暑くなり始めると、はたけさんの庭の野菜はどんどん育った。するんと垂れ下がった細長いキュウリや、黒く光ってるナス、背の高いトウモロコシの実からも白い毛がふさふさとはみ出してきて、そういえばはたけさんに似ている。
トマトは毎日、両手で抱えるほど採れる。
最初は生で食べていたけど、だんだん食べきれなくなってはたけさんはスパゲティに入れたり、鰯と一緒に煮たりした。
それでも食べきれなくて、「、家に持っていく?」と訊いたけど、わたしははたけさんの家に来ている事はお母さんに秘密にしているからもらえない。それに、お昼にはたけさんと一緒に食べているから、もう、お腹の中がトマトで一杯だ。
縁側に今日の朝、収穫した野菜を並べてはたけさんは胡座をかいて腕組みをしていたけれど、「ついに計画を実行に移す時がきたようだな」と独り言をぼそぼそと言って、立ち上がると部屋の中へ入っていった。
台所の方でしゃがんでガタガタと戸棚をあさっている足とお尻が見える。身を乗り出して窓から覗いていると、はたけさんはかごやプラスチックのボールを重ねて持ってきた。
それから段ボール箱を押し入れから出してきて、野菜とかごやボールを中に入れた。
「あと、何だ?」
はたけさんは頭を傾げて少し考えた。
それから、また台所へ入っていって流しの下の戸棚からスーパーの白い袋をたくさん持ってきた。それも段ボール箱に入れる。
「こんなもんかな」
はたけさんは段ボール箱を覗いて、ひとつ頷くと「」と呼んだ。
「帽子被っておいで」
わたしははたけさんの顔を見上げて、すぐに自分の家に戻って箪笥の上から麦わら帽子をとってはたけさんの家に戻った。
はたけさんは白いTシャツから青いシャツに着替えて、丸いカンカン帽を被って、黒いサングラスをかけて庭に立っていた。青いシャツには黄色とオレンジと銀色の葉っぱと胸に緑色のオウムの絵がついていてテラテラしてなんだかすごく派手だ。テレビのドラマに出てくるやくざの人みたいだ。
黄色いビーチサンダルを引っ掛けたはたけさんは、縁台から野菜の入った段ボール箱を小脇に抱えると「よし、いこう」と低い声できっぱり言って、庭の木戸へ向かって歩き出した。
庭の木戸を出ると、白い土の道がぎらぎらしていてまぶしい。いつもはたけさんと買い物へ行く路地を歩いていく。
帽子のつばを押し下げて、顔ぜんぶが陰になるようにした。半袖の腕にあたる日の光が痛い。わたしは少しゆっくり歩いてはたけさんの後ろの陰に入った。
路地を抜けて広い道に出た途端、ぶわっと熱い風が道に吹いて、真正面から熱の塊がやってくるみたいだ。オレンジ色のビニールのサンダルが太陽の光で熱くなってくる。
はたけさんの背中を見上げると、青いシャツがはたはた風にふくらんで揺れている。わたしははたけさんの陰から出ないようにぴったりとはたけさんの後ろを歩いていく。はたけさんは一度、振り返ったけれどなにも言わなかった。黒いサングラスをしているからよく表情は分からないけどて口元がちょっと斜めになった。
商店街を抜けて、どんどんはたけさんは歩いた。
いつもはこんな方まで来ない。
わたしは少し心配になった。あまり遠くにいってはいけないとお母さんに言われていたので。どこまで行くのだろう。
帽子をかぶっていても、太陽の熱で頭が熱くなって来る。髪の毛の中がむしむしして、髪の間からほっぺたの横に汗がたれてきた。手でぬぐうと、気がつかないうちに首も汗でぬれていた。
あつい。
はたけさんの陰に隠れながらわたしはのどの下の汗をふいて、まわりを見た。
うちの近くの商店街よりも大きなお店が道の両側に増えてきた。紺色やお抹茶色、えんじ色の立派なのれんがぎらぎらした光を吸いとって、その奥の店の中は暗くて静かだ。こんな暑い時間に外を歩く人はあまりいなくて、時々、すれ違う人も日傘の下に顔を隠している。
硝子戸の向こうに大きな柱時計の置いてあるお店の角を曲がると、川に出た。
石垣にはさまれた川の上を風が吹いてきて、すこしだけ涼しい気がした。
川沿いに少し歩くと大きな弓なりの橋があって、その向こうには背の高いアパートや公営住宅が並んでいる。その上に、赤い屋根が高く並んでいてまん中に「火」と書かれた丸い建物が見えた。その上に火影岩が見える。
火影岩は太陽の光を正面からあびて、いつもよりも影がくっきりと黒い。火影様たちもみんな、暑くてつらそうだった。
