「Jacob's Ladder」


 押し殺しきれずに漏れるイルカの声は熱くて苦しそうだ。ぜいぜいと喉がかれた犬のような息づかい。けれどそれは時折、甘く掠れてナルトの体の芯を痺れさせる。
 イルカも感じているのだ。
 剥き出しになった太股を押し上げて自分のものを銜え込んだイルカの秘所を露わにする。膝を突っ張って抵抗する素振りを見せたが構わず突き上げた。
 ぁあ、と小さくイルカが鳴いて身を捩ってナルトの前に立ち上がって濡れそぼった性器を見せつける。
「先生、気持ちいい?」
 尋ねた言葉に、しかしイルカは首を振って目を固く閉じている。
 今感じている快感も、彼を抱いているナルトも、抱かれている自分も、すべてを否定したいというように。





 イルカは我慢強い。
 初めての時、ナルトは勝手が分からずかなりめちゃくちゃをしてしまったと思う。
 逆上もしていた。
 イルカは最後まで達しなかった。歯を食いしばって目を固く閉じていた。痛かっただけだったろう。
 最初に好きだと言った時は笑って流された。
 俺も好きだぞ、と軽く言われた。
 そういう意味じゃないと食い下がるとイルカは困った顔をして、「思春期だからなあ」と呟いた。
 まだ子供で心理的に性が未分化だから身近な人間にそんな感情を抱いてしまうんだろうと、そういうこともあるんだろうともっともらしいことをイルカは言った。
「サクラに対する気持ちとは違うんだろう?」
 そう言われてナルトは頷いてしまったのだけれど、今ではむしろサクラに対する気持ちの方が身近な人間に対する親愛の情のような気がするのだ。
 勘違いだと言われ、ダメだと拒まれ、それでもナルトはイルカを諦められなかった。
 会うたびに好きだ好きだと掻き口説いて、拝み倒して、それでもイルカはナルトを受け入れてはくれなかった。
 それでも仕方がないかと思っていた。
 真面目なイルカにとって十幾つも年下の、元生徒と恋愛関係になるなんて考えられないことだったろうから。ナルト自身も自分の気持ちの変化に戸惑っていた。大好きな先生。父ちゃんみたいな人。それがどうしても欲しくてたまらない相手になってしまった。
 焦らずゆっくりと関係を再構築していければいいとナルトは思っていた。
 でも時々、イルカと二人きりになると息苦しくて困ることがあった。一楽からの帰り道、ふとした拍子に手や肩が触れるとドギマギした。勝手に体が反応してしまって、それを誤魔化すのに苦労したこともある。イルカは気がつかない振りをしていたけれど、黒い目が困ったような泣き出す前のような光りを宿していた。
 イルカを困らせていると思うとナルト自身も情けない気持ちになった。暫く会わない方がいいのかもしれないとも考えたりした。
 そんなある日の夕方、ナルトはイルカに呼び出された。
 最近はナルトから押しかけるばかりで、それも遠慮するようになってきていたから久しぶりにイルカに声を掛けられてナルトは嬉しかった。待ち合わせの場所が里はずれの北西の門であることにも疑問を抱かなかった。北西の門は里の正面にある大門とは違って、ひっそりと里を出入りしたい者が使う門だ。
 待ち合わせ場所に現れたイルカは着流し姿で髪を下ろしていた。普段、見たことのない姿に胸が高鳴ったが、なんだか嫌な予感もした。
 −−−あの日のことを思い出すとナルトは暗澹たる気持ちになる。
 イルカは里の外の郭へナルトを連れて行ったのだ。
 店の女の子を宛がわれて、部屋にその娘と二人で取り残されて初めてナルトはイルカの意図を理解した。
 イルカは何一つナルトの言葉を聞いちゃいなかったのだ。
 こんな風に女を見繕って抱かせれば熱も冷めるだろうと、その程度にしか思ってはいなかったのだ。
 ナルトは部屋を飛び出して、別室で店の女と酒を飲んでいたイルカの元へ乗り込んだ。
 ひどいと詰るだけのつもりだったのに、女と並んでいる姿を見て頭に血が上った。女を部屋から引きずり出して−−−−−−その部屋でイルカを犯した。
 常軌を逸した忍の行いに店の者は誰も部屋には近づいては来なかった。
 めちゃくちゃだ。
 イルカが自分から逃げていこうとしていると思ったら何も考えられなくなった。
