「ちきしょう、飲めーー!」と喚くイルカにつき合って、注がれるまま焼酎を煽った。グラスの底に沈んだ梅干しを潰さずに箸で摘んでぱくりと口に入れると、邪道だと叱られた。こうやって飲むのが好きなんですよ、というと見るからに酸っぱそうな顔をされた。
「ヤマトさんは変わってますねえ」
呟いてから、何が可笑しいのかイルカはケラケラと笑った。
気の済むまで飲ませてやって、ふらふらになったイルカに肩を貸してヤマトはイルカの家を案内させた。
アパートの鉄階段の前でしゃがみ込んで「もういいー。ここで寝るー」と言うのを、脇の下に手を入れて引き摺り揚げた。
酔ったイルカはスキンシップ過多だった。くっついてくるだけでなく、手も早かった。すぐ拳骨を振り回す。一度、ごつん、とヘッドギアの顎の当たりに拳が当たった。
「大人しくしてくださいよ」
手首を押さえて、イルカのポーチを探って鍵束を探り出すと、ヤマトはイルカを抱えて部屋へ傾れ込んだ。部屋に入った途端、イルカは上がり框に身を投げ出して横になってしまった。
「ヤマトさんー、今日はありがとうございましたー」
その体勢で礼儀正しく言われても。
ヤマトは勝手に靴を脱いで部屋に上がった。すぐ横の流しで水を汲んでイルカに飲ませる。イルカはヤマトの手からごくごくと水を飲んだ。
「−−−−以前は、カカシさんもこうやってこの部屋に来てくれたんです」
電気をつけずに暗いままの玄関先で、肩に凭れたイルカが黒い目で見上げてきた。外からの光を映して潤んだように光っている。いたいけな犬のような目だ。
「俺が、あんな事言ったのがいけなかったんでしょうね」
ひっそりと悲しい声が言った。
可愛がってやればいいのに。
そう思った。思ったと同時に、手が出ていた。肩に手を回したまま、イルカの顎に手を宛がった。頬を撫でて、指で唇を掠める。
自分だったら男である事なんて目をつぶる。
−−−出来るかな。出来るな。
少し考える間があった。
その隙にイルカはするするとヤマトの手を抜け出して、四つん這いで台所の床の上を奥の居間へと移動していった。
ちょっと呆気にとられる。イルカは居間の卓袱台の所までいくと、腹這いになって机の下に手を伸ばした。かちり、と音がして、部屋の中でオレンジ色の小さな光が灯った。居間へはいるとそれが電気ポットの電源だとわかった。
「定位置、定位置」と呟いてイルカは卓袱台の前に座って壁に寄りかかった。それから、「お茶煎れます」と言ってじっとお湯が沸くのを待っている。ヤマトは何も言わずにイルカの隣に同じように壁に凭れた。
女の子だったらさっきのでよろめいてくるのに、男相手だと難しいなあ。
足を投げ出しているイルカの横で、ヤマトは胡座をかいて、うーんと唸った。
「手を出してもいいでしょうか?」
とりあえず聞いてみる。
「だめですよ」
あっさり言われた。
「同情だからですか?」
「それもあります」
不思議そうな声で「やっぱりヤマトさんは変わってますねえ」と言う。
「俺は女の子じゃないですよ」
「わかってます」
触った感触が全然違う。
「俺、好きな人がいますから」
暗がりで、顎を上げてイルカが言った。
可愛いな、うーん。
なんだか分からないけど、この中忍は可愛い。なにがとか、どこがとは言えないが、可愛い。暗いせいか?勘違いか?それとも誰かを一途に想っている人間というのは、可愛いものなのだろうか?
「あんな派手な男、やめた方がいいですよ?ボクの方が存在が知られていないし、使い所もあると思いますよ?」
「暗部の選考じゃないんですから」
「ボクの方が丈夫で長持ちです」
「それはそうかもしれませんねえ」
「下積み長いから、人の気持ちは分かる方です」
「それは重要かも知れないなあ」
「ナルトの事も、しっかりみてやれます」
「カカシさんもしっかりみてくれてます」
おや、やっぱりカカシ先輩か。
ヤマトは笑った。自分でも本気で口説くつもりなのか、言葉遊びなのかちょっとわからない。ヤマトは思いつくままに、自分をアピールする言葉を紡いだ。イルカもいちいちそれにこたえる。
小さく電気ポットが唸っている。
二人はしばらく黙って、その音を聞いた。
指先が温かくなってくるのをヤマトは感じた。チャクラが自然と練り上がって、指先に集中してくる。軽く指先を摺り合わせ、印を組んでみると、ぽつっと生え出る気配があった。
それは木遁を使う時に感じる馴染んだ感触だったが、いつもよりもずっと柔らかかった。
わさわさと柔らかな新芽が生え出て、イルカの体に寄り添った。蔓は彼を拘束することなくこんもりと繁って包み込んだ。
驚いた風でイルカが身動ぐと、蔓ははらりと床に落ちた。
緑の芳しい匂いがする。香草のようだ。アキギリの仲間かな。いい匂いだ。
「上忍の方にはいつも驚かされます」
緑の葉の中でイルカがぽかんとして、胡座をかいたままのヤマトを振り返った。
「こんな術もあるんですね」
「ええ」
自分も今の今まで知らなかったが。
イルカに目を細めて笑いかけた。目を閉じると、優しそうな顔になると言われた事がある。その効果を期待した。
いい感じじゃないか?
