「俺の犬になりなさい」
「え、プレゼントですか?」
卓袱台に総菜の皿を並べながらイルカはきょとんとカカシを見返した。
「別にいいですよ。酒持ってきてくれたじゃないですか」
そう言ってカカシの持参した一升瓶を嬉しそうに抱えて卓の上に置いた。まだ封の切られていない一升瓶には、静謐な泉から汲み上げられた清らかな水のような酒が満たされている。イルカの好きな銘柄なんて知らないから店頭で一番きれいな酒を選んだ。値段なんか考えずに選んだが、結構高かった。「お客さん、目がいいねえ」と酒屋の店主には感心された。
この人に一番似合うものをと考えただけだ。この人の喉を潤し、するすると食道を下り五臓六腑に染み渡る、それに見合うもの。それに、酔って赤みの差す頬や気怠げに首元を撫でる掌を想像して期待してしまったのも確かだ。
でもそれとは別にもっと誕生日を祝うそれらしい品を用意したいともカカシは考えたのだ。大体からして今、目の前の卓に並んでいる肴は季節はずれの秋刀魚の塩焼きだの、焼き茄子だの、誰のための祝いの宴だか分からないようなものばかりだ。
「こうやって一緒に祝ってくれるだけで嬉しいんですよ」
そう言うイルカは本当にうきうきした様子で、ただ自分と一緒にいるだけでそんなにも嬉しいのかと思えて可愛くてたまらない。無骨な顔つきの中忍が、妙に人々を和ませる笑顔を持っていることは周知の事実だが、この表情は自分しか知らないに違いない。
だからこそカカシはイルカの周囲を取り巻いている人々よりも近しい存在として、もっと何かをイルカにしたいわけだが、どうしたらいいのやら幼少時から始めた忍人生の経験はカカシになんの指標も与えてはくれなかった。
イルカが普段、欲しいと言うものは日常の細々とした消耗品だったり食料だったり、それは欲しいというよりは必要なもので、そんなものはカカシが与えずともイルカは自分で調達してくるのだ。
「うーん、なんか、もっとこう……こう、ねえ」
腕組みをして唸るカカシにイルカは可笑しそうに言った。
「イチャパラみたいな?」
「そう!そんな感じで!」
相変わらず夢見がちですねえ、とイルカは声を出して笑った。ちょっとショックだ。
肩を落としてしまったカカシを少しの間、イルカは眺めていたが「じゃあ、」と居住まいを正してカカシに提案した。
「一言だけ言うことを俺が俺に許すことを、許してください」
急に真面目な顔つきになったイルカにカカシも思わず崩していた脚を組み直して向き合った。イルカは深く呼吸をして一言を言った。
「好きです」
凛と響いた。
その声は真っ直ぐにカカシの胸に突き刺さって、痛痒いような甘さをもたらした。カカシの胸の空洞に反響してほどけて溢れ、呼応する言葉をカカシの喉に昇らせる。
「俺だって……」
しかし、その言葉は途中で遮られてしまった。「だめですよ」とイルカが言った。
「今日は俺の誕生日だから」
泣き笑いの表情で言って、目を伏せる。
「いいじゃないですか。俺は一介の中忍で、あなたは時折、通ってくる上忍で」
カカシの胸に満ちた甘さを一気に青ざめさせる言葉を吐いて、イルカはまた卓に皿を並べ始める。行き所をなくしたカカシの中の反響は出口を求めてグルル、と喉で唸り酷い言葉に変わってしまう。
「じゃあ、アレですね。俺もあなたに毎月のお手当てとか払わないといけませんね」
イルカがぱっと顔をあげる。思いも寄らないという表情だ。カカシはそこへ更に苛立ちを投げつけた。
「それとも一回毎の方がいいのかな?口でしてもらうのはオプション?」
「なんてこと言うんですか!」
鼻白んだイルカが卓を叩いた。食器類ががしゃんと耳障りな音を立てる。
「その方が楽なんでしょ?」
カカシは組んだ手に顎を載せて上目遣いにイルカを見上げた。イルカの瞳がちらちらと揺れる。
「受け取るのは嫌だけど、受け取って欲しいなんてずるいでしょ」
カカシの反駁にイルカは歯を食いしばって眉根を寄せ、それでも口元だけは笑って言う。
「だから、許してくださいって」
困ったみたいに無理矢理笑うから、カカシの口からは深いため息が漏れてしまう。
「俺とつき合うのキツイ?」
