「再びカレー」
「どーも」
戸口に立った自分を見て、イルカ先生は驚いていた。
あれ?
もしかして、本当に来るとは思っていなかったのだろうか。
場違いな空気を感じてカカシの首が斜めになる。
でも来なさいって言ったのはそっちだ。
あんな真剣な眼をしたくせに。
だからカカシは当然のように要求した。
「カレー食わせてください」
イルカは慌てた様子でカカシを部屋に招きいれ、座布団をすすめ、茶を煎れた。
それからばたばたと台所へ立って、冷蔵庫をがたがた漁り、戸棚や引き出しをばたんばたん言わせた。
この間とはずいぶん態度が違う。
以前、この家へ来た時はゆったりと微笑んで迎えてくれたのに、今日はひどく恐縮した様子でなんだか来てはいけなかったみたいだ。
あれれ?と思う。
あの和やかな空気は今日はどこへいったのだろうか。アカデミーの子供達や受付所へ訪れた人々に向けられる穏やかな笑み。あれはどこにいったんだ?
子供たちがいないからか。
他の同僚も三代目もいなければ、任務帰りの忍達もいない。仕事中でもない。
仕事が終わって帰宅後、夕餉時、友人でもない男が唐突に訪れたら、まあ、こんなものかもしれない。
そういえば自分はこの男とたいして親しくもなかったのだ。
「なんか手伝います?」
背中に声を掛けると、大丈夫です、とはきはきと言われた。
姿勢が気をつけ!になっている。
「はあ。」
気の抜けた返事を返すと「すぐに作りますから!」と任務を拝命したなりたて下忍みたいな調子で応えられた。いや、実際のなりたて下忍たちの方が態度でかいんじゃないか?
お互いの立場や階級差を考えれば当然の対応かもしれない。
じゃあ、あれはなんだったんだろう。
この間の、黒い眼が真っ直ぐに覗き込んできて、手がそっと差し伸ばされようとした。
あれはなんだったんだ。
そして、あれっぽっちのことでノコノコと男の自宅にまで押しかけてきた自分はなんなのだ。
何かを期待したんだろうか。自分が、このさして関わりのあるわけでもない男に?
なんとなく、いいなあ、と思っていた。
多分、子供達の影響だ。
彼らがあんまり自然に打ち解け合っているから、イルカが子供たちに向ける笑顔が傍にいる自分にまで向けられているような気がしていたのだ。
なんだ。
すっと頭の芯が冷える。何を浮かれていたんだ、らしくもない。
胡坐をかいた背中を丸める。
台所から漂ってくる緊張を横顔に感じながらカカシはポケットから愛読書を取り出した。
「イルカ先生は今の生徒達にもあの卵焼きを食べさせてあげてるんだなって、そういうのって、なんか、なんか、さあ、」
先日、班員全員でここへ押しかけた帰り道、サクラ、サスケと分かれた後カカシと並んで歩きながらナルトがぽつぽつと言った。
日が暮れて、楽しい時間が終わって少し寂しくなったのかもしれない。真一文字に口を結んで何かを飲み込む。
「でもイルカ先生は先生だから。ずっと俺の先生だから」
だから自分は分かっているのだと、ナルトは言った。何を、とは言わなかったし、多分表現する言葉も持っていないのだろうが。
「カカシ先生、俺ってば、もっともっと修行して強くなっちゃうんだってばよ。そんで、そんでさあ、」
火影になる、といつもの口癖のように言った。でもそれは少しだけいつもの意味とは違っているような気がした。
互いの自宅へ向かう分かれ道で小さな背中を見送って、カカシは思案する。
(まだ早いかと思ってたんだけど、なあ)
子供は随分早く成長するものだと初めての教え子達に驚かされる。自分は色んな行程をすっ飛ばしてこんなになってしまったんだけれど、どうなんだろう。こういうもんなのかな。どちらにせよ、カカシは自分の感じた手応えを信じる。
分け隔てなく注がれる愛情よりも、ただ一人の人間として必要とされる、いつでもそれを信じて胸を張っていられる、そんな風にしてやりたいじゃないか。
存外自分は初めての教え子たちに対し思い入れしてしまっているようだ。カカシは一人で肩を竦めた。自分と同じ轍を踏まないように、些細な切っ掛けで壊れてしまうものが多くある事を早く理解して欲しい、失う前に、そんな事ばかり考えてしまう。