そう思った時に、しかし、コツンとドアが鳴った。
小さな音だったが、暗闇の中で鋭く存在を主張する。思わずヤマトは背筋を伸ばした。
「誰か、来たのかな?」
イルカが首を傾げて立ち上がる。チリチリと研ぎ澄まされた刃のような気配を向こうに感じて、開けない方がいいのにな、とヤマトは思ったが、イルカは無防備にドアを開いた。
開いたドアからどっと禍々しい空気がなだれ込んできた。
ぞくぞくするような冷たい空気だ。
ヤマトは自分が強い事を知っているが、こればっかりは苦手だった。犬が自分より上位の者の臭いを嗅ぎ分け、瞬時に従順の意を示すように、自分も反射的に腹を見せたくなってしまう。実力的には肩を並べていると言ってもいいはずなのに、染みついた習性のようにその感覚が抜けない。
戦闘において味方である時には心底から頼もしい先輩が、今は隻眼をギラギラさせて自分を睨みつけている。
結局、来るんじゃないか。
「カカシ、さん」
呆然とイルカが呟くのが聞こえた。その声に、ちくりと胸が痛む。さっきまで抱こうと考えていた相手に、他の人間の名前を呼ばれるのはちょっと痛い。
「何やってんですか、あんたは」
じろりと視線をイルカに移して、カカシは言った。
「やっぱり、俺の次はこいつなんだ?」
冷ややかな声だった。
「あんたも他の奴らと同じなんだ。上忍だからって近づいてくる連中と一緒だ」
「何を言って…」
「そんな匂いつけたまま、近づかないでよ」
言われた瞬間、びくりとイルカの肩が揺れた。傷ついた表情がじわじわ鼻っ面の傷を歪めた。
「ちょっと、先輩、そんな言い方−−−−」
「おまえは黙ってろ!」
ビリッと空間が歪むような感覚がした。ああ、ヤバイ。この人、最近、時空間忍術に凝って発動しやすくなってる。写輪眼が露わになっていなかった事に感謝した。
ぶるっとイルカの肩が震えた。無理もない。上忍の自分でもこのプレッシャーはきつい。
震えはイルカの肩から背筋を伝って、握りしめた両拳にまで伝播した。そして、いきなりイルカは両腕を振り上げて、殴り掛からん勢いでカカシの胸倉を掴み上げた。
「っふざけんな!上忍がなんぼのもんだ!玉の輿狙うなら、上忍如きじゃなく火影様に告るってんだ!!」
「なっ…」と喉をひきつらせてカカシが顔を真っ青にした。
「やっぱり、あなた、三代目のお手付きだって本当だったんですね!?」
「馬鹿かーーー!!」
今度こそイルカはカカシに殴りかかった。
完全にそれは痴話喧嘩だった。
どうして、この人達、つき合ってないんだろう。
「俺は信じていなかったんです!だけど、周りの連中が寄ってたかって、あなたは三代目の情人だから諦めろって!それでも俺は信じてたんです!あなたはそんな人じゃないって!なのに、あなた、俺に告白なんかするし!やっぱり男とつき合える人なんだって…」
「………詫びろ。俺に詫びろ。三代目に詫びろ。下衆な勘違いをして申し訳ありませんでしたと詫びろ」
地を這うようなイルカの声にカカシがたじろぐのをヤマトは珍しく眺めた。
「俺はそんな理由で惚れたりしない!それに誰と何をしようが俺は俺だ!あんたこそ、細かい事ぐちゃぐちゃ言ってないではっきり言え!」
はあ、と肩で息を吐いて、イルカはぐっと目頭に力を込めた。
「嫌いなら、嫌いでいいんだ…」
これで言えなかったら本物の腰抜けだ。そう思って見ているヤマトの前で、カカシはイルカをぎゅっと抱きしめた。ヤマトのつけた匂いごと。
ヤマトはふう、と息を吐いて、イルカの部屋を後にした。
「普通さあ、ああなったらそのままなだれ込みエッチじゃない?」
カカシが隣でぶつくさと言う。
なぜかヤマトとカカシは一緒に夜道を歩いていた。
「おまえの草なんか踏みにじってポイしてやろうと思ったのに」
ヤマトの生やした植物の上でやらかそうと思っていたらしい。マーキングだ。一度、他の誰かに匂いづけされた場所により強い印をつけるようなものだ。
イルカはカカシの腕の中でしばらくじっとしていたが、一度、自分からカカシの背に手を回して固く抱き合うと、さっと身を離した。
「今日はもう遅いので、お二人とも帰って寝て下さい」
え?と二人はイルカの顔を見た。イルカはにっこりと笑った。
「明日もナルトの修行があるんでしょう?しっかりみてやって下さいね」
そうしてカカシもヤマト同様、イルカの家を後にする羽目になった。
「おまえはともかく、俺まで追い出す事ないじゃない」
カカシは不服そうだ。やっと思いが通じたんだから、もっと優遇されてしかるべきと思っているようだ。
しかし、あれがイルカの自分に対する気遣いだとヤマトにはわかっていた。今夜はイルカは芳しい緑の匂いに包まれて眠るのだろう。
「−−−おまえ、なんか生えてるよ」
ヤマトの指先から生え出た蔓にカカシが眉を顰める。
「先輩、ボク、新術を編み出しましたよ」
ふーん、と興味なさげにカカシはそっぽを向いた。可愛くない。
「先輩、本当にイルカさんを抱けるんですか?」
じろりと睨まれた。少々ひきつりつつヤマトは口元を意地悪く歪めて見せた。ああ、マズイ。虎の尾を踏む遊びにはまりそうだ。
「おまえ、見逃すのは今回だけだからな」
言われて、肝に銘じておきますよ、と嘯く。
「ちょっと、毟らないで下さい」
ぶちぶちとカカシにちぎられた葉から緑の匂いが香った。
風薫る五月の夜だった。