「秘伝チョコ」


「なんだぁ、おまえら?」
 玄関を開けたイルカは頓狂な声を上げた。泥だらけの七斑一同が勢揃いしているのだから無理ない。
「イルカ先生、カレー作って!」
「はぁ?」
 カレーカレーと連呼するナルトから視線を上げて、カカシへ物問いたげな顔を向ける。
「イルカ先生カレー作って下さい」
 弓形に細めた目で言われた、ナルトとまったく同内容のカカシの科白に「はぁ」とイルカは返事を返した。表情はまだ事態を訝しんでいる。
「これ任務の報酬で貰ったんだってば!」
 得意げにナルトが野菜の袋を突き出した。
「お、新じゃがに新玉葱かぁ、いいなあ」
「イルカ先生、カレーにしようってば。カレーカレー!」
 ナルトがねだる。顔中に「イルカ先生スキスキダイスキ」と書いてある。イルカもにこにこして、そうだなあ、なんて言っている。たかが野菜でなんでこのヒト達こんなに幸せそうなの?
 とりあえず上がんなさい、と部屋に通された。
 初めて入ったイルカの家は1DKの木造アパートで特に整理されているわけでもないが水周りなどは綺麗にしている。開け放した窓からの気持ちの良い風が吹き込んでくる。今日は土曜日で半休だからイルカはジーパンにTシャツの上に綿のシャツを羽織ったラフな格好をしていた。髪もぞんざいに後ろで括っているだけだった。教師の私服姿はなんとなく妙に感じられるものらしい。サクラがなんだか普通の人みたいとかゆっている。机の上に出しっぱなしだった答案用紙を手早く片付けながら、先生をなんだと思ってるんだとイルカが笑う。
 窓の外は明るいけれど風の中に夕暮れの匂いが近づいてきている。
「まあ、そろそろ夕飯を作ろうと思ってたとこだったし」
 流しに立ったイルカは袋から野菜を取り出して調理台に並べた。元教え子三人はそわそわと落ち着かない様子でイルカの手元を覗き込んだり、手持ち無沙汰に突っ立ったり部屋を眺め回したりしている。カカシも同様に食卓の横に突っ立ったままイルカの後ろ姿を見守っている。四畳半の台所には定員オーバー気味だ。
「あ、肉入ってないじゃないですか」
 袋を覗き込んだイルカが言う。
「今日行ったところは牧畜はやってなかったんですよね」
「んー、うちにも肉ないんですよ。買ってこなくちゃ」
「ハイハイ!俺、買ってくるってばよ!」
 ナルトが跳ね上がる。
「んじゃあ、そこの商店街に肉屋があるから、財布はカカシ先生に出して貰え」
「わかった」
 勝手に話を決めてナルトがにゅっと手を突き出してくる。結構、しっかりしてますねえ、とぼやきながらカカシは財布から札を抜き出して渡した。
「あ、ナルト、チョコレートもな」
 駆け出していった小さな背中を追うようにイルカはドアから身を乗り出して言った。
「ちょこれーとぉ?わかった!」
 ドップラー効果のかかった声が遠のいて行く。元気ねえ、とサクラが呆れたように言った。
「先生、私達も手伝うよ」
「じゃあ、馬鈴薯と人参を剥いてもらおうかな」
「はーい」
「……………」
「サスケも手伝ってくれるか?」
「わかった」
 憮然としながらもサスケは素直に頷く。腹ぺこなのだ。
「カカシ先生、邪魔!」
 突っ立ったままのカカシにサクラが辛辣な言葉を投げる。どうぞ、座っててください、狭いですからとイルカが椅子を勧めてくれた。サスケにも座って野菜を剥くようにと言って、ボールと生ゴミを入れる袋を手渡すとイルカは腕捲りをしながら流しに向かった。蛇口から流れ出す水でざあっと手と野菜を洗う。水仕事をする腕がなんだかいいなあ、と思った。
 水と火のある場所にいることが肝心。
 そういう人といることが肝心。
 ナルトは無意識にそういう存在にすり寄っていく本能みたいなものがある。だから大丈夫だろうと思う。サクラはそういうもののある場所で育って、そういうものを既に持っている。だから安心。イルカと並んで人参を剥いている華奢な背中を眺めながら思う。鍛え上げていけばいいだけだ。
 一番心配なのは、自分の斜め横に座って黙々と馬鈴薯を剥いている優秀な少年だと実はカカシは思っている。最初から器用に色んな事がこなせてしまうのがまた、いいんだか悪いんだか。
 子供には分かんないだろーけど。
 カカシは深々と溜息を吐いた。
「サクラにもーちょっと色気があったらねえ」
「悪かったわねえ!!」
 呟いた途端、振り返ったサクラからもの凄い殺気が飛んできた。
「子供になんて事言うんですか、アンタは!!」
「イルカ先生までぇ!!私はもう大人です!!」
「ええ!?だってサクラ…!」
「…エロオヤジ」


