アオを追っ払おうと手を振っているとうみのさんが立ち上がってやってきた。
「ああ、吐いちゃったのか」
うみのさんは地面に広がったものを見ると、つっかけを履いて縁台を降りた。庭の畑の畝をよけながら庭を突っ切り、隅にあるちっちゃな小屋の戸をがこがこと鳴らして引いた。はたけさんの庭仕事道具が入っている物置だ。古くて建てつけが悪いのか、いつも扉がなかなか開かない。
うみのさんは苦労して戸を細く開くと、中に手を伸ばしてスコップを持ってきた。そして、はたけさんの吐いたあたりの地面を掘り返してきれいに埋めた。
「これで、よし」
地面に突き立てたスコップに寄りかかってうみのさんは頷いた。縁台の下のそこだけ、湿った黒い土が盛り上がっている。
「」
うみのさんに呼ばれてわたしは顔を上げた。
「ありがとう。お医者さんを連れてきてくれて。すごく助かったよ」
うみのさんは優しい顔でにっこり笑った。わたしは恥ずかしくなって俯いた。
庭から部屋にはいると、はたけさんの様子をもう一度見てからうみのさんは「ご飯にしようか」と言った。
わたしが部屋に入ると、アオも一緒に庭から部屋に入ってきた。
アオは入っちゃダメ。
わたしが外へ押しだそうとしたけど、アオはわたしの手をすりぬけて部屋に入ってこようとする。アオは大きくてつるつるの毛皮で、わたしの手の中に入りきらない。
しばらくアオと押し合っていたら、うみのさんがひょい、とアオを抱き上げた。
「足をふいたら入っていいよ」
洗面所にぞうきんがあるからと言われて、わたしははたけさんの家の洗面所へ入った。すみっこに青いバケツが置いてあって、ぞうきんが何枚か掛けてあった。わたしは一番きれいそうなのをえらんで持っていった。
庭の水場で濡らして絞ると、うみのさんが抱っこしているアオの足を一本ずつ、きれいにふいた。アオは濡れたぞうきんがいやなのか、ばたばたと暴れたけれど、うみのさんはしっかりとアオを抱いていてくれた。
「ほら、もういいぞ」
うみのさんが手を放すと、アオはぱっと逃げ出して、縁台の上の端っこまでいくと、せっせと足を舐めだした。うみのさんは笑って、立ち上がるとぞうきんを洗面所に持っていった。
わたしは座って、アオが体中を舐めているのを見ていた。
うみのさんは台所でお昼ご飯の支度をはじめたみたいで、ごそごと音が聞こえる。
はたけさんは目を閉じたまま、毛布にくるまって動かない。
少し心配になって、近くに寄ってみた。じっと見ていると、はたけさんの胸のあたりがちいさく上下しているのがわかって安心した。
大股の足音がして、うみのさんが台所から戻ってきた。うみのさんはこっちを見ないでまっすぐ寝室へ入っていった。襖のむこうからごそごそと音がして「あーーー」とか「うーーー」とかうみのさんが言っているのが聞こえた。
しばらくすると、真っ赤な顔でシーツを抱えたうみのさんが出てきた。また、こちらを見ないで真っ直ぐに洗面所に入っていった。
洗面所からゴンゴンと洗濯機の回る音が聞こえてきた。
それに混じって、うみのさんの唸り声がした。
うみのさんが素麺を茹でてくれて、一緒に卓袱台で向かい合って食べた。
はたけさんの庭で取れた胡瓜を薄く切って、うみのさんは素麺の鉢に浮かべた。
うみのさんは鶏肉のそぼろと厚焼き卵も作ってくれた。卵焼きはちょっと焦げているけど甘い。
アオがやってきて、自分も欲しそうに卓袱台のそばをうろうろした。ほうっておいたらだんだん調子にのって、わたしの膝に前足をのせて、伸び上がってわたしの食べている卵焼きにふんふんと鼻を鳴らした。
さっき、はたけさんの吐いた地面の臭いを嗅いでいた鼻先を近づけてくるから、わたしはお箸を持っていない方の手でアオを押しやってどかせた。なのに、またアオはわたしの口元に鼻を近づけてくる。座っているわたしと、伸び上がったアオの顔はちょうど同じくらいの高さになる。わたしが身を捩ってアオから逃げようとするのに、しつこく迫ってくる。
