春の宵のことだった。
夜風にどこかで咲いている桜の香りが漂っていた。まだ肌寒さを感じる頃で、だが世界は新しく芽吹く気配に満ちていた。
イルカは自分のアパートの居間で卓袱台に頬杖をついていた。つけっぱなしのテレビからバラエティ番組のがちゃがちゃした音声が溢れていた。それをかき消して、時折、窓の外で風がごうと吹く。荒々しい春の風だ。卓袱台の上には新しいクラスの名簿と指導要綱が広げられていた。
明日から新学期が始まるのだ。
真新しい日誌と使い古した教科書が一緒に鞄に詰め込まれている。明日出会う子供達に思いを馳せる。それから今日、下忍に無事昇格したと報告に来た卒業生達の誇らしげな顔を思い浮かべる。
イルカはきれいに片付いてしまった部屋の中を見回した。
二週間ほど前につき合っていた彼女と別れた。彼女の異動のためだ。結婚するつもりでいたのだけれど、二人とも遠距離で関係を続けることに自信がなかった。
きれいな別れ方をした。素っ気ないほど。
彼女の持ち込んだ物はすべて持ち去られ、イルカの部屋は殺風景な男の一人住まいに戻っていた。
悲しい気持ちはすでに消えていたが、すっきりしたような寂しいような、地に足の着かぬような、そんな心地でいる。
イルカは安普請の教員住宅の、風に揺すぶられ軋む音を心許なく聞いていた。
頬杖をついたイルカの背後でドアが鳴った。
こんこん、と意志を持った強い音だった。誰かがドアを叩いている。自然の音とテレビの人工的な音しかなかった中で、誰かのたてた生の音はいやにくっきりと響いた。
誰だろうかと訝しみながらイルカは立ち上がり、玄関のドアを開いた。
ドアの外にはアパートの廊下の蛍光灯に照らされて、一人の男が立っていた。どこかしらはっとさせられるような容貌の男だった。
里から支給されるベストを身につけていたからすぐに同業者だとわかった。イルカより上背がある。顔は---分からない。顔半分は覆面で隠されている。片方の眼も斜め掛けした額宛で覆われていた。鈍く輝く銀髪がわっさりと額にかかる。わずかに覗いている右目の爬虫類のような薄い目蓋が酷薄そうに見えた。額宛に刻まれている紋は同里の人間であることを示していたが、イルカは警戒で身が強張った。
とても危険で異質なものが自分のテリトリーへ侵入してきた、そんな気がしたのだ。
男は半眼になった右目を少し見開いてイルカを見た。そして口を開いた。
「夜分に失礼します。イルカ先生」
男はイルカが予想したよりも滑らかな耳障りの良い声をしていた。口調ものんびりと間延びしたものだった。
「は、い」
先生と呼ばれてイルカは不審に感じる。見たこともないこの相手は自分の職業を知っているのだ。どこかで関わったことがあっただろうか?記憶の片隅からひょろりとした長身の立ち姿が目に浮かんだ。この男は見たことがある。
どこでだったろう?
首を傾げたイルカに男が告げた言葉はイルカの予想を遙かに超えたものだった。
「俺、イルカ先生の彼女に弄ばれました。責任取って下さい」
晴れた夜空に花を散らす風がどう、と吹いて男の銀灰色の髪を乱した。
嵐の到来だった。
いきなり宣告された言葉に訳が分からず、イルカは男の顔を見上げた。
「俺がこんな風になってしまったのはあなたのせいだと思うんですよね」
玄関の戸口に立った男は更にイルカに言った。のんびりとした口調なのに押し出しが強いような気がする。こいつは上忍かな、とイルカは内心で見当をつけた。不審感をあらわに男の顔をじろじろと見た。よからぬ事に発展しそうな気配だ。嫌な予感がする。泥水に足をつけるのを嫌ってつま先立つ猫のように、イルカも神経質にこの事態から離脱する手立てを模索し始める。
彼女、というのは二週間前に別れた彼女の事か?弄ばれたってどういうことだ。彼女はイルカの恋人だった。この男となにか関わりがあったということだろうか?どうやらこの男はイルカの事を知っているようだ。自分は知らない。彼女が他の男と何があったというんだ?弄んだ?