はたけさんは立ち止まって、しばらく火影様たちの顔を見上げていた。
まあるい橋のたもとには柳の木がはえていて、長く垂らした枝の先の葉が川の水につかってゆらゆらと気持ちよさそうにそよいでいる。
わたしは早く橋の上に行きたくて、うずうずしながらはたけさんを見上げた。見上げたはたけさんの向うに熱い太陽があって、わたしは目を細めた。はたけさんの帽子からはみ出してる灰色の髪が日に透けてまぶしい。
はたけさんはゆっくりとまた歩きだした。
わたしは木でできた橋のまあるい斜面を登るのがうれしくて、はたけさんの影から飛びだした。
なのに、はたけさんは橋を渡らずに川に沿って歩いていこうとしている。
わたしは橋の上に足を踏み出しながら、行ってしまおうとするはたけさんを振り返る。
離れたら置いていかれてしまうかも。そう思ったけれど、わたしは橋の斜面を登った。反り返った斜面がきつくてオレンジ色のサンダルがギュッと鳴いた。かまわず、大またでもう一歩踏みだす。
「あれれ、、そっちじゃないよ?」
はたけさんが橋を渡っていこうとしている私に気がついて、こっちを見た。わたしはどんどん橋を登って、一番上まできた。
欄干のすき間から川を見下ろすと、川の水面がきらきらと光ってきれいだった。
澄んだ水の底には緑色の水草が流れに引っ張られるみたいにしてゆれている。小さな魚の影が見える。
わたしが夢中で川の中をのぞきこんでいると、はたけさんがやってきて、隣にならんだ。
いっしょに流れる水面を見下ろした。
橋の上ではちゃらちゃらと水の流れる音が響いてずっとずっとつながっていく。ひとつひとつは別々の小さな音なのに、それが一斉に鳴って大きな音のかたまりになって、まわりじゅうがその音でいっぱいだ。蝉の声と似ているなあと思う。
足元がじりじりと熱い。
わたしはこんなに暑いのに、あの柳の葉や、ちゃらちゃらちゃらと音を立てて流れていく水は涼しいのだろうなと思って不公平な気がした。
橋の上は何も隠れるものがなくて、肩や腕に日が刺さるようだ。
しばらく、じっと川を眺めていたけれど、はたけさんはまた火影岩を見上げた。
「行こうか」
はたけさんは静かに言った。
サングラスをしているのではたけさんがどんな顔をしているのかよくわからないけれど、何かを考えこんでいるみたいだった。
橋を渡らないで元の道へと戻ると、川に沿ってゆっくりと歩いていく。わたしはまたはたけさんの影に入った。
角を曲がって、川沿いの道から小さな通りへ出るとき、はたけさんは火影岩を振り返り、ふっと笑った。
「今度、依頼出してみようかな。庭の草むしりとか」
ちゃらちゃらと川の音が鳴るのを背に、はたけさんとわたしは小さな通りを歩いていった。
はたけさんは川沿いにすこし歩くと、川を渡らないで、道を曲がった。
だんだん火影岩から遠くなる。
もと来た方向へ戻っていくみたいだった。
しばらく歩くと商店街の外れの神社の前にやってきた。境内に続く石段の横に大きな楠(くすのき)が立っていてその根元にはたけさんは荷物を下ろした。
楠が広げた大きな枝の陰になって少しだけ涼しい。
わたしはごつごつと瘤のできた楠を見上げてほっと息を吐いた。
はたけさんは段ボール箱の中から野菜や籠を取り出すと、段ボール箱を伏せて地面に置いた。
それから箱の上にプラスチックの籠やボールを並べて、その中に野菜を入れていった。
お尻のポケットから『一山二十両』と書かれた厚紙を取り出すと箱の上に置いた。
お店屋さんごっこをするのだな、とわたしは理解した。
はたけさんとわたしは道路に向かって楠の根っこに腰かけて、お客さんが通るのをじっと待った。
楠の木陰から降るように蝉の声がなっている。蝉の声が雨ならばどしゃ降りのびしょぬれだ。
わたしは膝を抱えて道路を眺めた。
はたけさんがふたりの間に水筒を置いて、「喉が乾いたら飲みなさいね」と言った。
「汗が出なくなってきたらすぐに飲むこと」
わたしは頷いて青いステンレスの水筒をそっと触った。日差しで温まった表面がぬるい。
町の外れのせいかなかなかお客さんは通らなかった。
ときどき、紺色の制服にカーキ色のベストを着た忍者の人が通るくらいだ。この道は木ノ葉の中央棟へ続いているので忍者の人がよく通るみたいだった。
「わ! カカっさん、なにやってんすか?」
通りかかった忍者の人が声を上げて近づいてきた。