うみのさんが卵焼きを一つ摘んで、床に置いた新聞紙にのっけた。
「ほら」
うみのさんに呼ばれて、アオはそっちに寄っていった。まだほかほか湯気の立っている卵焼きに鼻を寄せてにおいをかいで、くしゃん、とひとつくしゃみをした。
うみのさんが笑う。
猫舌のくせにアオはまだ熱い卵焼きを、かふかふと音立てて食べ始めた。
わたしとうみのさんもまた素麺を食べ始めた。
お箸で麺をすくうたび、ガラスの鉢の中で氷がからころと音を立てた。
遠くで蝉が鳴いている。まだそんなにたくさんの声じゃない。
いつのまにかお日様の光が強くなっていて、窓から差す光が当たっている畳の上は熱そうだ。わたしとうみのさんのいる部屋の中はひんやりして静かだった。
「せんせい」
小さくかすれた声がした。
うみのさんは、さっと振り返ってはたけさんのそばに寄った。
「起きたんですか」
はたけさんの顔を覗き込んで静かに言う。
はたけさんに掛かっている毛布の端が日にあたって、温かいにおいがしている。
「あの、ね」
はたけさんは小さな声で、恥ずかしそうに言った。
「俺、縁側に――」
うみのさんはにっこり笑って、はたけさんの髪を梳いた。
「大丈夫。もうきれいに埋めてしまいました」
それから、
「いい肥料になりましたよ」
と言った。
はたけさんは「先生のバカ」と拗ねたように言うと、毛布に顔を埋めてしまった。頭を撫でるうみのさんの手を握ったまま。
うみのさんは、ははは、と声を上げて笑った。
起きあがったはたけさんは、もう具合が良くなってしまったみたいで、うみのさんにもう一人分素麺を茹でてもらって食べ始めた。
大根おろしとすりおろした生姜を汁の中にたくさん入れて、ぞろぞろと麺を啜っている。
食べ終わってしまったわたしは縁台の上で、寝そべっているアオの耳をいじっていた。アオの耳は大きくてすべすべで冷たくて触っていると気持ちいい。アオは嫌がってぱたたた、と小刻みに耳を振る。それが面白くてわたしは繰り返しアオの耳を指でつまんだ。
「ぎりぎりまで我慢しないで、さっさと薬を使えばいいのに」
食器を片づけながら、うみのさんが言った。はたけさんが元気になったとたん、小言が始まっている。
「がいてくれたからよかったけど、いつもそんな訳にはいかないんですからね」
うみのさんの言葉にわたしの名前が出てきたので、背中を向けたままでわたしを耳をそばだてる。
「がお医者さんを呼んでくれたんですよ」
うみのさんは怒った顔でいうけれど、とても心配しているのが分かる。
「そういえば、イルカ先生、仕事は?」
はたけさんは聞いているのか、いないのか、ちがう話を始めてしまう。
「早退してきたんですよ! あなたが倒れたって聞いたから!」
うみのさんは声を大きくした。わたしはうみのさんに味方してあげたい気持ちになった。
「がお医者さんを呼びに行ってくれて、お医者さんが式を飛ばしてくれたんです! アカデミーまで! 俺は授業の途中で飛んで帰ってきたんですよ!」
顔を赤くして捲し立てるうみのさんに、はたけさんはきょとんとした顔をしている。
「昨夜だって、無理しないでさっさと寝なさいって言ったのに! シーツだって替えないままで――」
「イルカ先生、今ここでそんな話しちゃっていいの?」
はたけさんはわたしの顔をちらっと見た。
うみのさんは真っ赤になって「うああああ、もう!」と叫んで、台所へ逃げ込んでしまった。
それから、洗面所の洗濯機から洗濯物を取り出して、どすどすと足音を立てて出てきた。居間を抜けようとするうみのさんの腰に、箸を銜えたはたけさんがすがりついた。
「イルカ先生、怒っちゃイヤ」
「バカ!」
うみのさんははたけさんの口からお箸を取り上げて、ぱしんと卓袱台の上に置いた。
しゃがんだ拍子にはたけさんががっしり抱きついてしまって、うみのさんはしりもちをついた。
「いッ……!」
うみのさんは短く叫んで、歯を食いしばったまま動きをとめた。
「あ、ごめん」
