「イオザの海2」


 おう、といつもどおり億劫そうに手を上げた男に、ああ、と目線だけで挨拶を返す。
「結構、時間掛かったな」
「往復が長かったからな」
 実際に現地にいた期間は五日かそこらだった。
「で、イオザってのは本当に来たのか」
「来た」
 浜一面に。





 目が覚めてベッドを出て寝巻きがわりのシャツを脱ごうと裾に手を掛けたところで気づく。
 今日は何も任務は入っていない。
 面倒を見てきた下忍達も手を離れて修行を見る相手もいない。
 一時は大変な混乱に陥った木の葉の里だが、ここ数年で落ち着き以前の機能を取り戻しつつある。五代目火影は有能で最近は近隣諸国から流れてくるきな臭い匂いも薄れつつある。
 今日は一日何をしようか。待機命令も出ていないから受付所に出向いて何か任務を貰ってくるか。
 任務服に袖を通し、装備の確認をしてからベストを身につける。
 受付所であの人に会えたらいいなと思う。アカデミーは随分前に再開されて、今は通常通りのシフトに入っているはずだった。
 初めての下忍育成はイレギュラーの連続で、三人の部下達も十分に面倒を見られないまま過酷な任務に送り出すことが多かった。自分も里の再建のための任務に追われてスリーマンセルで行動する機会も少ないまま、先だって数年ぶりに開催された中忍試験で三人はめでたく昇格して班は解散した。
 もっと、手を掛けてやればよかった。
 三人の試験合格を聞いて喜びと同時に浮かんだ感情にカカシは戸惑った。
 一時も早く一人前になって欲しいとそればかり考えてきた。だから必要以上に彼らと関わることはしなかった。クール過ぎると他の班の担当教官に詰られることもあった。だが彼らにとって自分は通過地点に過ぎない。早く手を離れていって欲しかったのだ。手遅れになることが多すぎるこの世界で生き残ってゆくために。そんな自分に幼い部下達はよく食らいついてきたと思う。
 もう誰も待つ者のいない朝の道を冷たい風を頬にうけてのんびりとカカシは歩いてゆく。


 イルカ先生は人気がある。
 いつも、誰にでも同じようににっこりと笑うからだ。
 専門の書記官達は無駄な感情を表さぬことを心得として淡々と依頼を受付け、任務を割り当てる。死ぬかもしれない相手に笑顔を振りまくのは徳ではない。
 だが、彼が誰かれなく笑顔を向けねぎらいの言葉を掛けるのに不興を表す者もいない。そういう事が必要であることも知っているからだ。
 そして実際、イルカは人気があるのだ。
 いつもそこにいて、いつも同じように笑いかけてくれる。帰ってくれば必ず目にすることの出来る笑顔。それに特別な意味はなくともそれだけで心が休まるのだ。
 そんなわけでイルカ先生は独身の男女を中心に一人暮らしのお年寄りや孤独な環境の子供に人気がある。
「おはようございます」
 そう言ってにっこりと任務の斡旋を受けに来た若い忍に笑いかけているのを目の端に捉えながら、相変わらずの人でなしだなあ、と思う。
 もういい歳だろうに、任務遂行可能な人材にアカデミー教師と受付係の兼任なんて里の人事部はどっか間違えてないだろうか。
 そしてその人でなしの笑顔にやられているのは自分だけではないが、彼の背中に染み付いた淋しさの匂いに欲情するような変態は自分だけだと思いたい。
「次の方、どうぞ」
 言われて前へ進み出る。
「おはようございます」
「おはようございます」
 下げられた頭に軽く会釈を返して彼の手元を覗き込む。
 班を解散し、指導教官の任を解かれてからはもっぱら受付所から任務を受けている。暗部への復帰を願い出たが「今更おまえのようなのが暗部で使い物になるか」と五代目に一蹴された。九尾の子供とうちはの生き残りが一人立ちすれば自分はまた以前の部署に戻るのだと当然のように思っていたカカシは少なからずショックを受けた。
 おまえの処遇は検討中だ、そう言われてしまったからカカシは下請け業であるところの一般的な忍の暮らしを送っている。まだ若いつもりでいたが忍としての盛りは過ぎたか。幼かった部下達が忍服をまとって部隊を指揮するようになったのだから道理かもしれない。正統な血筋の写輪眼の使い手も一人前に育ったのだから使いでの悪い移植体を酷使する必要もなくなったということだ。自分は任を果たした。
 彼らにとって自分は通過地点に過ぎない。
「どんな任務をご希望ですか?」
 幼い部下達と初めて出会った頃から変わらない笑顔で男が言う。
 変わらず教え子達に慕われ、彼らの後姿を見守る男。
 一度、口論になったことがあった。
 甘くて隙の多い男。あの後、特にフォローは入れなかった。男は勝手に納得して、勝手に子供達を理解したらしい。自分は、自分も変わらない。ただ、もう少し。
「CとかDとか。でも面倒でないのがいいな」
「上忍に今更そんな依頼できませんよ」
「Bランクでもいいけど」
「うーん、困ったなあ。あなたレベルの上忍にはもっとして欲しい依頼があるんですけど」
「いいルーキーがいっぱいいるじゃないですか。ずっと試験が行われなかったから昇格は見送られてましたけど、あいつらとっくに中忍レベルの仕事はこなしてきてますよ」
 だからって、格が違いますよと真顔で言われた。少し顔が怒っているから最近の自分の動向に思うところがあるのかもしれない。寄せられた眉が気遣わしげでカカシは少しだけ体温が高くなる。今、この人は自分の事を考えている。
「カカシさん----」
 彼が何かを言おうとした時、流れてきた未知の気配に受付所にいた忍達は一斉に入り口を振返った。
 潮の香り。
 異国の民族衣装を纏った女が一人、受付所のエントランスをくぐったところだった。