 イルカが何か言おうとするのも聞かずに突き倒して、俺を厄介払いしたかったのかよ!そう罵った。
 サスケの時もそうだった。
 それが可能だったとしたら自分は本当に手足をもいででもサスケを引き留めただろう。
 だめなんだ。一度は自分と近しい場所に来た相手が離れていこうとする、その事にナルトは耐えられない。目の前が真っ白になる。それが九尾のせいなのか、自分自身の狂気なのか。多分、後者なのだろう。言い訳は出来ない。
 イルカは最初こそ抵抗したけれど、それがますますナルトを逆上させるのだと気づいてからは大人しくなった。目を閉じてされるがままになっていた。
 大好きな先生を乱暴に扱った。好きだと言いながら無理矢理突っ込んで己の精液をぶちまけた。何もかもを台無しにした。
 ナルトが己を取り戻した時にはイルカはぐったりと畳の上に横たわっていた。腿や臀部に血と精液がこびりついていて、とても忌まわしい。神聖なものを汚した。
 自分の作り出した痛ましい光景に呆然としてナルトは動くことが出来なかった。言葉がない。取り返しがつかない。
 やがて気を失っていると思ったイルカがのろのろと手を上げて青ざめた顔にかかる髪を掻き上げると
「俺が悪かった」
 一言、言った。



 謝らせても貰えない。
 イルカは何事もなかったような顔をしている。
 合わせる顔がない。なのにナルトはイルカに会いに行かずにはいられなかった。家に行けばイルカはナルトを部屋へ上げてくれる。何もなかったのだから拒む理由もないとお互いに思い込ませようとしているみたいだ。
 そんなイルカの態度がナルトをたまらなくさせる。もう二度とあんな事はしたくないと思うのに二人きりで部屋にいると我慢出来なくなる。
 イルカはナルトを拒まない。
 「したい」と言えば困った、泣き出しそうな顔をするけど流されてくれる。
 拒めばまたナルトが暴れるとでも思っているのだろうか。それともナルトを傷つけるとでも思っているのだろうか。もしかしたらナルトの精神が不安定になって九尾の封印が弱まると心配しているのかもしれない。だとしたら九尾様々だ。ナルトはイルカを思うままにしている。体だけだ。イルカの心は見えない。
 イルカが何を思っているのかナルトには分からない。
 考えてみればナルトはイルカの事をよく知らない。アカデミーの教師で受付係の中忍、忍としては使える方だと綱手が言っていた。ラーメンが好きで生徒思い。
 そんなことは誰もが知っている事だ。
 ナルトにはイルカのことが分からない。
 ずるずると体だけの関係が続いている。
 これでせめてイルカが肉体の快楽だけでも感じてくれていればまだマシなのに、ナルトの腕の中でイルカが達したことは一度もない。性器に触れても口に含んでも反応はしない。本当は嫌なのだ、イルカは。ナルトが欲しがるから諾々と体を差し出しているだけなのだ。
 ナルトは本部の裏庭のベンチで重い溜息を吐きながら両手に顔を埋めた。
 庭に植えられた木立の向こうにアカデミーの校舎が見える。あそこで今、あの人が授業をしている。生徒達に囲まれてあの人の好きな仕事をしている。厄介な陵辱者のことを今だけは忘れて。朗らかな笑顔まで目に浮かぶようだ。
 最近、イルカは自分の前では笑わなくなった。昔はたわいない話で一緒に馬鹿みたいに笑い転げてた。今の自分はイルカにとってストレスにしかなっていない。分かっているのにどうしても手放す事なんて出来ない。
「やんなるなあ…」
 再び溜息と共にナルトは呟いた。すべて放り出して忘れてしまおうか。イルカもそれを望んでいるのだろう。ナルトのことを好きとも嫌いとも言わないで。黙って耐えているだけなんて狡いじゃないか。
 ややこしいことを考えるのは苦手なのだ。自分の気持ちは決まっているのにイルカの気持ちは分からない。
 自分ばかりが恋いこがれている。イルカにも同じくらい狂って欲しいのに。
 エロ仙人の書いた小説の中ではヒロインはいつも「いや」を繰り返しながら、いざ体の関係が始まるとあまりの快楽に逆らえなくなり「あなたなしでは生きていけないの」とか言い出すのに。
 俺が下手くそなんだろうか。
 金色の猫っ毛を掻きむしってナルトは唸った。
 下手なんだろうな。イルカは全然気持ちよさそうじゃないし。