はたけさんは謝って手を放したけど、うみのさんはぺたりと床に座ったまま動けないみたいだった。そんなにひどく腰を打ったのだろうか。
「このっ!」と叫んで、うみのさんは拳骨を振り上げた。はたけさんがびくっと肩をすくめた。うみのさんは少し考えて、拳骨をほどいて掌を広げると、はたけさんの頭をほさほさとなでた。
さっきまではたけさんが頭が痛くて倒れていたのを思い出したんだろう。
はたけさんは飼い主になでてもらった犬みたいに、もっと、と頭を差し出した。調子に乗るなというように、うみのさんははたけさんの頭をぱしんとはたいた。それからちょっと呻りながら、床に手を着いて起きあがると洗濯籠を持ち直して縁側から庭に出て行った。
はたけさんの庭には畑の横の手前の所に洗濯干しが立ててあって、うみのさんはそこに洗濯物を干し始めた。うみのさんは真っ先に白いシーツを広げて竿に引っ掛けて、ぱんぱん、と音をさせてきれいに広げた。
うみのさんは屈んでは籠から洗濯物を取り出して竿に干していく。うみのさんはいつも動きがきびきびしていて元気だ。
部屋の方を振り返るとはたけさんが同じようにうみのさんの背中を見ていた。わたしが見ている事に気がつくと、はたけさんは「しょうがないね」というように笑った。
しょうがないのははたけさんの方だとわたしは思った。
はたけさんはまたそうめんを食べ始めた。ずずーっと音を立てて麺を啜ると、「」とわたしを呼んだ。
「のお昼ご飯も持っておいで。一緒に食べちゃうから」
わたしが心の中でずっと気にしていた事をはたけさんが言ってくれたのでわたしはびっくりした。
うみのさんがそうめんを作ってくれたので一緒に食べてしまったのだけど、今日もお母さんが作っておいてくれた昼ご飯があったのだ。この間、ここでお好み焼きを食べた時も家にご飯があったのに、うみのさんの作ってくれたお好み焼きを食べてしまって、お母さんのご飯を食べなかったから、「どうしてご飯を食べなかったの」とお母さんに叱られてしまった。だから、本当はわたしは家に帰ってお母さんの用意していってくれたご飯を食べなくてはいけなかったのに、一人で家でご飯を食べたくなくてうみのさんとそうめんを食べてしまった。
またお母さんに叱られるし、お母さんのご飯が残っていたらきっとお母さんはがっかりするから、後で家に帰ってから食べなくちゃいけないけど、お腹が一杯だから食べられるだろうかと心配していたのだ。
はたけさんが食べてくれると言ったので、わたしはすぐに庭から回って自分の家に行って、お母さんの用意してくれたご飯をお盆ごと取ってきた。垣根を潜る時にちょっと葉っぱが引っ掛かったけど、しゃがんでうまく通った。
「今日は炒飯か」
お皿を取ってとはたけさんが言うので、わたしは食器棚から中くらいのお皿を取ってきた。
「も半分食べなさいね」
はたけさんはお皿に炒飯の半分を盛りつけて、わたしの前に置いた。
わたしはお盆にのっていたスプーンで炒飯を掬って食べた。
はたけさんは素麺を食べていた箸で炒飯を食べている。お母さんの炒飯はパラパラなのでお箸では食べにくいと思う。
わたし達が炒飯を食べていると、洗濯物を干し終わったうみのさんが部屋に戻ってきた。
「あれ? どうしたんです、それ?」
うみのさんははたけさんのお皿を覗き込んで訊いた。
「のお昼ご飯ですよ。のお母さんは毎日、お昼ご飯を用意してくれているんです」
あ、とうみのさんは口を開けて、わたしを見た。それから机の上の炒飯のお皿を見た。
「イルカ先生は子供を見るとすぐ、ご飯を食べさせようとしますけど、にはお母さんがいるんですからね」
はたけさんがたしなめるように言う。わたしはせっかくうみのさんがご飯を作ってくれたのに気を悪くしてしまうんじゃないかと心配になった。
「そうですね。にはお母さんがいて、ちゃんとご飯を用意してくれるんですよね」
うみのさんは顔をくしゃりとさせて笑った。
怒ってはいないみたいだけど、そうしたら今度は、うみのさんはもう一緒にご飯を作って食べてはくれなくなるかもしれないと思ってがっかりした気持ちになった。
