「誕生日の思い出」
任務を終えて里へ入ると、立ち並ぶ家々は既に寝静まり、窓越しの光もなかった。
ぽつん、ぽつんと間隔の空いた街灯の下を、ひたひたと己の足音を聞いて歩いていた。
腹が減っていた。
アテはあった。
大門通りを火影岩を見上げながら北上する。ぴたりと戸を閉ざした商店の並ぶ通りの一角に、赤提灯の屋台がある。
夜遅くまでの任務を終えての帰り道に、何度か立ち寄った事がある。おでんとコップ酒と、白飯が食べられる。
任務帰りに寄る忍達が多いので、おでん屋なのに飯をいつも炊いて用意している。赤い暖簾から漏れる光の輪の中には猫。店主の飼い猫なのか、いつも屋台の車輪の脇で蹲っている。時折、客が投げて寄越すちくわやはんぺんの欠片を囓っている。
今日は先客がいるようだ。
暖簾の中の小さな丸いパイプの椅子に、どかりと腰掛けた尻が見える。
自分と同じく、任務帰りの誰かだろう。
カカシはゆっくりと近づいて、暖簾をひょいと捲った。
「飯、まだ残ってる?」
屋台の向こうのオヤジに尋ねると、「ありますよ」とごま塩頭のオヤジは、特に愛想も良くなく、無愛想なわけでもない顔つきで答えた。いつもながらなんともいえない顔をしている。忍達を相手にしていると一般の里民でもこんな顔つきになるのだろうか。
「あ、」
斜め下から声がした。
見下ろすと、先客の男がカカシを見上げて黒い目を見開いていた。
「おや。こんばんは、イルカ先生」
カカシも意外に思いながら挨拶を口にすると、久しぶりに会ったイルカは白い歯を見せて頭を下げた。
「お久しぶりです」
木の葉崩しからこっち、任務、任務、任務、ですっかりご無沙汰していた顔だ。イルカの方も任務に駆り出されていて、受付所でも顔を合わせることがなかった。
「イルカ先生も任務帰りですか?」
隣の椅子に腰を下ろしながら尋ねると、
「はい」
と頷く。
イルカの皿には既に食べ終えた海老天の尻尾と、牛スジの串が二本、玉子が一個、食べかけの崩れたロールキャベツが載っていた。
「俺もロールキャベツ」
目に映ったのが美味しそうだったので、カカシも頼む。
「あと、大根とこんにゃくと、ゴボ天、つみれ、たこ。それから御飯ね」
カカシの声を追って、オヤジが次々とおでんの具を取り皿に拾い上げてゆく。蓋を外したおでんの鍋からもうもうと湯気が上がって、顔の表面を湿った温かさが包み込んだ。
目の前に置かれた皿から、まずはゴボ天に齧り付く。熱さを堪えてはふはふと頬張ると、隣で頬杖をついたイルカが笑った気配がした。イルカの手にはコップ酒。冷やでやっているらしい。
「いいなあ」
イルカが飲んでいると旨そうに見える。
「俺も飲んじゃおうっかなあ。明日も夜勤だし」
羨ましそうに言ったのが可笑しかったらしい。イルカが笑みを深めた。黒い髪が肩口でぱさりと揺れた。
この先生は、生徒の前では口やかましいが、こうしていると随分と静かだ。里の外へと任務に赴く忍達特有のひそやかさが、今の彼にはあった。
「その酒はなに?」
「白菊です」
メジャーな安酒の名をイルカは答えた。
安酒だけれど辛口だから、後味は悪くない。
「オヤジ、俺にも一杯」
言ってから、ふっとカカシは笑った。
「なんですか?」
「いや、」
首を傾げたイルカに、カカシは首元を擦った。
「俺もいっちょまえに、屋台でコップ酒なんて飲むようになっちゃったなあ、って」
赤提灯で一杯、なんて昔は煤けたオヤジの象徴みたいに思っていた。
「大人の特権ですねえ」
イルカは皿の上のロールキャベツを箸でつついた。
「俺、今日、昔の部下達に”誕生日おめでとうございます”なんて言われちゃいましたよ」
ふふふ、と笑うと、イルカは目を丸くした。
「今日、誕生日だったんですか?」
「うん、そう。びっくりしました。知ってるんだもん」
カカシは卓に置かれたコップ酒を手に取ると、口元を覆う布を引き下ろして口をつけた。
「長生きはするもんですねえ」
かつての暗部の部下達に祝われるような立場になるとは思ってもみなかった。そんな事を考えつく連中だとは知らなかった。
だから今夜は機嫌が良い。
自分を省みてくれる奴らがまだいるのだ。
イルカはしばし、カカシの横顔をじいっと見つめていた。
なんだろう?とカカシが顔を向けると、黙ってイルカは箸につまんだ玉子を突き出してきた。
「あげます」
「へ?」
「誕生日プレゼント」
ころん、とカカシの皿に玉子が転がりこむ。
「誕生日おめでとうございます」
唸るように言って、イルカは正面に向き直る。
その顔がみるみる赤く染まってゆくのを、カカシは呆気にとられて見つめていた。
去年の9月15日の出来事だった。
「なんで、あの時あんなに赤くなったんです?」
湯気の立つおでん鍋を前にして、イルカからも湯気が出そうだった。
「おでんのタコみたいでしたよ」
「知りません」
窓の縁に肘を突いて校庭を眺めながら、イルカはむすりと口を尖らせた。
窓の外には明るい緑が芽吹き始めていた。
初夏の風が窓枠に凭れたカカシの背中から首元を擽って、職員室の中を吹き渡っていった。
カカシは自分の肩越しにイルカの横顔を眺めている。
「恥ずかしかったのかな。自分なんかがカカシさんに、誕生日プレゼントです、なんて」
しかも玉子だし、と言ってイルカは鼻の頭を掻いて少し赤くなった。
本当に玉子なんてねえ、とカカシは心の中で呟く。
そんなものを貰った事がどうしてこんなに印象深く心に残っているのだろう。
赤くなる顔を誤魔化すように真面目くさった顔で正面を向いて、冷酒を口元に運んだ姿を今でもありありと思い出せる。
なんで、あんなに赤くなったんですか?
今はこんなに普通に話しているのに。
カカシは手を伸ばしてイルカの耳朶を摘んだ。
「は?」
目をまん丸にしてイルカが振り返る。
柔らかい耳朶を引っ張って、カカシは笑った。
「今月、誕生日なんでしょ?一楽のラーメン奢ります。玉子付きで」
カカシが言うと、イルカはみるみる真っ赤になった。指先で摘んでいる耳朶も可愛らしいピンク色に染まる。
意識し始めたのがイルカからだったのか、カカシからだったのか、今はもう分からない。