強くなって欲しい。早く、手遅れにならないうちに。自分が手を離しても生きていけるように。
そんな自分の気持ちに応える様に幼い部下達は必死でカカシの背を追って来る。
それが、
「子供を可愛いと思うようになるなんてなあ」
変な感じ。
「あの、ナルト達はどんな調子です?」
本のページを眺めながら考え事をしていたら声を掛けられた。
「え?」
「あ、すいません、本読んでらしたんですか」
振返ったイルカが申し訳なさそうな顔をする。どうぞ読んでいてください。そう言われたけどカカシは本を閉じた。
「元気ですよ。相変わらずナルトはポカが多いし、サスケはスタンドプレイが多いし、サクラはパニクってばかりですけど」
「は、はは…」
すみません、と何故かイルカが頭を下げた。
「別にイルカ先生のせいじゃないでしょう」
「でも…」
うう〜、あいつら〜…イルカが頭を抱える様は可笑しかったがちょっと引っ掛かる。
「部下を巧く使えないのは俺の責任ですよ。適切な行動が取れないのはあいつらの責任です」
でも、それを補い合って任務をこなしているのだ。
「問題がないわけじゃありませんけど、任務を失敗したことはありません。イルカ先生に謝っていただくような事は何もありません」
依頼人でも班員でもない人間に文句を言われたり、ましてや謝られるような筋合いはない。きっぱりとしたカカシの口調にイルカの表情はまた硬いものになった。
「そうですね」
それきり口を閉ざして背を向けてカレーを作り始める。
あれ?
もしかすると会話の糸口というものを自分はぶった切ったのだろうか、今。
----------おかしい。
自分はただもう一度、あのカレーが食べたかっただけなのに。
なぜこんなに空気が緊迫しているのだろう。
イルカはまた黙り込んで流しに向かっている。
このあいだは手を動かしながらも朗らかに子供達に声を掛けていたよなあ。
俺、変なこと言ったかな?
ああ、なんか、こういうのって、なんだったっけ。昔、言われた。
『お前はもっと周囲の空気を読んで話さないと友達できないぞ。』
そういえば任務で部隊を率いている時も自分は部下達に遠巻きにされていたっけ。馴れ合いになって空気が弛むのも良くないからそれで構わないと思っていたのだけれど、里に落ち着くようになって子供達を相手にするようになるとどうも勝手が違うのだ。
遠巻きにしてくれない。
大昔に失くした仲間達みたいに。
そうしてやっぱり自分は昔とたいして変わってもいないのだった。
今日のカレーには茄子とほうれん草が入っていた。
牛肉のかわりに鶏肉が入っている。
ことん、と目の前に置かれた皿を眺めて、この前と違うなあ、と思っていた。
「牛乳と水、どちらがよろしいですか?」
イルカ先生はバリバリの敬語だ。この間は「来なさい」なんて先生口調だったくせにカレーの載った卓袱台を挟んで上忍と中忍の礼節を重んじた会話を交わしている。水か牛乳かで。
「水でお願いします」
カカシもイルカの緊張感が伝わってきてつい正座になる。
卓の上にはカレーとサラダとらっきょう漬け。水のコップをイルカが二つ並べる。
「いただきます」
なんとなくお互い軽く一礼してスプーンをとった。
口を覆う布を引き下ろして、まず一口。
カレーの味だ。
やっぱり美味しい。
なんとなく釈然としない気持ちになる。
憧れのカレーライス空間は発現していないのに、やっぱりイルカのカレーは旨いのだった。
自分を受け入れてくれる優しい人と一緒に食べるから美味しいのだと、そんな風に思っていたのに。
俺のたった一つのメルヘンが…。
ちょっと泣きたくなった。
「いかがですか?」
イルカがじっとこちらの顔を見つめていた。微かな表情の変化も見逃すまいとしているように。
「美味しいです」
「本当に?」
「本当ですよ」
疑わしそうな視線をイルカが寄越す。カカシは仕方なく頬を緩めて見せた。
「ホントです。イルカ先生のカレーは美味しいです。懐かしい味がするんですよ」
「金缶より旨いですか?」
「当然ですよ!あんな畜生の食う‥‥」
ん?