お母さんのご飯はきらいじゃないけど、冷たくなったご飯を一人で食べるのはやっぱりさみしいしおいしくない。
「そうかあ。いいお母さんだなあ」
うみのさんはわたしの気も知らないで、屈み込んでわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうですよー。だから俺とはいつもお互いの昼飯を持ち寄って縁側で食べてるんです」
はたけさんが言うと、うみのさんはふっと笑った。
「なんだか鍵っ子同士みたいですね」
「留守番仲間ですもん、俺達」
はたけさんが言うと、うみのさんは腕を伸ばしてはたけさんの頭をくしゃくしゃにした。
休みの日の前日、はたけさんは庭に水撒きをすると、縁側の窓を開けたままにしてお風呂掃除を始めた。
わたしは縁側からアオと一緒にその様子を眺めていたけど、まだはたけさんの体が心配だったから、靴を脱いでそっと部屋にあがってお風呂場のドアの所まで行ってみた。
はたけさんは泡の出るスプレーをお風呂場のタイルの床や壁や、天井まで吹きかけていた。お風呂場の窓も開いていて、縁側からの風が一気に部屋の中を抜けていく。
はたけさんはスプレーのノズルを構えると、天井と壁の角に沿って吹きかけてゆく。黒かびの生えた所にも上手に狙い撃ちしていく。百発百中だ。
明日はうみのさんがお休みの日だから、お風呂場をきれいにしておくとごほうびが貰えるんだそうだ。掃除をしてくれないらしいはたけさんでも、ごほうびがあるとちがうらしい。
「は入っちゃだめだよー」
はたけさんはわたしに言った。
「これは塩素系の洗剤だからね。触ると皮膚が溶けちゃうよ」
わたしはびっくりして、洗面所の方まで避難した。
「目にはいると失明する事もあるからね。はなれてて」
はたけさんの言葉に、わたしははたけさんのお化けのような真っ黒な左眼を思い出して怖くなった。はたけさんはお風呂掃除をしていて、あんな眼になってしまったのかもしれないと思った。
「アルカリ性の洗剤と混ぜて使うと毒ガスが出て、死んじゃう事もあるからね。注意しないとダメだよ」
はたけさんは一通り、洗剤を撒き終わると、長い柄のモップで天井から擦り始めた。上からだんだん下の方へ、垂れてくる洗剤に当たらないように、お風呂場の戸口に立って腕をいっぱい延ばして、はたけさんはお風呂場中をきれいにこすった。
天井と壁が終わると今度は風呂桶の中に洗剤を撒いて、ゴム手袋を嵌めた手でスポンジを握ってこすってゆく。縁も、外側も、それから体を洗う洗い場も。
「ぬるぬるしてたらやだもんねえ」
排水溝にたまった髪の毛やゴミも割り箸でつまんで取る。ゴミがなくなってからモップでみがく。
うみのさんはお風呂が好きだから、お風呂場がきれいになっていると機嫌が良いのだそうだ。
お風呂場の中ぜんぶを洗うと、最後にはたけさんはシャワーで水を出して天井から泡を洗い流した。
わたしは脱衣所から、しゃがんではたけさんが掃除をするのを見ていたけど、はたけさんが「おしまい」と言ったので、お風呂場の戸口まで行って中を見回した。
新品の家のお風呂場みたいにぴかぴかになっていた。
これだったらうみのさんじゃなくても気持ちいいだろうなと思う。
はたけさんは、一仕事終えて満足そうな顔をしている。
洗面台で手を洗って、濡れた手足をタオルでふくと、台所へ出て行った。
窓を開けて風通しが良くなったお風呂場は、濡れたタイルも風呂桶もどんどん乾いていって、すごく気持ちよさそうだ。
「」
名前を呼ばれてわたしも台所へ行った。はたけさんが冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐと、わたしに持たせてくれた。自分の分もコップに注ぐと、一緒に縁側に出て腰を下ろした。
はたけさんは疲れたのか、麦茶を半分くらい飲むと、転がって目を閉じた。
さっきから縁側で寝ていたアオと一緒に眠ってしまったみたいだ。