きつくないはずがない。分かっている。カカシだってSランク任務を言い渡されるたび、真っ先に考えるのはこの人のことだ。この人の事になってしまった。大切なものがあるのは辛い。カカシの父親も先生も、誰も彼もが辛かったはずだ。
「そんなことはありません」
カカシの放った質問とも言えない問いを、イルカは気丈にはねつける。
「そんなはずないでしょ。俺みたいな男、しんどいでしょ」
子供も残せない、何もこの人には与えることが出来ない。死んだら骨も残せない。目玉だけは刳り抜かれて誰かの眼窩に収まるのかも知れないが、最近の消耗の早さを考えるとそれも無理だろう。
「不毛だよね」
ビリッとイルカの肩が震えた。
「だけど好きだって言ってんだろうが!!」
いきなり怒鳴りつけられてカカシは思わず仰け反った。
「あんたは黙って聞いてろよ!!俺の誕生日だ!祝え!!!!」
机に手をつき、肩で息をつきながらイルカはカカシを睨みつけた。
「何もいらねえんだよ。何もなくったって、あんたは俺にたくさんのものをくれる」
顔を真っ赤にして憤るイルカの顔がくしゃりと歪んだ。
あ、そうか。
鈍いカカシはやっとそこで気がついた。
この人、今、甘えてくれたんだ。
「自分に許すことを許してください」なんて遠回りで不器用な前置きで、恐る恐るカカシに心を告げたのだ。
それをまるで突き放されたみたいな気持ちになって詰ってしまった。
「許します!」
カカシは慌てて宣誓する。
「許します!だから、」
もっと言って。甘えて。
そんな風に自分一人で納得して、誕生日だから自分に一つだけ許してあげようなんて。そんな風に俺をあなたの外に追いやらないで。
甘え下手なイルカと、甘やかし下手な自分。
もっとイチャパラで勉強しなくちゃなあ。
唯一の恋愛の教科書をカカシは思い浮かべる。
それからカカシは卓袱台越しにイルカの胸倉へ手を伸ばした。喉元に手を向けられて一瞬、イルカの体がが強張る。人慣れしない動物みたいな反応は染みついた忍の習性だ。だから目をつぶる。黒い忍服の襟口に手をかけて、伸びた襟元からイルカのドッグタグを引きずり出した。鈍く光る鉛の板にはイルカの忍者登録番号が記されている。里が自分達につけた首輪だ。これがある限り自分達は里に帰属し、所有物として扱われる。
首の後ろ側にあるチェーンの留め金に身を乗り出してカカシは歯を当てた。引っ張られて自然にイルカも前屈みになる。
歯に軋む金属の味を味わいながらカカシは留め金を外した。もう一方の手で自分の腰のポーチを探る。すべらかなビロードの手触りの箱をポーチの中でこじ開けて中の物を取り出すと解けたチェーンに通した。
シャラ、と微かな音を立ててカカシの手からリングが鎖を滑ってイルカの胸元に落ちる。
「あの、」
当惑したイルカの声を耳元に聞きながらカカシは元通りにチェーンの留め金を留めた。
身を引いて眺めるとイルカの胸元には認識票とリングが一つぶら下がっている。カカシは満足してリングを人差し指に引っ掛けると、恭しく口づけた。
「今日からこれがあなたのドッグタグです」
イルカの顔を真っ直ぐに覗き込んで言い聞かせるように言った。
イルカがきゅっと下唇を噛みしめる。嬉しいだろうか。困っているのだろうか。
カカシとてずっと迷って差し出しかねていた品だ。
これ以上の枷をこの人に嵌めてしまっていいものか。こんなものに自分の感情を仮託してしまっていいものか。何かを遺したいと思うのはカカシのエゴだ。
「俺のことを忘れたいと思った時はペンチでぶった切って捨てなさい」
でも、それまでは。
たとえ骨の一片、髪の一筋、あなたの許へ還れないとしても俺はあなたのものなんだ。
ひっ、と嗚咽のような笑い声をイルカがたてた。笑みの形に開いた口から食いしばった白い歯が覗いている。
「さっきからブツブツ言ってるなと思ったら…これを出したかったんですか?」
「うん。そう」
素直にカカシは頷いた。
「我ながらベタ過ぎると思ったんですけど、やっぱりあなたには首輪が必要でしょ」
鼻を啜り上げ拳で顔を拭うと、イルカはぐしゃぐしゃの顔で笑った。俺、そんな趣味ないんだけどなあ、と呟きながら「ありがとうございます」と小声でカカシに告げた。
何かをあげたいと思ったのに、イルカからは貰うばかりだとカカシは思った。