 でもどうしたら良いんだろう。こんな事誰にも訊けない。
 ナルトは一人で煩悶していたが、ふと図書館へ行くことを思いついた。
 本部棟の図書館には術や薬物、人体の仕組みやコミュニケーション術まで、およそ忍の技術に関わる図書は揃っている。閨房術の本もあるはずだ。



 平日の昼間の図書館は空いていた。
 落ち着いた古びた本の匂いが立ちこめる本棚の間をナルトは足音を忍ばせて歩いた。
 棚に並んだ本の背表紙を目で辿る。大概がくのいちのための情報収集術の本だった。男同士の本というのはなかなか見つからない。衆道や稚児趣味の本が数冊あったのでとりあえずそれらの本を抱えて閲覧用の机に積んだ。
 アカデミー生の頃だって図書館通いなんかしたことがなかったのに、それもよりによってこんな本だ。我ながら滑稽だと思いながら机の衝立に隠すようにして本を開いた。
「何の本を読んでいるんですか?」
 気配もなく背後からいきなり声を掛けられてナルトは椅子をがたりと鳴らして飛び上がった。
「うわ、わ、な、なんだってばよ!!」
 しー、と口の前で人差し指を立てて人形のような顔の少年が立っていた。
「サ、サイ!?」
「静かに。図書館の中だよ」
 任務中とは違う、すっぽりと上半身を覆う上着を着たサイは小首を傾げてナルトの手元の本を見つめていた。
「こ、これは…」
「潜入任務でもするのかい?」
 焦って隠そうとするナルトに頓着せずにサイは無表情を崩さずに言った。
「君には向いてなさそうだけど」
「どういう意味だってばよ」
「君は何でも顔に出るだろう?でもその金髪碧眼は喜ばれるかもね」
「………」
 眉を顰めたナルトに構わずサイは机の本を一冊手に取るとぱらぱらと捲った。思わずナルトの顔は赤くなった。
「か、勝手に見るなってばよ!」
 サイはナルトの顔を見てまた首を傾げた。
「−−−おかしいな。さりげなく読んでいる本の話題を振ると話が弾むって本に書いてあったのに」
 サイは手に持った「コミュニケーションスキルを磨く」というタイトルの本を掲げてみせた。ナルトは机に手をついてがっくりと項垂れた。
「おまえ…それ全然さりげなくねーし」
 なんだか気が削がれた。
「も、いーや」
 ナルトはサイから自分の持ってきた本を引ったくると机の上の本も一緒に抱えて本棚に返した。サイは不思議そうな顔でついてきた。こいつも難儀な奴だよなあ、とナルトは思う。
 図書室を出て、エントランスの階段下にある自販機でコーヒーを買った。サイと並んで壁に凭れて紙コップに口をつけた。思ったより熱い。
「相手は男なんですか?」
 サイの言った一言にナルトは盛大にコーヒーを吹き出した。
「げほっがほっ…あっ……ちぃい!!」
 咳き込んだ拍子に紙コップを持った手にコーヒーがかかり、だからといってカップを放り出すわけにもいかずナルトは悶絶した。その様をサイは眉一つ動かさずに眺めている。
「相変わらず君は騒がしいなあ」
「おま…おまえが…!!」
 床に紙コップを置いてしゃがみ込んでいるナルトの横にサイも一緒にしゃがみ込んで呆れたような声を出す。仲良くしたいのか、喧嘩を売りたいのかはっきりしろ!
「−−−−−なあ、」
「はい」
 自分のコーヒーを飲みながらサイが頷く。
「俺のち……って、ちっちぇえ?」
「はい?」
 微妙な質問を聞き返されてナルトは真っ赤になって立ち上がった。
「あーもーいい!もういいってばよーー!」
「いや、標準だと思いますよ」
 そのまま立ち去ろうとしたナルトの袖を、つん、とサイが引っ張った。引っ張られるままナルトは再びサイの隣にしゃがみ込む。
「ほんと?それで気持ちよくないとかいうことない?」
「気持ちいいかどうかは大きさというよりやり方じゃないですか?男同士だったらあんまり大きいのもきついでしょうし。君が挿入するんですか?」
 あけすけな物言いに戸惑いつつナルトはこくこくと頷いた。
「やり方って、どうすんだよ?」
 身を乗り出して声を潜める。サイは「んー」と唸って顎に手をあてた。
「男なら前立腺を刺激すればオーガズムに達すると言われている。前立腺があるのはそんなに深い所じゃないから君くらいのサイズでも届くんじゃないかな」
「そ、そっか」
 前立腺てなんだ?