わたしは庭の畑の上を通って、縁側の窓から部屋の中に吹き込んで、お風呂場の窓から抜けてゆく風にあたりながら麦茶を飲んだ。
朝起きると、部屋の中がむわっとしている。
厚い掛け布団は寝ている間に汗をかくようになったので、押し入れにしまって、かわりに薄い夏掛け布団をお母さんが出してくれた。
カーテンを開けると真っ黄色の眩しい光が飛び込んでくる。いつの間にかたくさんの蝉が鳴いている。朝なのに昼間みたいな賑やかさだ。
お母さんはもう起きて台所でご飯を作っている。わたしは急いで布団をたたんで、顔を洗って歯を磨く。お母さんが仕事に行く時間になる前に準備しないといっしょにごはんが食べられない。パジャマを着替えて、お母さんのいる台所へ行った。ご飯のお茶碗を受け取って卓袱台の上に並べる。
それから卓袱台の、わたしのピンク色の座布団のところに座った。卓袱台の上にはもう目玉焼きといんげん豆のごま和えと、白菜のお漬け物の小鉢がのっていた。最後にお母さんがおみそ汁のお椀を二つ運んでくると、一緒に朝ごはんを食べた。
白菜の漬け物の、うすい緑色の葉っぱでご飯を巻いて食べるととてもおいしい。
白くてぶあついところも噛むと、かしかし音がしておいしい。
「は白菜のお漬け物が好きねえ。すぐなくなっちゃうわ」
お母さんは笑って言う。
お母さんの生まれ育った家は山の上にあったから、冬になると野菜がなかなか手に入らなくなって、毎日毎日、白菜のお漬け物ばかり食べていたのだそうだ。白菜のお漬け物は古くなってくると酸っぱくなって、お母さんはあんまり好きじゃなかったと言った。
はたけさんの庭には今日も、たくさんの野菜がなっている。
最近、はたけさんが気にしているのは庭の右側の方、わたしがいつもはたけさんの庭へ入るためにくぐっている垣根の近くに植えてあるトマトだ。
最初は堅そうな緑色の小さな実だったのに、だんだん黄色くなって、ピカピカした皮がだんだんにぶくなってきて、ついに両手におさまらないくらいの大きな赤いトマトになった。
はたけさんはおおきな笊を脇に抱えて、ちょきん、とトマトの実をはさみを使ってもいだ。
「これは、なかなかのトマトじゃない?」
はたけさんはつくづくとそのトマトを眺めながら言った。
まるまると大きくて真っ赤なトマトは本当に立派で、お店で売っているのよりずっとおいしそうだ。
「いいにおい」
はたけさんはトマトを三つもぐと、笊にのせたままひょいひょいと縁台に登って、家の中へ入っていった。
わたしは繁ったトマトの葉の中をのぞきこんで、他にも赤くなっているトマトがないかと探した。トマトの苗は不思議なにおいがする。青臭いけど、普通の葉っぱのにおいとはちがう。しょっぱいみたいなにおい。
トマトを食べる時はそんなににおいはしないのに。
トマトの葉っぱを触ってみると、白くてかたい毛が生えていてごわごわしていた。
「」
はたけさんが縁台から呼んだ。
わたしは立ち上がって、はたけさんのいる方へ、ぴょんぴょんと畝をよけていった。
はたけさんは縁台の上で白いお皿にトマトを並べて待っていた。
台所でトマトを洗ってきたらしい。手を着いてのぞき込むと、はたけさんが塩の瓶を、ことん、と目の前に置いた。
「食べてごらん」
トマトは丸ごとのまま、お皿の上で真っ赤につやつやしている。
わたしはそっと、その一つを掴んでみた。大きなトマトを両手で包んで、はたけさんを見上げると、はたけさんは片手でトマトを摘んで、がぶりとかじりついた。
じゅるっと汁を啜って、むしゃむしゃと食べている。
「おいしい」
はたけさんが言うので、わたしも両手の中のトマトを口元まで持っていった。大きく口を開けて、歯をあてる。ちょっとかたい。
思い切ってかじりつくと、ぶちゅっと実がわれて、汁がいっぱい溢れてきた。
口いっぱいに青臭い、しょっぱいような味が広がった。
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