額当てをバンダナみたいに頭に巻いて長い楊枝を咥えている。
「野菜買って?」
「はぁあ? 俺、これから本部に行くんですよ」
「いいじゃない。トマト美味しいよ。自信作」
「自信作って……カカシさんが作ったんですか? マジで?」
楊枝を咥えた忍者の人はあれこれ言いながら、トマトを一山買ってくれた。白いビニール袋にトマトを詰めながらはたけさんは「他の奴らにも宣伝しといてよ。ここで野菜売ってるって」と頼んだ。
楊枝の人は「えー……まあ、いいですけど」と戸惑いながらもトマトの入った袋をぶら下げて本部の方へ歩いていった。
それからしばらくはまた暇になった。
「この時間帯はあんまり人が通らないんだなあ」
はたけさんはぼやきながら道の向こうを歩いているおじいさんに「野菜いかがですかー?」と声をかけた。
本部の方から何人かの集団で忍者の人がやってきて、「あ、ほんとだ。カカシさんだ」とこちらを見て言った。
どやどやと寄ってきて「本当に野菜売ってる」「お久しぶりッス」「娘さんですか?」とか言いながら取り囲むのにはたけさんは「野菜、一山二十両だよ〜」と気の抜けた声で言った。忍者の人たちは一人一山ずつ買ってくれたので、わたしも袋に詰めるのを手伝った。
「今日、麻婆ナスにしよう」
と言う忍者の人に
「味噌汁も焼きナスもいいよね」
はたけさんはにこりと笑ってお釣りを渡しながら言った。
「だいぶ売れたなあ。ゲンマが宣伝してくれたんだな」
はたけさんは段ボール箱の上に載った野菜の籠を見ながら嬉しそうに言った。
人通りが途切れてあたりが静かになった。太陽の光が横から差してきて影が長くなる。眩しくて帽子の下で目を細くして通りを見ていると、一人の忍者の人が足音もなく道を歩いてきた。その人は他の忍者の人たちとは少し違っていて猫のように静かだった。その様子がはたけさんに似ているような気がした。
前を向いて歩いていたその人はふと、気配に気がついたようにこちらを見て、ぎくっと立ち止まった。
慌てて前を向いて足早に歩き去ろうとするのを
「テーンゾ〜〜〜」
とはたけさんが呼び止めた。
ぎくしゃくとした動作でその人は振り返った。
「そんな、チンピラみたいな恰好をして……」
「朝採れトマト、おいしいよ」
はたけさんはにっこり笑ってその人に言った。
「いや、ボク、自炊しないんで」
「トマトなんて丸齧りでいいデショ」
「まあ……」
「おまえ、外食ばっかりしてちゃだめだよ〜」
はたけさんは意地悪そうににやにやしている。見たことのないそんな様子にその人は、はあ、とため息をついて腰のポーチから財布を取り出した。
「後輩価格で四十両」
「ちょっと!」
「ウソウソ。二十両。ピーマンもおまけにつけちゃう。サラダにして食べなよ」
「はあ。ありがとうございます」
その人は猫のような黒い目でわたしのことをちらりと見た。
「養子……」
「お隣の子だよ」
はたけさんに言われて、ああ、とその人は頷いた。
「まだ新婚だし」
はたけさんがにやにや笑うと、その人はちょっと嫌そうな顔をした。
「のろけは聞き飽きましたよ?」
そう言いながらじりじりと後ずさって、その人は帰っていった。それでもはたけさんが背中に向かって
「今度、またビール飲もうな」
と言うと「はい」と返事をした。
町並みの屋根の向こうに太陽がいってしまうとぎらぎらした暑さがきえた。でも蒸し蒸した熱がいつまでも地面の上にたまっているみたいだった。
「日が長くなったなあ」
はたけさんは空を見上げて言った。
本部の方から歩いてくる人が増えてきた。
珍しそうにこちらをちらちら見ていく人が多かったけど、「ちょうどよかった」と言ってナスとピーマンを買ってくれる女の忍者の人もいた。
お金入れの缶もだいぶいっぱいになってきたし、野菜もほとんどなくなった。そろそろ帰るのかなと思ってはたけさんを見上げたけれど、はたけさんはじっと通りを歩く人たちを見ている。座りっぱなしでお尻が痛くなったのでわたしは立ち上がって楠の根元から通りにおりた。
すると向こうから歩いてきた人が「」と呼んだ。
振り返るとうみのさんだった。
「どうしたんだ、こんな所で? カカシさんも」
そう言いながらうみのさんは近づいてきた。
「イルカ先生、おかえりなさい」
はたけさんが言うとうみのさんはにこっと笑った。
「ただいま」
わたしがトマトひとつっきりになった段ボール箱を指さすと、うみのさんは首を傾げた。
