「思い出カレー」


 路肩に停められた荷車の上で七班の下忍三人は口数少なくぼんやりと晴れた空を見上げていた。雲雀がピーチチチと高く高く昇っていく。春の陽は暖かく少し動けば汗ばむほどだ。捲り上げた袖も裾も泥だらけで、サクラは爪の間に詰まった泥を気にしている。
 班長のカカシが農園の主人と任務完了の確認をしているのがピーマンの苗の向こう、遠く見える。
 今日の任務は早朝から農家での草取りと肥料撒き、苗植え。なんでそんな仕事、と最初は文句を言っていた三人だが思った以上の重労働に次第に無口になった。
 ようやく伸ばすことが出来る腰や膝にほっとする。吹き抜ける乾いた風が気持ちいい。疲れていて暖かくて空が晴れていて、三人とも放心している。
「腹減ったなあ…」
 ナルトがぼそりと言った。
「うん…」
 上の空でサクラが答える。
「イルカ先生の卵焼き食べたいなあ…穴子が入ってるやつ」
「ああ、あのお弁当に入ってた」
「焼き味噌のおにぎり…」
 サスケは黙って雲雀の影を目で追っている。
「イルカ先生っつったら一楽のラーメンなんじゃなかったのかァ?」
 背後からひょっこり訊ねられてナルトとサクラが飛び上がる。
「カ、カカシせんせいっ、いつの間に!?」
「おまえらダレすぎ。家に帰るまでが任務です」
 どっかの先生みたいな事を言う。嘘っこ教師だ、とナルトは思う。ホントに先生なんだけど。
 サスケがチッと舌打ちする。農作業如きで困憊してぼんやりしていた自分に。
「先生、もう確認は終わったの?」
 こういう時に一番まともに反応できるのはサクラだ。
「ハイハイ。これ臨時ボーナスね」
 カカシが手にした袋を三人に差し出す。
「なんだこれ?」
「おっさんがくれた。おまえら、野菜ちゃんと食ってっか?」
 袋の中身は馬鈴薯、人参、玉葱。
「ああう〜、家帰って飯作るまで保たないってばよ」
 でも今日は珍しくラーメンという気分でもないのだとナルトは深刻そうに頭を抱えている。
「今はぁー、イルカ先生の巨大弁当箱の気分だなってばよ!」
 巨大弁当箱?なんじゃ、そら。呟いたカカシに重ねてサスケが「あれは重箱っていうんだ、ボケ」と冷ややかに突っ込む。
「そっかー、丁度今頃だもんね。遠足行くのって」
 サクラの言葉にうんうん、とナルトが頷く。
 遠足だの運動会だの、外で弁当を食べる行事があるとイルカ先生はおっきな弁当箱にいっぱいおかずを詰めて来るのだと下忍少年少女は口々に言う。
「穴子の入った卵焼きとー、焼き味噌の入ったおにぎりとー、唐揚げとー、野菜スティックとー、ほっけ」
 指折り数えてナルトは足をブラブラさせる。
「ちくわがうまかった」
 サスケまでぼそりと言う。胡瓜と梅肉を巻いたちくわ。
 微妙に飲み屋のつまみっぽい献立だなあとカカシは思う。
「私はいつも自分のお弁当があったから食べたことないんだけどね」
 サクラは正しくイルカの意図を察していたらしい。
 アカデミーの生徒のみんながみんな、弁当を作って貰える環境にあるわけではない。他の子供たちが親の作ってくれた弁当を食べている中、一人で不器用に自分で握った握り飯やパンを囓っているのは辛い。
「イルカ先生の巨大弁当箱〜」
 変な節回しでナルトが空に向かって歌う。いらないってゆっても来い来いと言われてなんとなく隣に座ってしまって、それでやっぱり美味しかったのだとサスケがぼそぼそ言う。育ち盛りの子供のことだ。さぞかし魅惑的な弁当箱だったに違いない。たとえ中身が酒の肴のような無骨なものばかりだったとしても。空きっ腹にお前の分だと差し出された食事と笑顔。
 ああ、あれだ。小麦粉のカレーライス。
 カカシは思い当たる。
 中忍宿舎の食堂の安っぽい味のカレーライス。