「たっだいまー。買ってきたってばよ!……なんでカカシ先生だけあっちにいるんだ?」
「知らん!」
 三分後、買い物から返ってきたナルトは奥の間に転がっていじけているカカシの背中を見て首を傾げた。


「医食同源って言ってな、食べ物には薬と同じ働きがあるものもあるんだ。授業でやったよな」
「うんうん」
「じゃあ、カレーに入ってるスパイスで薬的効用があるものは?」
「んーと」
 目の前に並んだスパイスのビンをためつすがめつサクラ、ナルトが唸る。
「クミンは下痢止め・消化不良・腹の張りの緩和。ナツメグは気管支炎・腹の張り…コリアンダーは種と精油を頭痛薬と消化促進に使う…のよね」
「お、さすがサクラはよく覚えているな。でも肝心の鬱金が抜けてるな」
「えーと、鬱金は止血と鎮痛・強壮剤・肝臓疾患や皮膚疾患にも効果がある」
 よしよし、と満足そうにイルカは頷いた。
「ただし、いずれも匂いの強い物だから任務中の扱いはよく考えなきゃならない。野営時でも後方支援部隊に配属された時なんかはカレーもよく食べたけどな」
 へー、ほーと子供達の声。手早く下拵えをしながらイルカは即席の講義を元生徒達に聞かせている。
 なんか、実演販売みたい。
「いいなあ、イルカ先生って。つぶしがききそうで」
 ぼそりと言った言葉を聞きとがめたのはサスケだけだったようで台所から奥の間にチラリと視線を向けてきた。
 いや、ホントにね。
 自分みたいな戦闘に特化された忍は本来的な意味では奇形だ。歳食って体が動かなくなる前に出来る限りの術を集めて三代目みたいなエキスパートになるしかない。
 その点、中忍といえどイルカはバランスが良い。戦闘能力はさほどではないかもしれないが諜報などには役に立つだろう。自分だったら中忍などにはしないで下忍のまま里の手足として使う。中忍としての力量がないとかそういうことじゃない。その方が使い勝手が良いからだ。今は誰もが力さえあれば上の階級にいきたがるが、戦乱の時代を知っている熟練の手練れ達はそんなことは考えない。上忍とはいかないまでも特別上忍に匹敵するほどの技量を持ちながら下忍のまま地味な任務を黙々とこなしている忍達を自分は知っている。経験の浅い若い上忍などより実践においては彼らの方が余程頼りになる。自分が部隊を任されたらイルカみたいな男はどう使うか…、簡単な作戦行動を組み立ててみる。
 サスケが物言いたげな顔つきでこちらを見ている。
 ああ、いけない。こんな時にこんな殺伐とした事考えてるなんて。今、変な顔してたかな。少しばかり嫌気がさしてカカシはポケットから愛読書を取り出し、寝転がったままページを開いた。
「ちょっとカカシ先生!こんな時に何読んでるのよ!」
「へ…」
 見上げるとサクラが真っ赤な顔でプリプリしていた。手伝いもしないでゴロゴロしてぇ!、ブツブツ言いながら卓袱台の上を台拭きで拭く。協調性がないと叱られた。
「まあまあ、サクラ、カカシ先生は疲れてらっしゃるんだよ」
 イルカが取りなしてくれるが、俺達だってクタクタで腹ぺこだってばよ、とナルトにも言われてしまう。ハイハイ、と返事して「お前達、お腹空いて気が立ってるんだろ」とイルカは仕方がないなという風に笑った。
「後は先生がやるから、とりあえずこれで腹、誤魔化しとけ」
 イルカは子供達を奥の間へ移動させると、玉葱の匂いの染みついた手で不揃いのカップに牛乳を注ぎビスケットとチョコレートを盛った皿と卓袱台に並べて、自分は台所へ立った。
「俺も食っていいんでしょーか?」
 カップは四つ並んでいたが一応背中にお伺いを立ててみる。どうぞー、という返事の後にジャーと熱した鍋に何かを入れた音が聞こえてくる。
 玉葱を炒める匂い。人が台所で立ち働く気配を聞きながら居間に転がっているというのは大した贅沢だなあと思う。
 いつもは夕暮れ時、一人で歩く帰り道で嗅ぐどこかの家の夕餉の匂い。自分とは関係のない家々の窓の灯りが暖かそうで、一人の暗い家に帰る自分がまるで野良犬のような気持ちになる。一人の気侭な生活は心地いいし、誰の気配もない自分の部屋に入れば心底ほっともするのだけれど。
 子供たちが皿に手を伸ばす。空腹のあまりサスケの顔の締まりがなくなっているのが妙におかしい。
「サスケ、チョコばっか食うなってば!」
「………」
「サスケ!!」
「チョコくらいでガタガタ言うな」
「サスケ君には私の分のチョコあげるわ」
「あー、なんでだよサクラちゃん!」
「いらない」
「サスケ君…」
「サクラちゃん、俺が食うってばよ!」
「なんであんたにやらなきゃなんないのよ!」
 ギャーギャー騒ぐのを放っていたら、台所からゴンゴン、と鍋を叩く音が響いた。
「お前達、チョコレートくらいで喧嘩するなー。なんか情けなくなってきたぞ」
 イルカの声が飛んでくる。
 いいよね、こういうのって。
「あ!」
「う!?」
 突然、三人がこちらを向いたままぴたりと動きを止めた。
「今度はなんだー?」
 振り返ったイルカもそのまま硬直した。
「んー?」
 か、かかしせんせい、ナルトがはふはふと口を動かす。
「口、あったんだ…」
「何ゆってんの。当たり前でしょーが」
 ビスケットをぼりぼり囓りながらカカシは三人の顔を眺めやった。で、で、でもー、とサクラまで口が回らない。
「なんか、すごい違和感」
「やっぱ口、ない方がカカシ先生らしいよな」
「----ああ」
 おまえら、何、三人で確認し合ってるんだ。
 目を上げるとイルカはさっと後ろを向いてしまった。傷つくなー、もー。
「あたし、イルカ先生手伝ってこよっと」
 サクラがさりげなく台所へ立つ。おい!
 変に緊張している少年二人を横目にカカシは更にぼりぼりとビスケットを囓った。台所からはサクラとイルカがヒソヒソと話す声が聞こえてきた。今度からスリット入りの口布にしようかなー。