お店屋さんごっこ。
「野菜の有人販売です」
はたけさんが真面目な顔で言った。
「え! 本当にやったんですか!?」
「なかなかの売れ行きでしたよ」
はたけさんは満足そうだ。
「うちの野菜は美味いですからね」
うみのさんは笑っている。
「も手伝ったのか。お疲れ様」
うみのさんが帽子の上からわたしの頭に手を置いた。
はたけさんがボールや籠を段ボール箱に入れて片付けると、うみのさんはわたしの手を引いて歩きだした。
「売り上げで奢りましょう」
はたけさんはそう言って途中で甘味屋さんに入った。
三人でかき氷を頼んだ。待っている間にわたしはなんだかぼーっとしてきて、体がゆらゆらした。
目を開けていることが出来なくて薄眼でゆらゆらしていると、うみのさんが気がついてわたしの額に手を当てた。
「?」
耳の中に水が詰まったみたいに周りの音が遠くなる。
「あんた、いつからあそこにいたんだ!?」
うみのさんが焦ったように声をあげた。
「え、でも経口補水液も飲ませてたし帽子もかぶってましたよ?」
「バカ! 忍の子とは違うんですよ!」
うみのさんは立ち上がってお店の奥に行った。
「すみません、氷嚢をいくつか作っていただけますか?それから冷やし飴を一つ!」
すぐにうみのさんは氷水の入ったビニール袋を持って戻ってきた。わたしをお店の座敷に寝かせると、額と首筋、脇の下、腿の上に氷水をおいた。
お店の人が冷やし飴を持ってきてくれたのを受け取ると、テーブルの上から塩の瓶をとってさっさっと振り入れた。
「飲んで」
ストローを差し出してわたしに飲ませると、今度は腰のポーチから小さなきんちゃく袋を取り出した。
中から小さな丸薬を取り出すと齧って半分にしてわたしに飲ませた。
「すぐに効いてくる。兵糧丸だよ。聞いたことあるかな?」
忍者の人が使う元気になるお薬だ。
わたしはこっくりと頷いた。
しばらく様子を見ていたうみのさんはわたしが落ち着いてきたので安心したようだった。
はたけさんはしょぼくれた声で「ごめんなさい」と小さく言った。
わたしを寝かせたまま二人はかき氷を食べ始めた。わたしの分は後でもう一度頼んでくれると言った。
時折、私の様子を見ながら二人は静かな声でぼそぼそと話している。
わたしは氷水のビニールをおでこにのせたまま目をつぶった。
むかし、親戚の人たちと海に行ったことを思い出した。
海の家の座敷で大人たちが話しているのを、板の間に寝転がって聞いていた時のようだと思った。
わたしは自分があの時の海の家にいるのだと想像した。
あの時はお父さんもお母さんも一緒にいた。
寝ているわたしの横にいるのはお父さんとお母さんなのだと思った。
ふたりで静かにぼそぼそと話している。
わたしは波の音を聞きながら目を瞑っている。
ひぐらしが鳴いている。
投げだした体が鉛のように重い。
日に焼けて、泳ぎつかれてわたしはうとうととしている。
「どうかな?」
不意に氷水の袋が持ち上げられて開いた目にはたけさんの顔が飛びこんできた。
そこにいたのはお父さんじゃなかった。
びっくりしてわたしはわっと泣いた。
泣いているうちにどんどん悲しくなって涙が次から次へとこぼれてきた。
「ど、どうしたの?」
はたけさんはおろおろしてわたしとうみのさんを交互に見た。うみのさんは何も言わずに泣きじゃくるわたしを抱き寄せて、背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「ゴメンね?」
はたけさんは訳が分からないといった顔で謝った。
「俺、嫌われちゃった?」
うみのさんは優しく笑って首を横に振った。
「あんまり暑いと寂しくなる時ってあるもんなあ」
うみのさんはわたしの体を軽く揺すって言った。
少しずつ涙がとまって、わたしはしゃくりあげながらいちごのかき氷を食べた。
はたけさんが心配そうに見ていた。
その日は疲れてしまってうみのさんの背中に負ぶわれて家まで帰った。
わたしはうみのさんの背中で眠ってしまっていたらしく、気がついたらうみのさんとはたけさんの家の居間で並べた座布団の上で寝ていた。
すぐ横にうみのさんのお尻がでんと座っていて、見上げるとうみのさんは卓袱台の前に座って書類と睨めっこしていた。
居間の奥のガラス戸の向こうからジャッジャッと何かを炒める音がしていて、はたけさんがコンロの前で料理をしていた。
