「イオザの海」
ボォォォォーーーーーーーーーーー。
風が鳴る。
遮るもののない海岸沿いをたった一つ突き出した船の帆柱をびりびり揺すって、海からの風は高いような低いような深い音をあげて吹き付ける。
空はくりぬかれた空洞のようで、べたりとした青色に一日の初めに日を昇らせ一日の終わりに日を沈める。
浜に打ち上げられた朽ちた船は金属の外殻を潮に焼かれて赤く錆を浮かせていた。
その船の船室のなか、風邪を引いた合成皮革の椅子に身を寄せ合って二人は小さな丸窓と抜け落ちたデッキから落ちる光に照らされて小さな声で話している。
海から上がるはずの狼煙を待っているのだ。
上忍は言葉が少ない。同行の中忍も本来は口数は多くない性質だった。
風の鳴る音と振動を感じながら、ときおりぼそぼそと低く囁きを交わす。
「イオザが来るから待っていて」
依頼人の言葉はそれだけだった。
イオザが何者なのか、来たらどうするのかの問いにも答えない。
「来たら決めるから」
浅黒い肌の異国の女はたどたどしい言葉で話した。
濡れたような黒い瞳が隣に座っている同行の男に似ていたな、と思い出す。
依頼内容に比して報酬として提示された金額は高額だった。女の着ている異国の衣装は粗末ではなかったが裕福にも見えなかった。その胡散臭さと任務地の特異性のため上忍である自分に依頼が回ってきた。
「海」
依頼受付所で女の話を聞いていた中忍は呟いて、うっとりと目を伏せた。
彼の時折見せるそんな表情に胸の裡を騒がせる人間がいることなど彼は気づいていないだろう。
それで、二人でここへ来た。
人の声のような、無造作な笛の音のような風の音を聞いている。
松林を抜けると向こう側には何もなかった。
潮の運んだ砂が堆積した丘とその向こうに灰色の海。
砂を踏んで二人は歩いた。
警戒心は早々に消えた。
何もない。誰もいない。
砂浜にぽつぽつと足跡を残して歩くうちに二人は落ち着かない気持ちになった。
二人が育ったのは山間の小さな里で、限られた面積にごちゃごちゃと入り組んだ建物が犇めき合っている。耕作地も狭くこんな開けた空間には慣れていない。身を隠すものがない。そのことに本能的な不安を感じる。
知らないうちに誰かの幻術に囚われてしまったような。
遠く小さく、砂に埋もれかけた船が見え始めたときには心底からほっとした。
何十里か向こうには人里があり、大気中の水蒸気が薄ければ遠くに山々の峰も臨むことが出来るだろうに、二人の視界にはあまりにも何もなかった。
船の横っ腹に開いた穴から中にもぐり込み旅装を解いた。
履物からも忍服からも髪の毛からも細かい砂が落ちた。
軽く掃ってざらつく床を踏んで船室の奥へ、小さな椅子を見つけて座り込んで海を見た。
砂と海と風の音と、心許なさに自然と声は小さくなった。大きな声をあげて、それが空間に響いて消えて残る静寂を聞きたくない。
自分は船乗りにはなれまい。気の遠くなるような漠々とした広がりを眺めながら思う。
丸窓の外に眺める灰色の水は果たして彼の思い描いたような海なのだろうか。隣を覗ってみると彼は薄く唇を開いてじっと果てを眺めている。
そういえば自分はもう何年もこの男のことが好きなのだ。
告げるつもりはない。触れたいという思いがあるのかもよく分からない。
その一方で、彼が誰のものにもならないことを祈り続けている自分がいる。
その願いを聞き届けてくれているように、男はずっと一人だ。
男は誰のものでもなく、その優しい声や笑顔は彼の生徒や彼を慕う元教え子達、同僚やその他の里の人間のものだった。
時折ひそりと投げられる柔らかな眼差し、それだけが自分のものだ。
自分もまた彼以上に里や任務や諸々のものに所有されていた。
ちらと投げ返す一瞥は彼のものになっているのだろうか。
物欲しそうな顔つきをしていると口の悪い同僚に言われることがある。
餌を貰いはぐれた犬の顔つきでこの男を見るなと。
しっかりと首に鎖が絡んでいるのだからいいではないか。飼い犬でいるうちなら見るくらい。ねだる声さえあげたことはないのだ。
ふ、と吐いた男の吐息が小さく聞こえた。
風を避けた小さな金属の箱の中で言葉少なく身を寄せ合って。
もうずっと何年も自分はこの男のことが好きなのだ。
あと何年自分はこの思いを抱え続けるのだろう。
来るはずのない何かの予感を抱えながら、二人は海を眺めている。
遠く遠く、彼方から低い海鳴りが響いていた。