「舟を漕ぐ」
こっくりこっくり、小さな頭が揺れている。
茂みの向こうの草地の上で、スチール製のゴーグルを乗せた黒い頭がふらりふらりと不規則にゆれる。
カカシは樹上からそれを眺めてむすりと口を尖らせた。
遅刻してきたくせにまだ眠いなんて、どういうことだろう。
演習中だというのに居眠りをしているオビトに、カカシは近くの枝からもいだ団栗の実を投げつけた。こつりと頭に当たった衝撃に驚いてオビトがはっと顔を上げる。
だのに暫くするとまた、こくりこっくりとオビトの頭は揺れだしてしまう。
中天近く昇った太陽が演習場の地面を暖め、草木は盛んに呼吸して青臭い空気がカカシ達を包んでいる。
がくん、と落ちる感覚でカカシは目を開いた。
天井でジジジ、とオレンジ色の電球が小さく鳴った。
黄ばんだ畳の上に伸びた自分の足。小さな卓袱台の上の湯呑みと急須、新聞と耳掻き。細々とした日用品。視線をめぐらすと卓袱台の斜向かいにイルカがいて、俯いて巻物を読んでいた。
カカシは目を見開いて、暫し部屋の様子を眺めた。
枝から落ちたのかと思ったのに自分は床の上に寝転がっている。
−−−ああ、夢か。
イルカに目を戻す。くっきりとした男らしい眉毛の下にカカシの好きな黒い目が、今はカカシにはしらんふりで書面を辿っている。髪はすでにいつものように括り上げていた。浴衣の袖から節高い手の甲から肘までがすっかり見える。
カカシは掌で口元をもごもごと拭った。涎は垂れていなかったと思うが口は開いていたかもしれない。情人の家を訪ねてきて何もしないで眠りこけていた。きまりが悪い。
こういう時、イルカは何もしない。放っておいてくれる。
ただ、先刻まで夜風の吹き込んでいた窓がいつの間にか閉じられており、カカシの腹の上には座布団が載っていた。腹を冷やさないようにとの配慮らしい。
間抜けな寝顔はしっかり見られただろう。カカシはまた恥ずかしくなった。一番かっこいいと思ってもらいたい人の前で、どうしてこういう姿を晒してしまうんだろう。
身じろぐと気配に気がついたイルカが顔を上げた。
「起きたんですか?」
「はあ」
「腹減ってませんか?」
イルカはカカシが寝こけていても若い女のように拗ねたりしないし、慣れた女のように甲斐甲斐しくもしない。その代わりやたらと物を食わせたがる。育ち盛りの子供たちならいざ知らず。
「ちくわがどっかにあったはず…」
しかもなんだか適当だ。立ち上がって磨りガラスの引き戸を開けて、台所で冷蔵庫の中を覗き込んでいる。その姿はカカシ自身にも覚えがある。
カカシも時々、気まぐれに忍犬たちにちくわとかやったりする。
声をかける、体に触れる、それ以外には言葉の通じない相手に愛情を示すには食べ物を与えるのが手っ取り早い。
カカシの中のイルカへ向かっていく気持ちはそんな単純なものではないのだが、イルカに声を掛けてもらって、食べ物をもらって、触れ合うことだって許されていて、そういう中にいるとついつい瞼が重くなってしまうのだ。
「そんなに食わされたら、俺、太っちゃいますよ」
カカシは台所にいるイルカに向かって、おいでおいでと手を振った。
イルカは少し困った顔をした。
愛情に溢れているくせにどう愛情を表現したらいいのか分からない人なのだ。カカシは子供ではないのでそんなイルカの複雑そうな表情も読み取ることが出来る。
おいで、おいで。疼くような気持ちで招き寄せる。
冷蔵庫の扉を閉めて戻ってきたイルカの腕を手繰り寄せて、並んで床に座らせた。風呂上りのイルカの体はあたたかい。
カカシは傍の床に落ちていた半纏を取って二人の体に掛けた。
「寝るんなら布団に入ってくださいよ」
「こうしているのが気持ちいいんです」
目を閉じたカカシにイルカは仕方ないなというように溜息をついて、二人の裸足の足に座布団を乗せた。
壁に凭れた体をずらして手元に巻物を引き寄せるとイルカは再び巻物を読み始める。カカシはその背中に張り付いて眠るでもなく起きるわけでもなく、イルカが呼吸するたび上下する揺れに身を委ねた。
二人でいるのだからもっと他の事もしたいのだが、そう思いながらうつらうつらしているのが心地いいのだ。
自分もオビトのことは怒れない。
今度会ったら話してみよう。
居眠りってなんであんなに気持ちいいんだろうね、と。
白い河の船の上で。