 カカシが中忍になったのは今担当している子供達よりも更に幼かった頃で、任務は一人前にこなしたが生活するという事に関してはまったく未熟だった。野営地での食物の確保や火を使わない料理の仕方は知っていたが市場でいくらでどれくらいの量を買えばいいのか分からない、野外での寝床の作り方は知っていたけれど家の布団を干すなんて発想はなかった。だから家の中にいても野外にいるみたいに暮らしていた。下忍時代の指導教官はその事態に頭を痛めていたらしく、中忍になったカカシを単身者用の中忍宿舎に放り込んだ。ここで人間らしい生活がどんなものか教えて貰えと。
 宿舎は七畳一間で便所と浴場は共同だった。一階の玄関脇に管理人室がありその横に食堂、向かいには談話室があった。宿舎に棲むのは皆、独身の男ばかりで年端もゆかぬ自分は随分珍しがられ、可愛がられた…というか、小突き回されたというか。ちなみに今の読書傾向は当時の周囲の影響が大きい。
 その頃はまだ戦国時代の気風が色濃く残っていて、宿舎は一つの陣営のような空気があった。いつでも誰かしらが任務に出ており、里の中にあっても里の外の空気がいつでも漂っている、それがカカシには合った。
 なにより一番良かったのは食堂がついていたことだ。
 おかげでカカシは任務から帰ってきて戸棚の中にニョロニョロと芽の伸びた馬鈴薯や液体と化した玉葱や、原型を留めぬほど黴に覆われた南瓜などを発見しないですむようになった。
 ある日、任務を終えて真夜中に宿舎に帰った時のことだ。
 カカシは腹ぺこだったが宿舎の食堂はすでに終わっており、何かを買いに出ようにも店も閉まっている時間だった。終夜営業の酒場などというものに足を向けることを覚えたのはずっと後のことでカカシは空きっ腹を抱えて途方に暮れた。幸い、宿舎の食堂はシャッターがあるようなご立派な造りではなかったから、廊下側のガラス戸の鍵を外から外して食堂の中に侵入した。いつもは調理係と配膳係が忙しく働いている調理場へ、高いカウンターを乗り越えて入った。何かないかと冷蔵庫を開けた瞬間、こらあっ!と大声がした。
 びくりと振り返ると、食堂のおばちゃんがネグリジェ姿で立っていた。
「あら、あんた今帰ったの?」
 コクコク頷くとおばちゃんはのしのしと近づいてきた。舎監をしている夫と一緒に住み込みで食堂を切り盛りしている彼女は、宿舎の住人達から密かに大魔人と呼ばれる女傑で、なにかとカカシの面倒を見てくれていた。
「お腹空いているのかい?」
 コクコク頷く。ちょっと、待っといで、とおばちゃんは大鍋の乗ったコンロに火をつけた。カカシはそこだけ明かりをともしたカウンターの側のテーブルに座って待っていた。やがていい匂いがしてきた。カレーだ。白い横長のお皿にこんもりと盛りつけられたカレーライス。
 美味かった。
 脂身ばかりのペラペラの肉と溶けてなくなりかけた野菜の欠片しか入っていないカレーだったがとてもとても美味かった。
 その後も何度か、夜中や明け方に任務から帰ると食堂に忍び込んではおばちゃんに発見され、残り物を食べさせてもらった。なぜかいつもカレーだった。
「子供はカレーが好きなもんだよ」
 そうおばちゃんは言っていた。


 あれが、人生最上のカレーライス。
 だけどもう食べられない。
 あの晩に中忍宿舎は焼けてしまった。
 どんなに高級な材料で作っても、あんなに美味いカレーは作れない。



 ふわ、と春先の埃っぽい暖かい風が前髪をくすぐった。腹ぺこの子供三人と畦道にぼんやり突っ立って空の上から降ってくる雲雀の声を聞くともなしに聞いている。
 お腹空いたなあ…。
「イルカ先生にカレーライスを作ってもらおう」
 ぽん、と手を打ったカカシに小さな下忍三人は訝しそうに目線を向けてきた。
「じゃあ、移動ー」
「ちょっと、待ってってばカカシ先生!」
 サクラが慌てて押しとどめる。
「いきなりなんでそうなるわけ!?」
 お前達の話を聞いていたら、
「なんとなく」
「なぜ!?」
 はてなマークをナルトとサクラが 同時に浮かべる。
「俺は帰るぞ。任務は終わったんだろ」
 スタスタと去って行こうとするサスケの背中に「まだ解散命令は出してませんー」とカカシの声。
「協調性に問題有り、と」
 報告書に書いちゃうよ、そう言うとサスケはもの凄く悔しそうな顔で戻ってきた。
「なんでカレーなんだ?」
 不思議そうな子供たちにカカシはニッと目を細めた。
「子供はカレーが好きなもんなんだよ」



私は子供の頃、カレーが嫌いでした。よ。