イルカは眉間に皺を刻んだ。
いや、一方的にこの男が彼女に懸想していたということも考えられる。振られて逆恨みしてイルカの所へやってきたのか。
だが、直感的にそれはないなとイルカは思った。こんな上等そうな男を袖にする女が果たしているだろうか。覆面で覆われていても男の顔が端正であることは容易に想像がついた。何気ない立ち姿からも男が腕の立つ忍であることが伺えた。
これで振られるとすれば、中身に相当問題があるということだろう。
イルカは土間の隅に盛られた塩の山に視線を落とした。
彼女の去り際の言葉を思い出した。彼女はイルカに申し訳なさそうに言った。
−−−私、ものすごく厄介なモノをあなたのテリトリー内に呼び込んじゃったかも
嫌な予感がする。
「彼女との間に何があったかは知りませんが、俺達はもう別れましたので」
イルカは会話を切り上げてドアを閉めようとした。
男の言葉からこれまでの経緯は見当がついてしまったが、決定的な事は聞きたくない。
彼女はもう去ってしまったのに、今更そんな事を知らせに来るこいつはなんなんだ。
既にイルカの中では目の前の男は敵対する相手として認識されていた。二週間前までつき合っていた彼女に対する好意にも罅が入り始めた。全部ここから閉め出して忘れてしまいたい。
だが、イルカが閉じかけたドアに素早く手甲をはめた手が掛けられた。男の痩せた外見からは想像もつかない力が扉を閉じる事を邪魔する。
「俺、あなたの女と寝てました」
男の言葉にガツンと横っ面を殴られたような気がした。はっきり言葉にされると予想外に堪えた。思わず体の脇で拳を握りしめる。
「なんで、今更、そんなことを俺に言いに来るんですか?」
彼女の浮気にも気がつかずに、彼女は恋人だと思い込んでいた間抜けな男を笑いに来たのか?
全身の怒気を込めて睨み上げたイルカの顔を男は覗き込んできた。
「あの時、あなたがその眼で俺を見たでしょう。だから、俺はおかしくなってしまったんだ」
イルカの目を覗き込んで男は言った。
あの時?いつだ?いつ、自分はこの男を見たんだ?
間近で見ると男の右の眼は黒ずんだ灰色をしていた。人間味を感じられない、動物じみたその眼にイルカは違和感を覚える。なにか、こちらの言葉が通じないような、イルカの感じている憤りとこの男の中にある感情がまったくすれ違ってしまっているような気がしたのだ。
「この責任はとってもらいます」
何が?何の責任?
恋人を寝取られていたなどと知らされて傷ついたのはイルカの方だ。こっちが慰謝料を請求したいくらいだ。
「何を言っているのかまったく分からない!あんた、人の婚約者に手ぇ出しておいて−−−」
彼女に二股を掛けられた上に去られたことに腹を立てているのならイルカに恨み言を言うのは筋違いだ。
「彼女に未練があるなら追いかけていくなりなんなりすればいいじゃないですか!俺はもう別れたんだ!」
「別れた彼女じゃ意味がない。それに、もう−−−俺はこんな間近であなたを見てしまった。こんな、触れられるくらい近く−−−」
男が翳した手にイルカは思わず身を引いた。間近に見据える鈍色の眼の狂おしい光にイルカは少し怖くなってきた。
「もう、誰も代わりに出来ない」
途方に暮れたような、どこか熱に浮かされた顔つきで男は言った。その様子は恋人の不義の相手の家に乗り込んできて言いがかりをつけているというより、なにかもっとまずい、イルカにとって危険な存在のように思えた。
男の片目が嘗め回すようにイルカの顔や首筋を眺めている。
「知らない!俺は関係ない!帰れ!」
恐怖心に煽られて男を突き飛ばしてイルカはドアを閉めた。背中でドアに体重を掛けながら鍵をかける。
こつん、とドアに振動があった。
ドア越しに男の気配が伝わってくる。
「イルカ先生」
確認するように呟く声が聞こえた。ぞっとするような、胸に突き刺さるような響きでイルカはわけの分からない不安感に襲われた。
しばらくすると気配はドアから離れ遠ざかっていった。
翌日は忍者アカデミーの入学式だった。
晴れ渡った空に三代目火影の声が厳かに響く。整然とした列に新入生の小さな体が落ち着きなくそわそわふらふらと立っている。イルカは壇上の三代目の脇に、他の教員達と一緒に手を後ろに組み背筋を伸ばして立っている。その後ろには見事な桜の枝が、新入生達を歓迎するようにこんもりと薄紅色の花を咲かせている。
ぽかんと口を開けて校庭を見回している子、生真面目な顔で火影の話に聞き入っている子、足をぶらぶらと揺らして落ち着きのない子、今年も色んな子供がいる。
新入生達の顔を見渡してイルカも新しい日々の始まりに身が引き締まる思いがする。今年は年少クラスを受け持つことになった。3年前に年少クラスを受け持って、そのまま持ち上がりで担任をしてきた。その彼らの卒業と一緒にイルカもリセットされたような気分だ。
ふと、彼らの中に一人、真っ赤な顔をしている子供がいるのに気がついた。立ったまま足を摺り合わせて体を強ばらせている。
イルカはすっと教員の列から抜け出て早足で子供達の間を縫ってその子供に近づいた。
「具合悪いのか?トイレ行くか?」
身を屈めて子供に囁くと、子供は切羽詰まった顔でこくこくと頷いた。
「おいで」
子供の肩に手を置いて、列を抜けて校舎の入り口へと連れて行った。校舎に入ると一刻を争い駆け足で校舎一階のトイレへ向かう。トイレの個室へ子供が駆け込むと、イルカはほっと息を吐いた。
皆、入学式に参列しているため校舎内はがらんとしている。春らしく晴れた暖かい日で入学式にはふさわしい日和だ。イルカは窓から差す日の光に目を細めた。
眩しさの中にふと、面影が過ぎる。
自分の肩の横に波打っていた彼女の亜麻色の豊かな髪。春の訪れを待たずに別れてしまった彼女だ。
イルカは首を傾げた。既視感があった。
丁度、こんな日だった。彼女と連れだって廊下を歩いていた。不意に立ち止まって顔を上げた彼女の視線を辿ると一人の男が立っていた。窓から差し込む日の光が銀色の髪に反射して白く眩しかった。大きな窓、あれは本部棟の廊下だ。
そうだ。本部棟の廊下ですれ違った。
当時、まだつき合っていた彼女と一緒に昼食を取るために受け付け外の廊下で待ち合わせて、本部棟の食堂へ行こうとしていた。一月ほど前のことだ。彼女が誰かに気を取られたように顔を上げたので、イルカもそちらを見た。男が立っていた。顔なんか見えなかったのに、いい男だなとイルカは思った。彼女が男に微笑みかけたので少しだけ面白くなかった。
思い出した、あの男だ!