「で、何だったんだ、イオザってのは」
 自分からはなかなか口を開かない男に髭の同僚は先を促す。
「海獣だよ。馬鹿でかい」
 人の七、八倍はある海獣の群れが繁殖期を迎え浜へ集まるのだった。
「凄かったよ。確かにあれなら人死にがでるだろうよ」
 毎年彼らはあの浜に来て雌を争い、番になっては海へ出てゆくのだという。一般には絶滅したと信じられているのが、何処からともなく無数に押し寄せる。
 依頼をよこしたのはイオザの動向でその身が同量の黄金に値するという高級魚の漁場を占う海洋民族だった。浜から帰った二人に彼らはイオザがどれくらい集まってきたか、何頭くらいが番になったか、どちらの方角へ泳ぎ去ったかなどを細々と聞いた。彼らの行動から魚群の居場所が分かるのだそうだ。勿論、どうやってそれを割り出すのかなど教えてはくれなかった。
 毎年イオザの繁殖に巻き込まれて怪我人や死人が出る上に、最近はブラックマーケットの連中に嗅ぎ回られて部族の人間は思うように動けないのだという。そこで忍を雇うことに決めたのだそうだ。素朴に見える人々が意外に実利的であるのはままあることで、それは彼らが過酷に生きている証明であるのだけれど、やっぱり自分は船乗りにはなれないとカカシは思った。
 そんなわけで今回の任務は極秘扱いだったのだ。
 海獣たちの饗宴は四日間続いた。
 浜は血の海だった。
 長く鋭い牙を持った巨大な雄達が雌をめぐって熾烈な戦いを繰り広げるのをたった一つの足場である捨てられた船の上から派遣された忍は半ば圧倒されながら眺めていた。
 見渡す限りを埋め尽くす灰褐色の肉の群れ。勢いあまった雄達が船腹に体を打ち付けて船体はグラグラ揺れた。
 浜に打ち上げられた船の横腹に穴を開けたのも興奮した雄のイオザだそうだ。船室の中にいるのにも危険を感じて二人はデッキに登って浜に犇めく発情した獣どもを見渡した。
「雄同士で番になったものは何頭くらいいましたか?」
 女に尋ねられてカカシは唸った。
 雌が見当たらなくなっても海獣の雄達は争いを続けていた。争いの様相は違ったものになっていったが。
 互いが互いの上に乗り上がろうと競り合うように巨体をうねらせる。
 カカシもイルカもそれが何をしているのか分かりかねた。群れでの序列を決めているのではないかと推測した。
「負けた方が雌になるのです」
 女の言葉は二人をぎょっとさせた。
 いつも雄の個体よりも雌の個体の方が数が少ない。だからあぶれた雄は雄同士で仮の番になるのだという。そして条件が揃えば雄の個体が実際に雌化して子を産むこともあるのだそうだ。
 あてられた。
 色んな事に。
 軽く放心して依頼主の元を辞した。イルカ先生はなんだか感動していたようだが。
 あの人はやっぱりなんだかちょっと変だ。
「俺は船乗りにはなれないなあ」
 なんだ、そりゃ、呆れて目の前の同僚が言う。
「冴えねえな、ここんとこ」
「そうかね」
 もっと、もう少し。
 自分は間違ったことはしていない。全ては満足いく結果になった。
 ただ、もう少し。
 依頼されれば自分だって船に乗るし、漁だってするだろう。慣れれば風も潮も読めるようになる。
「アスマ、また下忍の担当教官するんだって?」
「ああ。子供の相手も結構面白いからな」
 アスマは自分と違って何度か下忍の指導をしてきている。
「おまえは?要請はあるんだろ?」
「また俺の試験に合格する奴らがいればな」
 そんな奴ら、もう二度といるもんか、あいつらが特別だったんだ。そんな事を思った自分に気がつく。
 ああ、俺はお前達が本当に好きだったよ。
そして熱烈に思うのだ。
 俺はあの海獣どものように争いたいのだ。
 浜一面を血に染めたいのだ。
 赤く染まった海に泳ぎだしたいのだ。
「おい、どうした?」
 怪訝そうな声を背に歩き出す。受付所の机に座った彼の所へ。




いえ。私も何が書きたいのかよく分からないんですけど。
カカシ先生ってわきまえすぎてて可哀想なとこあるなーと。
海獣はやはりステラーカイギュウなんじゃないかと。
でもってやっぱり「負けた方が雌ですよ」とカカシ先生は言うに違いないのです。
イルカ先生は受けて立つに違いないのです。
そして誰がこんな話を読んで喜ぶというのかが一番の謎なんですが。
それはいつものことです。