赤い天鵞絨のカーテンは…

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 赤い天鵞絨のカーテンはずっしりと重くなめらかでやわらかい。端に引かれてたわんだ布は陰の部分は静脈血のように暗く沈み、膨らんだ部分は明るく光を帯びて輝いている。
 見上げても高い天井は暗くて見えない。
 深紅の帳を握りしめる小さな白い自分の手が目の前にあった。
 カカシはささやかな舞台の端に、緞帳の陰に隠れるようにして立っていた。舞台の袖は暗い小部屋で、古びた長持ちや木の梯子、演台や椅子などが雑然と置かれている。
 傍らに小さな息づかいが一つ、カカシのすぐ後ろにもう一人、カカシよりも小さな子供が一緒に幕の陰に立っていた。
 傍らの子供は黒い髪をしていた。大きな濡れた黒い目をしていて、その眼を見開いて懸命に舞台の下を見つめている。頭の後ろで括った髪が子犬の尻尾のようにぴんと立っている。その子供とは初めて会ったと思うのに、ずっと一緒にいたような気もした。
 いつから自分がここにいたのかカカシには分からない。
 二人は赤い天鵞絨の陰に隠れながら舞台の下を見渡した。舞台も向こうの広間も板張りで、窓の外は濃紺の夜だった。黒く影になった木の枝はすべての葉を落とし寒々としていたが、建物の中は暖かかった。広間の隅に鉄の大きなストーブが焚かれている。舞台はさほどの高さもなく、小さな公会堂のようだった。
 客席はなく、代わりに室内にはいくつもの卓が並べられ、その上に見たこともないようなご馳走が並んでいた。金の縁取りのある真っ白なお皿に盛りつけられた野菜は色鮮やかで、銀紙で飾られた七面鳥はこんがりと炙られた表面を脂で光らせている。硝子の鉢に盛られた果実は瑞々しく、こんな季節にどこから摘んできたのだろうと思う。木の枝のような形のケーキには柊の葉と真っ赤な実が添えられている。
 部屋の真ん中には大きな樅の木が立っていた。きらきら光るモールや赤い玉、白い綿で飾りつけられていて、針葉樹の香しい匂いが広間に満ちていた。
 部屋の中には誰もいなかったが、静けさは柔らかく、この建物自身がこれから始まる何かへの期待に胸を膨らませているようだった。
 胸躍るような光景だ。
 見下ろすと黒髪の子供と目が合った。声を潜めてこっそり笑い合って、これから何が起こるのかと部屋の中を見守った。
 やがて、建物の外から大勢の人の気配がして、向こう側の大きな両開きの扉が開かれた。
 しずしずと人々が部屋に入ってきた。床板にこつこつと足音を響かせ、開かれた扉から冬の空気とともに衣擦れの音と囁き合う声が流れ込んでくる。男の人も女の人も子供も皆、質素だが小綺麗な格好をしている。
 緞帳の陰から、次々と広間へ入ってくる人達を見ているうちに、カカシは不思議なことに気がついた。
 もうけして会えないはずの人が幾人も混じっている。
 傍らの小さな手が、カカシの手を握った。
 隣を見ると黒髪の子供が舞台の下の誰かをじっと見つめていた。
 カカシの胸の奥で心臓がどきん、どきんと脈打った。
 たくさんの人の中からある人の姿を探す。せわしなく人々の顔に視線を走らせた。
 背の高いその人は、ゆっくりと静かに扉の向こうから現れた。白いシャツを着て、黒い上着とズボンを履いていた。カカシと同じ灰色の髪が伏せた目元を隠し、足音もたてず、ひそやかな人々の中でもひときわひっそりとその人は歩いてきた。どんな表情をしているのかはわからなかった。ただ口元には薄く、微笑みよりも微かな柔和さがあった。
 カカシは食い入るようにその人を見つめた。
 自分が居合わせてはいけない場所に来てしまっている事をはっきりと感じた。
 自分がここにいる事を彼に知らせたら、この場はすぐに消えてしまうのかも知れない。
 その人の姿を眼に映しながら、声を上げる事も出来ずに、ただ手の中にある傍らの子供の手を強く握った。小さな手がきゅっと握りかえしてくれた。
「おや、おや、こんな所に」
 後ろから声をかけられて、二人の子供は飛び上がるほど驚いた。
 振り返ると、深い緑色の外套を羽織った金の髪の青年が困った顔で微笑んでいた。
「せんせい」
 するりとカカシの口から言葉が出た。
 青年は屈み込んで二人の子供と視線を合わせると、しー、と人差し指を唇の前に立てた。
「君たちがここに来るのはまだ早いから、ここに隠れておいで」
 そう言って、緑の外套を捲ると、二人の子供を中に招き入れた。
 外套の中に二人をくるんで先生は舞台袖の端についた三段ほどの急な階段を降りた。階段下の小さな扉を細く開くと、人々のいる広間がすぐそこに見えた。
「顔を出してはいけないよ」
 先生はカカシ達に言い聞かせると、二人を頭からすっぽりと外套で覆ってしまった。それから頭を下げて、小さな潜り戸から広間の中へ出ていった。
 外套の下は真っ暗で温かく、天鵞絨のカーテンと同じように柔らかくてなめらかだった。
 先生の足取りに遅れないように、先生の服を掴んで、手を繋ぎあって二人はせっせと足を動かした。前が見えなくて何度も先生の腰にぶつかったり、誰かの足を踏んでしまったりした。最初はじっと口を噤んでいたのだけど、何度もぶつかったり躓いたりしているうちに、黒髪の子供がくすくすと笑い出した。
 先生は「こら」と怖くない声で言って、腰に取り縋る子供達の肩を抱いた。その声が微かに笑っているのが分かって、カカシも安心して小さく笑った。
 かくれんぼをしているみたいだ。
 先生はゆっくりと窓際を進んで、目立たない広間の後ろの方で舞台を向いて立ち止まった。
「何がはじまるの?」
 黒髪の子がこそりと先生に尋ねた。
 小さな動物みたいに静かに寄り添っているばかりだったその子が言葉を喋ったのでカカシはびっくりした。
 先生は小さな声で「お祝いをするんだよ」と教えてくれた。大きな外套の中で、先生の体から声が響いてくる。
「なんのお祝い?」
 また黒髪の子がたずねた。
「誰かのために自分を犠牲にした人を祝福するんだよ」
 先生が言った。
「慰霊碑に名前が刻まれていなくても?」
 思わずカカシは訊いていた。
「もちろん」
 先生は穏やかに言って、カカシの肩をそっと抱き寄せた。
「さあ、静かに。お祈りがはじまるよ」
 カカシは口を噤んで耳を澄ました。柔らかな布にすっぽりと包まれて待っていると、周囲が静かになった。
 やがて、低く厳かな声が響いた。