窓の外は暗くなっていてわたしは家に帰らなければいけない時間になっているのを知った。
わたしが起き上がるとうみのさんがこちらを振り向いた。
「大丈夫か? 頭が痛かったり気分が悪かったりしないか?」
うみのさんに訊かれてわたしは首を横に振った。
「熱中症になったこと、お母さんに話すからお母さんが帰ってくるまでここにいなさい」
うみのさんは真剣な顔で言った。
わたしは困ってしまってもう一度、首を横に振った。
わたしがはたけさんやうみのさんと一緒にいたことをお母さんに知られたら叱られる。もう二度とはたけさんと遊んじゃだめだと言われるだろう。
そうしたらずっと一人で家の中でお母さんの帰りを待っていなくてはならなくなる。
そんなのはさみしいし退屈だ。
「うちに来てる事、母親には知られたくないんじゃないかな」
台所からはたけさんが言った。
「え?」
うみのさんは不思議そうな顔ではたけさんの背中を見てからわたしの顔に視線を戻した。
「そうなのか?」
訊かれてわたしは俯いた。
「母親が帰って来る前に必ずうちから帰って行くし、母親の方も引越しの時に挨拶に来たきり、俺達と顔を合わせないようにしてるでしょ」
はたけさんの言葉にうみのさんは「そうかな」と首を傾げる。
「一般人の中には忍と関わるのを嫌う人もいるからね。の母親もそういう人なんじゃないかな」
俯いて畳の目の上に視線をうろうろさせながら、わたしはうみのさんがはたけさんの話をどう思うだろうかと心配だった。
お母さんがうみのさんを避けているのは本当だけど、それでうみのさんが気を悪くしてしまったら、もうお家に入れてくれなくなってしまうかもしれない。
うみのさんは少し考えていたけど「でもなあ」と呟いた。
「このまま一人で家に帰すなんて無責任なことできないしなあ。もう大丈夫だとは思うけどまた具合が悪くなったら大変だ。とにかくお母さんが帰って来るまではうちにいなさい」
うみのさんの考えは変わらないようだった。
「はいはい、机の上片付けて〜」
空気を変えるようにはたけさんがお皿を持ってやって来て、卓袱台の上に並べた。
縁に赤い模様の入った丸い大きなお皿が二枚と、少し小さな水色のお皿が一枚。
はたけさんは一旦、台所に戻って中華鍋とお玉を持って戻って来た。
「今夜はあんかけ焼そばです」
そう言いながら中華鍋からお皿に具のたくさんのった焼そばをみんなのお皿に取り分けた。
「お母さんには俺達から話すから、は晩ご飯食べていきなさい」
はたけさんがそう言って、うみのさんも頷いた。
いよいよはたけさんと遊んでいたことをお母さんに知られる時が来るのだ。
「大丈夫、が叱られたりしないようにきちんと話すからな」
わたしは余程、不安そうな顔をしていたらしくうみのさんがそう慰めてくれた。
不安で胸がいっぱいだったけれどあんかけ焼きそばのいい匂いにつられるようにお腹が空いてきた。
三人で「いただきます」と手を合わせて、焼きそばを食べ始めた。
中華屋さんで食べたのと同じ味がして、はたけさんは料理が上手だなあと思った。
「菓子折りかなんか持っていった方がいいんですかね?」
はたけさんが焼きそばを食べながらそわそわと言う。
「そうか、お詫びしないとですからね」
二人はわたしが熱中症を起こしたことをとても気にしている。
わたしは眠ったらなんともなくなっていたのだけど、はたけさんもうみのさんも心配性だ。
「何がいいんだろう。これから買いに出てお店が開いてるかなあ」
「後日、改めての方がいいかも」
二人は相談して、とりあえずはたけさんの野菜を持って行くことに決めた。
わたしは話を聞きながらハラハラしてしまう。
何にもしなくていいし、お母さんが帰ってこないうちにこっそりと家に帰してくれればいいのに。
夕ご飯を食べ終わるとはたけさんは庭に降りて野菜を採り始めた。
わたしは縁台に座って足をぶらぶらさせながら暗がりの中で懐中電灯をかざしながらトマトやナスをもいでいるはたけさんを見ていた。
うみのさんが蚊取り線香をつけて、わたしの足元に置いてくれた。
「よく茂ったなあ」
黒々とした茂みの中でごそごそと動いているはたけさんを眺めてうみのさんが言った。
空から月の光がはたけさんの青いシャツをてらてらと照らしている。
変な時間に眠ったせいかいつもより夜の時間がたっぷりあるようだ。
