黒猫横町
彼の姿を目にしたのは随分と久しぶりだった。
とはいえ、それまで頻繁に行き来があったわけでもない。
以前、同じ部隊に所属していた頃や、一緒に部下の修行をつけていた頃はともかくとして、お互いに任務から任務へ渡り歩くような生活で、個人的に会う時間などほとんどとれなかった。
それでも彼が同じ組織の人間であった頃は本部ですれ違ったり、ミーティングで顔を合わせたりすることは多かった。
今、彼の名は風の便りの端々に耳にする程度だ。
チャクラを失い、忍をやめて、今は里のどこかでひっそりと情人と暮らしているという。
退役した忍など、噂に上らぬ方がいいに決まっている。
その、たいそう久方ぶりに現れた、悲劇的なエピソードを幾つも背負った元里の英雄は、イカレたターコイズブルーのアロハシャツにカンカン帽を被ってヤマトに家の庭先にへらりと笑って立っていた。
「テンゾウ」
相変わらずの低く甘い声で、人の名前を軽々しく呼ぶ。
「上がってもいいかな?」
山茶花の低い垣根の向こうから、手に提げた紙袋を振って彼は訊いた。
「新婚旅行のお土産を持ってきたんだ」
部屋に通すなり、彼はヤマトの度肝を抜く科白を吐いた。
「は、あ……」
驚愕したヤマトの顔に気づかないのか、カカシはがさごそと紙袋を鳴らして茶色い箱を取り出した。
マカダミアナッツチョコ。
「やっぱり定番でしょ。おまえ、甘い物大丈夫だったよね?」
「大丈夫ですけど……」
カカシの着たシャツの青さが目に痛い。鮮やかなターコイズブルーに南洋の植物が黄色とオレンジと銀で描かれ、胸には深い翡翠色の鸚鵡がとまっている。植物の葉の一枚一枚、鸚鵡の羽の一本一本までが精緻な図案で描かれている、見事な染めだ。しかも、このてらってら加減は絹じゃないだろうか。
「ん? このシャツ?」
胸元の鸚鵡を凝視しているのに気がついたのか、カカシも自分の胸元に目をやった。
「綺麗だろ。イルカ先生が選んでくれたんだ」
という事は、やっぱりあの先生と新婚旅行に行ってきたのか。
実際のところ、たしかにそのシャツはカカシによく似合った。
白い肌に鮮やかな深みを持った青の色がよく映える。繊細な銀の線がカカシの銀髪に合っている。
だが、しかし。
カカシは忍術を使えない体になったが、体術だけでも相当の使い手だ。自然、身のこなしも目つきも鋭い。ぎりぎりまで絞り上げ、鍛錬されてきた肉体である事が、開襟の胸元から、半袖の袖口から覗いている。
ド派手なアロハシャツと、整った顔立ちも相まってまったく堅気の人間に見えない。というか、どっからどう見ても悪い人です、この人。
悲しい現実だ。
ヤマトは己の未来の姿を見たような気分になって思わず遠くを見た。
忍を引退しても、多分、自分も堅気の一般人には見えないだろう。
それから、彼の恋人について考えた。
(新婚旅行に行ったらしいので既に配偶者かも知れない)
あの先生は何を考えて、この男にこんな恰好をさせているのだろう。
あの先生という人が、ヤマトには今ひとつ理解出来ない。
見るからにこんな男の情人をやるような人物とは思えない。健全で健康的で、真面目な常識人にしか見えないのに、何が彼の琴線に触れて、同性の恋人を持つ身になったのか。
それから、この先輩と、よくまあ、恋人づきあいなんて恐ろしい事が出来るものだなと思うのだ。
庭に目を向けていると、カカシも黙って庭を見た。
ヤマトの住んでいる下宿屋は、建物自体は小さく、サイコロを二つ重ねたような形をしているのだが、木の葉の中心部に近い立地であるのに小さな庭がついている。
ヤマトが最初に住んだのは病院棟の奥まった一室で、その次が公営の宿舎だった。監視と管理のしやすい場所にいる事。それが、自分のためにも、里のためにも要求されていた。
数年前にようやく自由に住む場所を選ぶ事が許された。
郊外の一軒家というのは夢だったが、二十四時間いつでも任務に駆り出される身でそれは不可能だった。家に帰る時間もなくなってしまう。
そこそこ木の葉の本部棟に近く、大門から里の中央へ至る道筋からそう遠くないところ。そういう条件で探してこの家を見つけた。
小さな庭。
それでここを選んだ。
掃き出し窓からいい風が吹いてくる。ようやく暖かくなってきたなと思っていたら、いつの間にか汗ばむような日が続いている。
ヤマトは座ったまま体を伸ばして部屋の隅の小さな冷蔵庫から缶ビールを二本、取り出した。
カカシに一本渡して、自分もブルタブを引き開けた。
喉を鳴らして半分ほど飲んでしまった。細やかな炭酸の泡が滑らかに喉を滑り落ちる感触を楽しむ。
カカシに目を戻す。
「――――――」
カカシもビールの缶を開けてごくごくと美味そうに飲んでいる。
「その、先生も同じようなシャツを――?」
ああ、うん、とカカシはどうとでも取れる返事をしてから、ヤマトへ視線をくれた。
「イルカ先生には俺が買ってあげたんだ。白いマオカラーのシャツがあってさ。アロハは火の国からの移民の服で、元からの住民の正装はそっちなんだって。イルカ先生、似合い過ぎちゃってさ。地元民にしか見えなかったな」
とりあえず、お揃いの真っ赤なアロハとかでなくてよかった。
「最初はイルカ先生が嫌がるから、とことんベタにしてやれって思ったんだけど、途中から開き直っちゃって。ノリノリだったよ。面白いよね、あの人」