昨夜、突然イルカの家を訪ねてきて訳の分からない言葉を吐いた男。以前、一度だけ廊下ですれ違った。やっぱり彼女の知り合いだったのだ。
知り合いどころか………。
−−−俺、あなたの女と寝てました
思い出された声の響きを追い払うようにイルカは首を振った。
トイレから新入生の子供が出てきた。
「間に合ったか?」
と訊くと照れくさそうな顔で笑った。イルカもにかっと笑った。
「ああいう時は近くの先生に言って席を離れてもいいんだからな」
ぽん、と子供の背中を叩いて式場へ戻る。
イルカの賑やかな日常はもう始まっているのだ。
今、明るい昼間の光の中で考えると昨夜のことなど夢でも見ていたんじゃないかと思える。
まあ、ちょっとした修羅場ってやつだ。元カノが浮気をしていた。その相手が自分を責めに来た。理不尽だが、向こうも二股をかけられていたなんて知らなくて、彼女が里からいなくなった後でイルカの存在を知ってショックだったのかもしれない。そう考えればあの男だってイルカと同じ境遇というわけだ。それでちょっと非常識な行動に出たのかもしれない。
あんな男前でも女に振られておかしくなったりするんだな。
変な所でイルカは感心した。
ただ、あの眼、イルカを見た執拗な視線を思い出すと今でもぞわりと鳥肌が立つ。
イルカは再びぶるっと首を振って、嫌な予感を振り払った。無意識に自分の理解可能な範疇に事態を押さえ込んでしまおうと考えを巡らせる。そうだ、彼女が悪い。彼女が元凶なんだ。自分もあの男も彼女に弄ばれたのだ。
くっそー、騙された。あいつ!
あんな美人で優秀なくの一が自分なんかに靡くなんてそもそもおかしいと思ったんだ。自分では物足りなかったんだろう。
くっそー!くっそー!くっそー!くっそー!!!
くっそー……なんか…………凹む。
講堂へ続く渡り廊下を子供と歩きながら、イルカは肩を落とした。
もう二度と会いたくないと思った相手は、意外な形でイルカと関わる事になった。
入学式の後、ナルト達が自分達の上忍師だと連れてきた男を見てイルカは寿命が縮む思いをした。
三代目に見せられた書類に「はたけカカシ」という名を見つけ、添付された写真がどう見てもあの夜の訪問者だと思いはしたのだけれど、イルカはそれを認めたくなかった。それがいきなり生の形で自分の前へ持ってこられたのだ。
「この人、カカシ先生。俺達の新しい先生だってばよ」
ナルトに満面の笑顔で紹介されてもイルカは何も答えられなかった。カカシと呼ばれた男はイルカの顔を一瞥すると「どうも」と頭を下げた。
まるでイルカの事など知らないといった風だ。初対面で特に興味もなければ、愛想を振りまく必要もない、そんな相手に対するような態度だった。
昨夜とのあまりの違いにイルカはぽかんとカカシの顔を見つめてしまった。いつまでも言葉を発しないイルカにサクラが不審そうな声を上げる。
「どうしたの?イルカ先生?」
その声に慌ててイルカは「アカデミーで教師をしています、うみのです。よろしくお願いします」と取り繕うように早口で言ってカカシの手を取った。ぎゅっと握ると今度はカカシが驚いた様子で身を強張らせた。
覆面の間から覗いている右目が見開かれてイルカを見ていた。
握ったカカシの手に力がこもった。
しっかりと手を握り替えしてイルカと目を合わせると
「よろしく、イルカ先生」
そうカカシははっきりと口にした。
不用意に触れてしまった。後々、それがいけなかったのだとイルカは悔やんだが後の祭りだった。