蚊取り線香の煙がふわふわと揺れながら夜の中に溶けてゆく。
縁台の上には部屋の中から灯りがさしていて、暗い庭にいるはたけさんは一人だけで暗いジャングルで格闘している探検家みたいだ。
「キュウリも少し入れてください」
うみのさんに声をかけられて「了解」とはたけさんはキュウリの苗のところに移動した。
手に提げたビニール袋いっぱいに野菜を採るとカカシさんは畦を避けて戻ってきた。
「結構、蚊に食われた」
カカシさんは白い腕やサンダル履きの足に点々とついた赤い虫食い跡を見せて眉を下げた。
うみのさんが戸棚の引き出しから虫刺されの薬を持ってきてはたけさんに渡した。
「すぐに塗った方が効きますよ」
うみのさんに言われてはたけさんは虫刺されの薬を腕や足に塗り始めた。
「こんなに刺されたの、今年初めてかも」
「いつも俺ばっかり刺されますからね」
野菜を用意して準備万端になると、うみのさんはまた書類を卓袱台の上に広げた。
「、テレビ観る?」
はたけさんはそう訊きながらテレビをつけた。
お笑い芸人が司会をしているクイズ番組にチャンネルを合わせるとはたけさんは台所でお皿を洗い始めた。
わたしはうみのさんの横でテレビを観ていたけど、いつお母さんが帰ってくるのかと気になってテレビの中の人達の言葉も全然頭に入ってこない。
いつもならもうお母さんは帰ってきている時間なのに。
クイズ番組が終わっても隣に誰かが帰ってきた気配はない。わたしは縁台に出て隣のわたしの家の窓を見てみたけれど真っ暗だった。
うみのさんも一緒に縁台に出てわたしの家の窓を見た。
「今日はお母さん、遅いみたいだな」
うみのさんの言葉にわたしは頷いた。
「そろそろ寝る時間だよなあ」
うみのさんは居間の壁にかかった時計を見上げた。時計の針は九と十二を少し過ぎたところを指していた。
「今日は汗たくさんかいたから風呂も入った方がいいしなあ」
うみのさんが思案していると「ダメですよ」とすかさずはたけさんが言った。
「たとえ子供でも女の子を風呂に入れるとか絶対にダメ」
ええ? とうみのさんは驚いた顔をした。それに苛ついたみたいにはたけさんは更に言った。
「最近はそういうの煩いんだから、アカデミーでも教えてるでしょ! 子供が近所のおじさんと風呂に入るとか絶対ダメでしょ」
「確かに……」
「先生はそういうとこ大らかすぎるの! 子供なら大丈夫とか思ってるんでしょうけど、世間的には子供だからこそダメなんですよ。俺はね、先生がいない時はをなるべく家には入れないようにしてるんですよ」
「そうなんですか!?」
「そうですよ! 若くして退役した上忍なんてすごく警戒されているんだから。精神を病んでいていつか事件を起こすんじゃないかって」
「そんな……」
「世間の目ってそういうものなの! 俺はあなたとの生活を守るために色々気をつけているんだから、あなたも不用意なことはしないでください」
はたけさんに言いつけられてうみのさんはしゅんと項垂れた。
「はい……」
いつもはうみのさんがはたけさんを叱っているのに、いつもと反対だなあとわたしは思った。それからはたけさんが普段、家に入れてくれないのは何かよく分からないけれど理由があることなのだと理解した。
「まあ、を一人で帰すわけにはいかないですから……」
はたけさんは庭の向こうへ目をやった。
「こういう時は大家さんじゃない?」
うみのさんに付き添われてわたしは植え込みを潜って自分の家の庭に出た。
「いつもこんなところを通ってるのか」
うみのさんは植え込みの下の小さな隙間を覗きこんで言った。うみのさんがしゃがみこんで植え込みの間に体を潜り込ませると、ちくちくした葉っぱがざわざわ揺れていっぱい地面に落ちた。
身体中に細い葉っぱをつけてうみのさんはこちら側に出て来た。
わたしは先にたって自分の家の窓を開けて中に入った。
「鍵開けっ放しか」
うみのさんは「お邪魔します」と誰にともなく言ってわたしについて家に入ってきた。
うみのさんはぱちんと部屋の電気をつけた。暗い部屋がぱっと明るくなる。
「着替えのパジャマとパンツとタオルを出して」
うみのさんに言われてタンスの引き出しからパジャマとパンツを出した。それから洗面所にいってピンクのウサギ柄のタオルを持ってうみのさんの所に戻った。
「鞄とかないかな」
わたしが赤い手提げ鞄を持ってくると、うみのさんは着替えとタオルを詰め込んでわたしに持たせた。