「よかったあ」
イルカはほうっと息を吐いて床に突っ伏した。
「え?どうしました?」
「食いにきなさいって言っといて猫缶よりも不味いもの食べさせるわけにはいかないじゃないですかあ」
「は?」
よかった、もう一度言ってイルカはにっこりと笑った。
その笑顔にカカシもすとんと肩から力が抜けるのを感じた。
緊張していたのはお互い様だったらしい。
二人とも自然に足を崩して楽な姿勢になって、カレーを食べた。えへへ、といつもの受付所で見せる顔になってイルカが言った。
「この間、あいつらをうちに連れてきてくださってありがとうございました。嬉しかったです」
そう言って照れくさそうに目線を俯けた。
「急に押しかけてしまってご迷惑でなかったですか?」
「いえ、ああいうことでもなければ、生徒をうちになんて呼べませんから。本当はもっと早いうちに、そういうことしてやれたら良かったんですけど、俺はアカデミーの教師ですから-----」
特定の生徒だけ特別に扱うわけにはいきませんからね。俯いたままイルカ先生は続けた。そこにはそれなりの葛藤があったように見受けられた。
「それに今はカカシ先生がついていてくださいますから」
顔を上げた人の鉄壁の笑顔が少し曇っているのを見て、カカシはなんだか胸の内がもやもやした。
数十人を一度に見なくてはならないアカデミー教師と違って、スリーマンセルの教官は一人一人を細やかに見てやることが出来る。任務で行動を共にする期間も長いし、生活態度や仲間に対する接し方などの問題も指摘したり相談に乗ったりする事になる。カカシはあまり互いのプライバシーには関わらない主義だが、任務をこなすうちに自然に連帯感も生まれる。
嫉妬されているのかな、とふと思った。
「---------------俺ねえ、」
スプーンで鶏肉の塊を転がしながらカカシは口を開いた。
「あいつらを指導するようになってから、昔の事をよく思い出すんですよ。昔、自分が指導教官に言われたこととかね」
ころころと皿の上で肉を転がしながら、カカシは記憶を辿った。
「気がつくと同じことをあいつらに言ってたりしてね。今にして思えば、あれはこういう意味だったんだなあ、って。今になって分かるんですよ」
イルカはぼんやりと自分を見ている。
「あなたでもそんな事思うんですか?」
「意外ですか?」
「意外です」
そう言ってイルカはくしゃりと笑った。
それから暫く、他愛ない話をぽつぽつ交わした。緊張が取れるとなんとなく互いに照れくさいような浮き立つような心持がしてきて変な感じだなあと思った。
カカシはずっと疑問だった事を尋ねてみた。
「このカレー、美味いですよね。なんかコツとかあるんですか?」
イルカはにんまり笑って「秘密です」と言った。そして逆に尋ねられた。
「カカシ先生は前線に出る事の方が多いんじゃないんですか?」
「そうですけど」
「じゃあ、知らなくっていいんです」
「ええ?」
あんまりあっさり言われたのでカカシは「なんでですか」と食い下がった。なのにイルカは「上忍の方はは知らなくっていいことなんですよ」と取り合わない。
通常、中忍よりも上忍の方が握っている情報量は多いと思われているが、中忍にも中忍だけの情報網があって、そこからしか知る事の出来ない情報があるのだとイルカは言った。
「--------中忍もなかなか侮れませんね」
「上からも下からもせっつかれるんでね、自然したたかにもなるんですよ」
自分の知らない里の顔がまだあったのかとカカシは唸った。案外、自分は何も知らないのかもしれない。
美味いカレーの作り方とか。
「同じ里の忍なのに情報の占有はずるいですよ」
「情報の占有こそが忍の本領じゃありませんか。はたけ上忍ともあろう方が、忍らしからぬ事を仰いますねえ」
あっはっはとイルカ先生は楽しそうだ。カカシはむうっと眉根を寄せた。忍としては自分の方が階級も実力もはるかに勝っているはずだ。なのに、この男の知っている事を自分は知らない。