 幸福なるかな、心の貧しき者…
 幸福なるかな、憐憫ある者…
 幸福なるかな、心の清き者…
 幸福なるかな、義のために責められたる者…
 幸福なるかな、柔和なる者…
 幸福なるかな、嘆き悲しむ者…


 真っ暗闇の中でもう一人の子供の息づかいが聞こえる。掌を小さな熱い手がぎゅっと握っていた。
 先生の腕に肩を抱かれて、真っ暗な中で温かい湿った呼気を感じる。
 祈りの言葉は静かに滔々と続いている。カカシは目を閉じた。何も見えなくても、包み込まれ守られている事が分かる。
 いとけない子供に還ってしまったような心地で、カカシは死のような暗闇に意識を溶かした。




 目を開けても世界は真っ暗だった。
 温かい息が顔を擽る。
 掌を誰かがぎゅっと握っている。
 もぞもぞと身動ぐと、腕に堅くて丸いものがあたった。誰かの頭だ。カカシはそれに頬をすり寄せた。見えなくても分かる。イルカの頭だ。ほどけた髪が肩に触れる。
 布団の外は既に明るいのだろう。二人が身を寄せ合って辛うじて確保されている暗闇の中へカカシは更に潜り込もうとした。
 夢を見た。
 懐かしい人がいた。
 目が覚めても、夢の中の満たされた気持ちが続いている。
 あれはカカシの知らない光景だった。
 昨夜、テレビで観た外国映画のせいだろう。
 最近、木の葉にも外国の宗教行事が流入してきて、信者でもないのにイベントとしてみんなが楽しんでいる。
 自分には関係ないと思いつつ、イルカと一緒に外国の発泡酒を飲みながらその宗教を題材にした映画を観た。そのせいだ。
 布団の中でごそごそとイルカの腹に頭をくっつけていると、「ふあああっ…!?」と声を上げてイルカが布団を跳ね上げた。
 ぱっと明るい朝の光がカカシの目を灼いた。眩しい。
 イルカも眩しかったらしい。くしゃくしゃに顔をしかめてぼさぼさの頭できょろきょろと辺りを見回している。
「変な夢見た」
 呆然とした顔でイルカは言った。
「どんな夢?」
 冬の朝の冷え切った部屋の空気に身が縮めながらカカシが訊くと、イルカはカカシがいる事に吃驚したみたいにこっちを見て、それから握ったままの手を見下ろした。
 それから「あれ…」と首を傾げた。
「忘れちまった」
 ぽかんとした顔でイルカは言った。
「すごく良い夢だった気がするんですけど」
 カカシの手を握る手をにぎにぎと動かしてイルカはしきりに首を傾げた。
「俺もその夢見ましたよ」
 カカシの言葉に、「えっ!」とイルカは驚いた。
「同じ夢を見たんですよ」
 だって、あなた、俺の夢の中でもずっと一緒にいたもの。
 カカシが言うと、イルカは起き抜けの腫れぼったい目を細めて笑った。

 今日は、人々のために身を犠牲にした人が生まれた事をお祝いする日なんだそうだ。
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