「、家の鍵は持ってるか?」
うみのさんに訊かれてわたしは頷いた。
「じゃあ、窓の鍵を閉めて玄関から出よう」
うみのさんは窓の外に脱いだサンダルを片手にぶら下げて窓を閉じて鍵をかけるとわたしと一緒に玄関から外に出た。
わたしは首から下げた家の鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
うみのさんはポケットから書き付けのメモとマグネットを出して鉄のドアにくっつけた。
「が大家さんの家にいるって書いてあるからな」
わたしが頷くとうみのさんが手を差し出してきたのでそっと大きな手を握った。
玄関側から暗い夜道を廻ってアパートの裏に向かう。
アパートの前と裏に一本ずつ街灯が立っていて、そこだけ明るい。その間の暗い道をうみのさんと手を繋いで歩いた。
玄関側の道はなんだかよそよそしい。
「はいつも一人でお留守番なのか?」
うみのさんの言葉に頷くと「そうか」とうみのさんは言った。
「えらいな」
そう言われてわたしは困ってしまう。
わたしはえらい事なんてなんにもしていない。
ただ毎日、お母さんが帰ってくるのを待っているだけだ。
アパートの裏に出ると、道を挟んで大家さんの家がある。金木犀の垣根の途切れた先に玄関があって、前もって大家さんに話をしに行ったはたけさんが待っていた。
「母親が帰ってくるまで預かってくださるそうですよ」
開いた引き戸の中からお線香の匂いが漂ってくる。
「すみません、夜分に」
うみのさんが中に声をかけると廊下の奥から片足を引き摺って大家さんが出て来た。
大家さんは灰色の髪をしたおばあさんで、はたけさんやうみのさんと並ぶととても小さく見える。
「まあ、まあ、散らかってるけどごめんねぇ」
大家さんはそう言いながら手招きした。
うみのさんが促すようにわたしの背中に手を添えた。
わたしはぺこりとお辞儀をして大家さんの家の上がり框に登った。
「昼間、熱中症を起こしたのでお風呂はシャワーだけにしてください。具合が悪くなったらすぐに呼んでもらえますか?」
うみのさんが大家さんに説明する間、わたしは手持ち無沙汰にはたけさんを見上げた。
はたけさんは首を傾げて「昼間はごめんね」と言った。
「よかったら、これ貰っていただけますか?」
うみのさんは野菜でいっぱいのビニール袋を大家さんに渡した。
「あらあら、随分、立派な野菜だねえ」
大家さんは驚いたように袋の中を覗き込んだ。
「ありがとぉ。家庭菜園は順調なようだねぇ」
大家さんは柔らかい声で話す。
「よろしくお願いします」
うみのさんと大家さんは何度もぺこぺこと頭を下げあって、はたけさんとわたしはそれを眺めていた。
二人が帰ってゆくとわたしは大家さんの家の中に招かれた。
大家さんの家の庭に面した座敷に通されて、卓袱台の前に座る。隣の部屋には仏壇が置いてあってお線香の匂いはその部屋から漂ってくる。
「お夕飯は食べたのかい?」
わたしが頷くと大家さんは「お風呂に入るんだったね」と言って廊下の奥へ出ていった。
大家さんの家の庭ははたけさんの庭より広くて色んな木が植えられていた。垣根の近くにタチアオイがすっくと幾本も立っている。その向こうに道を隔てて板塀の向こうにわたしの住むアパートがある。
はたけさんとうみのさんはもう家に帰ったのかなあと思って耳を澄ます。
道の向こうから男の人の話す声と窓を閉める音が聞こえてくる。
何を言っているのかは分からないけれど、きっとはたけさん達だろう。
向こうはもう寝るのかもしれない。
うみのさんはいつも朝早いから。
「お風呂用意できたから入りなさい。シャワーだけね」
大家さんが呼びに来たのでわたしは廊下の奥のお風呂場へ赤い手提げ鞄を持って行った。
シャワーを浴びて、大家さんに頭と体を洗ってもらうととてもすっきりした。
庭に面した部屋にお布団を敷いてもらって大家さんと並んで寝た。
その晩、お母さんは帰ってこなかった。
朝、大家さんと一緒に朝ご飯を食べているとはたけさんが迎えに来た。
大家さんの家の玄関から庭へまわったはたけさんはなぜかアオを抱っこしていた。
縁側に座ってわたし達がご飯を食べ終わるのを待ちながら「いい庭ですね」とか大家さんと話しながらアオを撫でたり転がしたりしていた。
ご飯を食べて食器を下げると、着替えを詰めた赤い鞄を持ってはたけさんの所に行った。