「あとは手っ取り早く薬を使うとか」
「薬?」
「ああ。アンフェタミン系とかね。性欲と快感が増大する。使いすぎると廃人になるけど」
 そんなのはダメだ!
「だめだめ!大事な人なんだってば!ただ気持ちよくなってもらいたいんだよ!」
 大袈裟に両腕を振り回したナルトにサイは黒い目を瞬かせた。
「大事な人?」
「そう!すっげえ、大事な人!」
「任務じゃないのかい?」
「…ちがう。プライベートだってばよ」
「そうか!」
 唐突に叫んでサイは紙コップを床に置いて手を打ち合わせた。そして打ち合わせた両手を握り合わせてナルトの顔を覗き込んできた。
「これがコイバナ−−−恋愛相談ですね!」
 目がきらきらしていた。こいつのこんな生き生きした顔を見たのは初めてかもしれない。


 こいつは意外とこういう話に向いている。
 一時間ほど話し込んだ末の結論だ。
 今までのナルトとイルカの事を知らないから余計な先入観がない。窘められたり軽蔑されたりする事もない。淡々と事実だけを述べる口調は、普段だったらムカツクが今はそのくらいが丁度いい。
 サイは「じゃあ、しっかりと相談にのらないと」とナルトを引っ張って図書室の中に戻ると、尋問拷問関連の書棚の前に立った。閨房術の本と拷問の本は情報収集関連図書として隣合わせの棚にあってなんだか嫌な感じだ。まるで自分がイルカに対して−−−まあ、実際には同じような事なのかもしれない。
 サイの説明は感情や私見が交じらず分かりやすかった。照れがないのが助かる。ただやっぱりちょっと的はずれな所があった。
「肛門に棒を突っ込んで、ハンドルを回すとその棒が高速回転するんだ。そうすると嫌でもなんでも射精してしまう。大戦中に草隠れが開発した器具だよ。他里の遺伝子を採取するために使われたんだ。あまりにも非人道的だと大陸中から非難されて大戦後は廃止されたけどね」
 大きな図版入りの本を指差しながらサイが解説する。
「−−−俺、そういう話してないんだけど」
「男の体はそういう風に出来ているっていう話だよ。相手の急所を見定めて仕留める時は容赦しない。詰めの甘さで泣くのは君だってごめんだろう」
 任務の時と同じだよ、とサイは言った。
「俺は愛のあるエッチがしたいんだってばよ」
 グロテスクな図説の数々にげんなりしつつナルトはぼやいた。背中を反らせて椅子の背もたれに首を載せる。愛か、とサイが呟いた。
「それはどこにあるのか聞いたことはないな」
 ぱたん、と本を閉じて頬杖をつく。大きな黒い目の人形みたいな顔がナルトを見つめた。ナルトは机の端に置いた紙コップに手を伸ばし冷めた珈琲を啜った。
「君とその人の間には愛というものがあるのかい?」
「あるよ」
 あった。
 −−−あったはずだ。
「それは君が言う”つながり”と同じなのかい?仲間という感情とはどう違うんだ?」
「似てるけど違う。全然ちがう。最初は同じだったのにどんどん変わってった」





 アカデミーに在籍していた頃、イルカは厳しいけれど、一人だけ自分を構ってくれる先生だった。どうして自分ばかりに厳しくするんだと落ちこぼれだったナルトは僻んだり癇癪を起こしたりしたこともあるが、イルカだけが自分を他の生徒と同じように扱ってくれる人だというのも分かっていた。
 ナルトの中でのイルカが決定的に変わったのはミズキの事件の時だ。
 自分が九尾の妖狐だと知らされてショックだったが、やはりという気持ちの方が強かった。最初から自分はこの里の仲間などではなかったのだ。里の人々にとって自分が忌まわしい憎悪の対象でしかないのなら、どうして自分が彼らを愛そうと努力する必要がある?