「嫌がってたんですか?」
「折角だから、どっかに遊びに行ったらどうですかっていうから、一緒に行きたいって言ったら、休暇取れないとか、忙しいとかごねるから、じゃあ新婚旅行でって事にしたんだ」
そりゃ、本部に申請しなきゃならないイルカの方は大変だったろう。もっとごねたくなったに決まっている。
「で、行き先も新婚旅行のメッカの南の島にしてやったの」
愛を試してやった。と、ニヤニヤ笑ってアロハ男は言った。
「でも俺はイルカ先生のすごさを再確認したよ。一緒に歩いてると色んな人に道を訊かれるんだ。ガイドだと思われるみたいでさ。地元民じゃないって何度も説明していたな」
カカシはビールの缶を振ってしゅわしゅわと小さな音に耳を澄ませながら語った。
島について半日くらいでもう現地に馴染んでいたそうだ。
堅気ではなさそうな青いアロハの男と地元の青年ガイドが親密そうに歩いている光景を思い浮かべて、そのいかがわしさに頭痛がする。外地に男を買いに来た旅行者だと思われてないといいけれど。火の国のイメージ的に。
統治国家としての火の国のあり方を憂いているヤマトには頓着せず、カカシはまた庭に目を向けた。
「あの人はどこででも生きていけるな」
カカシの零した言葉にどきっとする。
忍を辞めたら、体が動かなくなったら、どこか遠くで、故郷を捨てて。
恋人以外のすべてを捨てて。
そういう選択肢も多分、あるのだ。
あと何年かして、カカシが本当に忍として使えない事を確認したら、そしてイルカがアカデミー教師としての人生に見切りをつけたら。
特定の事柄についての情報を口に出来ないような精神操作を施し、監視役として中忍のイルカをつけて、火の国の国内ならどこへなりとも。里にもそのくらいの温情はあるかもしれない。
「おまえん家の庭を見てさ。羨ましかったんだよね」
カカシは狭い庭を眺めながら言った。入り組んだ住宅街の中のささやかな空間だ。すぐ向こうの空には背の高い集合住宅が見える。
真四角な畳敷きの部屋に冷蔵庫も置けない狭い板張りの台所がついているだけの、小さな下宿だ。庭を潰して広い家にしようとは考えなかったのが不思議なくらいの。
「俺も庭のある家に住みたいなーって思って」
紙と書く物を貸してくれと言われて、ヤマトは背の低い和箪笥からメモ帳と鉛筆を取り出してカカシに渡した。カカシは卓袱台の上でメモ帳に何やら書きつけてヤマトに寄越した。
「新しい住所。気が向いたら来なよ」
驚いた。今、住んでいる場所を教えてくれるとは思っていなかった。
だけど、驚いた自分にも驚いた。
そのくらいの親しさはあったはずだ。
忍を辞めるまで他の者達が知らずにいたカカシの素顔だって、ずっと以前から自分は知っていた。同じ部隊にいた頃は、誰よりも彼の近くを走っていた。
戦闘中は打ち合わせなどしなくても巧みに二人は連携を取る事が出来た。
今、自分がカカシに対して感じている隔たりを自覚してしまうのは辛かった。
――この人はもう走れない。
いつでも置いて行かれると思っていたのは自分だったはずなのに。
自分がこの先輩を追い越していく事などあるはずがないのに。
だからカカシが、自分の目の前に姿を現さなくなった、その事を当然と受け止めていた。
死期を悟った猫のように、ひっそりと身を隠してしまったのだと、寂しく、納得していた。
「誰にも土産なんて、買うつもりなかったんだよ。本当は」
本当は、ね。とカカシは小さく繰り返した。
「気を使わせるだけだろうってね」
でも、と覆面をしなくなった素顔が神妙に言った。
「イルカ先生が、世話になった人にはちゃんと挨拶するものだって言うからさ。新婚旅行に行ってきました。まだまだ未熟な二人ですが、今後ともよろしくお願いしますって。言って来いって言うからさ」
大きく開いた窓から初夏の風が吹き込んでカカシの前髪を揺らした。ヤマトの短く切りそろえた黒髪も煽られて逆立つ。胡座をかいたまま後ろ手に畳に手を着いて、カカシはふんぞり返ってにっと口元を斜めにした。
「来て良かったよ」
先輩らしい鷹揚な態度で、のんびりとした声で。
「紅のとこにもさっき行ってきたんだけど、甘い物かよ、ってイヤ〜な顔されたよ」
「そりゃ、酒の方がよかったでしょうね、あの人は」
「子供は喜んでたけどね」
ふふ、と柔らかくカカシは笑った。ヤマトもつられて微笑んだ。
午後の長閑な空気がビールを温めていく。ちびちびとアルコールの甘ったるさと苦さを舌にのせて啜りながら、庭を眺めた。
日の光が赤く色づく頃に、カカシはカンカン帽を被って帰っていった。
朱色がかった空の下で、真っ青のアロハシャツがはたはた風に煽られていて目に映える。
短いささやかな縁に座って、低い垣根の向こうに遠ざかる背中をヤマトは見送った。
誰かに、何かに、感謝しながら。
――まだ終わりではないんだ。
「今後ともよろしくお願いします」
マカダミアナッツチョコの茶色い箱に向かってヤマトは頭を下げた。
今度は自分が手土産を持って行こう。
本部で先輩の伴侶となった人の好きな物でも聞き出して。
きっと、長いつき合いになるだろうから。
〜閑話休題〜
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