玄関で靴を履くとはたけさんがわたしの肩にぽんと手を置いた。
「ちゃんとお礼言おうね」
はたけさんに促されてわたしは大家さんに向き直る。
「どうもお世話になりました」
はたけさんがそう言って頭を下げるのと一緒にわたしも頭を下げた。
「また遊びに来てねぇ」
大家さんは優しく笑ってくれた。
はたけさんと一緒にアパートに戻るとわたしの家の玄関ドアにはうみのさんが貼ったメモがそのままになっていた。
鍵を開けて部屋の中を見たけれど、お母さんが帰って来た気配はない。
「昨日、のお母さんは帰ってこなかったみたいだよ」
アオを抱っこしたはたけさんが部屋の中を覗きながら言った。
わたしは手提げ鞄を玄関に置くと、部屋のドアを閉めると鍵をかけた。
「あれれ? どこに行くの?」
アパートの廊下を進んで道路に向かうとはたけさんがついて来た。
わたしはアパートの横を抜けて商店街へ抜ける小路を歩いていった。商店街に出ると火影岩とは反対の方向へ曲がる。
「?」
いつもは歩かない道をお母さんに教えられた目印を辿りながら歩く。
赤いポスト、お米屋さんの看板、青い瓦屋根の家。
里のどこからでも見える火影岩で方角を図りながら進めば自分の位置がだいたいわかる。お父さんがそう教えてくれた。
「?」
はたけさんはアオを抱っこしたままぶらぶらとついてくる。
本当ははたけさんはいない方がいいのだけど、一人だと迷子にならないか心配だからついてきてもらうことにした。
お母さんの働いているお店に行くのだ。
大きな通りを横切り小さな欄干のある橋を渡る。そこから白い土塀の横をしばらく歩く。
搗き固められた地面の白い土に朝の陽が反射して眩しい。
向こうに人が歩いているのが見える。
忍者の人たちが着ている紺色の服の上に草色のベストを着ている。
見覚えのある大きな背中。
わたしは目を凝らした。
頭に巻いた額当ての下から黒いの髪がこぼれている。
はっとわたしは息をのむ。わたしはその背中めがけて駆け出した。
――お父さん! お父さん! お父さん!
◇◇◇
先を歩いていた少女が突然駆け出した。
カカシは何事かと彼女の駆ける先を見た。
土塀の続く白い道を一人の男が歩いている。
忍服を着た中肉中背の男。後ろ姿で顔は分からないが木ノ葉の忍、おそらくは中忍だろう。
「……」
後を追おうとしてぬるりと腕の中から灰色猫が飛び出した。
それに気を取られた一瞬に、少女は男に追いつきその脚に縋った。
男が振り返る。
何事かを少女に語りかける。少女は男を見上げたまま動きを止めた。
男が少女の腕を掴んだのを見て、カカシは少女の許へと走った。
「なに? 知り合い?」
少女は呆然とした顔でカカシを見上げ、首を横に振った。
瞳の奥に深い落胆があった。
「」
男が少女の名を呼んだ。
驚いて男の顔を見る。
「やっぱり知り合い?」
「あんた、誰だ?」
男がカカシに問う。
「それはこっちの台詞」
少女を挟んでカカシと男は対峙した。
不意にくらりと視界が歪んでカカシは反射的に左目を開いた。
もはや何の役にも立たない左の黒ずんだ眼球に映るのは薄ぼんやりとした灰色の世界だった。
右目に映る世界がぐにゃりと曲がって、灰色のはずの左の視界を侵食する。脳が幻術に侵された事を知る。
「!」
目前の白い道と土塀が伸びて少女と男との距離が永遠と思えるほど遠ざかる。
幻術を解くには誰かのチャクラを流し込んでもらうか、痛みを感じる事。
くないの一本も持っていない事を後悔する。今のカカシは一般人に過ぎない。相手が中忍であっても忍術を使われれば太刀打ちできない。
突然、左目の奥に抉られるような痛みが走った。
あまりの激痛に身を折って呻いた。
「……ぐっ……がっ……」
開いた口からだらだらと酸っぱい唾液が流れ落ちた。
いつもの発作だ。
こんな時に。
左の眼窩に無数の針を差し込まれるような痛みが走る。ずきんずきんと鼓動に合わせて痛みが押し寄せる。
「おい、あんた、大丈夫か?」
水の中で聞く音のように誰かの声がぼんやりと響く。
カカシは地べたに膝をつくと地面を掻きむしった。
体が激しい痛みから逃れようとするかのように意識が薄れてゆく。
「……」
視界が黒く塗りつぶされてカカシは意識を手放した。
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