「上忍だって美味いカレーが食いたいじゃないですか、ずるいですよ!」
思わず子供のように口を尖らせていた。その自分の顔を覗き込んでイルカ先生は言った。
「だから、このカレーが食いたかったらあなたは生きてここへ帰ってこなくちゃならないんです」
さらりと殺し文句を吐いた男にカカシは目を見張った。
「これはそういうカレーなんです」
生徒に教え諭すようににっこり笑った顔にクラクラする。
そういう科白を自分のような男に向けて言う意味が、この人は分かっているのだろうか。そんな言葉を掛けられて気持ちを預けてしまうのは子供だけじゃない。木の葉の犬は忠実なのだ。
怖い人だな。
そう思った。
近づかないようにしなくちゃ。
「そのままにしておいてください」
食器を下げに台所へ立ったカカシにイルカは慌てて言った。
「作ってもらったんだから洗い物くらいしますよ」
「いえ!本当に!こちらが呼びつけたんですけら、気にしないでください!」
カカシはイルカの声に構わず食器を流しに入れると蛇口を捻った。
「イルカ先生はお茶でも用意してください」
後ろへやってきてうろうろしているのへ声を掛けると、はあ、と返事して薬缶を火にかけて手持ち無沙汰に立っている。
ただの中忍だ。
子供達の大好きなイルカ先生。
子供達が大好きなイルカ先生。
同じように戦場に出た経験があるのに、彼の世界と自分の世界は随分と違っているようだ。
さっきの科白だって、きっと誰かがこの人に教えたのだろう。一緒にカレーを作りながら。
カカシにとって、それは木の葉の里という故郷の馴染みきれない、息苦しく纏いついてくる、それでいて捨て去る事も出来ない泣きたくなるような何かと繋がっている。
その何かのおかげで自分は壊れもせずに生き延びて、こうして下忍のチビすけどもの教官になったりしているのだ。
そういうのも悪くはないと思う。
でもやはり自分は怖い。そんなものに直接自分の手が触れてしまう事が怖い。
そういうものは、ただ遠くから眺めていられればいいのだ。
自分の部下達には自分のようにはなって欲しくないと願いながらも、そう思っている。
シンクに水を溜めながら、カカシはもうカレーは食いに来ないと決める。
優しい里の、優しい人。
この人達はいつでも、誰に対してでもそんな言葉をかけるのだ。教室でも演習場でも、戦場の後援部隊のキャンプでも。
自分の使った食器を綺麗に洗い流して、心臓が止まりそうな殺し文句も忘れて、この家を辞して、いつもどおりの自分に帰ろう。
そして時々、遠くから眺めて安心していればいい。
そう決めてしまってカカシは丁寧に皿を洗った。油に塗れた陶器の表面が真っ白になってつるりと水が滑ってゆくまで。
「うん?」
指先に触れた鋭い感触にカカシは手を止めた。
重ねた皿の下から見覚えのある金色の空き缶が現れた。
「金缶?」
「あああ〜〜〜〜〜っ!!」
イルカ先生が突然叫び声を上げ、ざっと壁際まですっ飛んだ。
「イルカ先生?」
片手で口元を覆った顔が真っ赤だ。
もしかして。
「食べたんですか?」
「いや、その、そんな…、-----------------------はい」
耳まで真っ赤にしてイルカ先生はおたおた答えた。
「イルカ先生、猫缶好きだったんですか?」
「ち、違います!!」
そうだろう、普通。自分が猫缶を主食にしている事があると知った人間は大概ひく。
「じゃあなんでこんなもの?」
イルカはきゅっと唇を噛み締め、何度か舌で唇を湿らせた後、酷く言いにくそうに口を開いた。
「あなたが、食べていたから」
「はあ?」
「すみません!」
突然、イルカ先生はがばっと頭を下げた。
「あなたが、どうして猫缶なんか食べてるんだろうと思って、気になって、」
「それでこんなもん食べたの?」
美味しいカレーの作り方知ってるくせに。他にもきっと人間らしい料理を作れるだろうに。
「俺の事が気になったの?」
「すみません!!」
うわあ。
この人って、ホントに怖い。