「イルカ先生に感謝してー」
 全員で手を合わせて、いただきます!を合図にガツガツとカレーを食った。本当に今日はお腹が空いたよ。
 ああ、でもこのカレー、あの味がする。
 ピタリとカカシはスプーンを持つ手を止めた。
「あれ?」
 あのカレーの味だった。具もたっぷり入って肉だってナルトが人の金だと思って特上の牛肉を買ってきた。なのにおんなじ味。
「このカレー…」
「どしたの、カカシ先生?」
 ポロリと福神漬けを口からこぼしてナルトが訊いてくる。
「このカレー、すごく美味い…」
「うんうん、イルカ先生のカレーすっごく美味いってばよ!」
 満面の笑みでナルトが言う。いや、そうじゃなくって、いや、そうなのか?
 うふふー、とサクラがイルカと顔を見合わせて笑う。
「私とイルカ先生の特性カレーだもんねー」
「サラダも食べて下さい。ドレッシング、サクラが作ってくれたんですよ」
 サクラちゃん、スゲーとナルトが素直に感心する。お前たち野菜食え、たんと食え、そう言ってイルカがナルトとサスケの取り皿に問答無用でサラダを取り分けた。サスケがサラダを口に入れるのをサクラはじっと見守っている。カカシはポカンと一同を見回した。
 人生最上のカレーライス。
 また巡り会えるとは思わなかった。
「美味いな」
 ぼそっとサスケが呟く。サクラの目がキラキラする。ナルトが幸せそうにカレーをかっ込んでいる。
 ああ、本当に美味しいな。


「ただいまー」
「おかえり、サクラ。夕飯食べてきたの?」
「うん、今日はみんなでイルカ先生ん家でカレー食べたんだ」
 台所で明日の朝御飯の下準備をしている母親の後ろにまつわりつくようにその手元を覗き込んで娘は今日あった出来事の報告をする。
「まあ、あんた泥だらけじゃないの。お風呂沸いてるから入りなさい」
「うん。あー、今日はつっかれた」
 ぐーっと伸びをしてサクラは流しの脇の食器籠からコップを取ると、冷蔵庫へ向かった。牛乳のパックを取り出してコップに注ぎながら、ねえねえ、と母親に話しかける。
「イルカ先生に美味しいカレーの作り方教えて貰ったんだ。お母さんにだけ教えて上げるね」
 甘えるように母親の背に手を添えて娘はこっそりと囁いた。
「仕上げにチョコレートを一欠片入れて煮込むの」
 美味しいんだよ。今度作って上げるね。




チョコレート入れると美味いというのはホントらしい。
海軍カレーのレシピに書いてあった。