 ずっと自分だって彼らが憎かったのだ。自分を蔑みいなくなれ、消えてしまえと罵る奴らを自分が消し去りたいと思って何が悪い。
 心の鎖が引きちぎれる音が聞こえた。胸の奥底の闇で解き放たれた喜びに咆哮する誰かがいた。
 肉の衣を脱ぎ捨てろ
 魂を明け渡せ
 おまえを踏みにじったやつらを殺しに行こう!
 高らかに叫ぶ声がナルトには聞こえていた。いっそ清々しい胸のすくような哄笑だった。
 引き留めたのはイルカだった。
 降り注いだ涙と血。イルカの温かい体液。
 イルカの泣き顔を見た瞬間、ナルトの中の凶暴なものが身を縮めた。冷たい熱狂がすっと冷めた。代わりに訳の分からない温かいものがじわりと広がった。
 ごめんなぁ、とイルカが言った。
 イルカの両親を殺したのは自分だと、イルカだって自分を憎んでいるはずだとミズキが言ったのに。なのにどうしてこの人は自分を庇って血を流しているんだろう。
 どうして自分に詫びるんだろう。
 おまえを守ってやれなかったと泣くんだろう。
 訳が分からなくてイルカの腕の中から逃げ出した。
 胸の奥からどんどん温かいものが溢れてきて、今まで知らなかったその感覚はナルトを怯えさせた。そんなはずがない。信じてはいけない。裏切られる方がいい。その方が慣れている。
 息を潜めて、心の中から湧いてくる感情を殺してナルトは茂みの中に隠れていた。腕の中には封印の巻物があった。ミズキに唆され盗み出した、自分を自由にするもの。だけどナルトはそんなものよりもイルカの気配を必死に辿っていた。
 期待して失望させられるのは嫌だ。
 でも、もしも。
 もしもイルカが自分を信じてくれたなら、自分はこんなものはいらない。その代わり、イルカのためになんだってする。
 祈るような気持ちでナルトはイルカの言葉を聞いた。





「星が落ちてきたみたいなんだ」
 きれいだけど絶対に手の届かない星が天から流れ落ちてくるような僥倖。
 それだけで充分だったはずなのに、どうしてもっとを望むようになってしまうのだろう。
「空に返してあげなきゃならないって分かってるのに放してあげられない。ぼろぼろになって汚れちまっても俺だけが大事にするから、それでいいじゃねえかって」
 イルカのことを違う目で見るようになった時をナルトは覚えている。
 二年半の修行の旅を終えて里に帰ってくると、ナルトはイルカに会いに行った。
 帰ってきたらイルカと一緒に一楽に行くと決めていた。
 布が変わってしまったけれど、これはイルカがくれた額宛だと、そこだけはきちんと伝えておかないとと修行の話にかこつけて話した。イルカががっかりしないように。並んで座ったイルカの背中は以前より小さくなったように思えた。実際には自分が大きくなったんだろうけど。
 帰り道、歩いているとアカデミーの生徒達と行き会った。生徒達はイルカに口々に挨拶をし、じゃれつき笑い合った。昔の自分達みたいに。
「ちっちぇえなあ、子供って」
 さようなら、さようなら、と手を振って帰って行く子供達を見送ってナルトは呟いた。
「おまえだってちっちゃかったよ。背の順で前から数えた方が早かったじゃないか」
 イルカが懐かしそうに笑うので、ナルトは不満そうに口を尖らせた。
「何年前の話だってばよ」
「ほんの二、三年じゃないか」
 そう言ってイルカは遠くを見るような目をした。
「他の子達はアカデミーを卒業しちまうと教師の事なんて忘れちまうけどな。おまえくらいだな、いまだに俺んとこに来てくれるのは」
 何言ってんだよ、とふざけた振りでイルカの背中に肩をぶつけながらナルトは考えた。
 本当に俺だけになればいいんだ。
 俺だけがずっと先生の傍にいる。
 イルカは色んな人に好かれている。生徒にも同僚にも父兄にも。火影の周辺の人々にも可愛がられている。
 でもイルカはいつも毅然と一人でいる。他人のために奔走するくせに、自分は決して誰かに寄りかかろうとはしない。
 そんなイルカがナルトにだけは時々、寂しそうな目を見せる。心配でたまらないと不安そうな顔を見せる。
 ナルトにとってイルカがくれる優しさや気遣い、撫でてくれる大きな手はまるで天から星が流れ落ちてくるような僥倖だった。たまたまここにいたから受け取ることが出来た、そんなものだと思っていた。
 でもその星が、寂しいと天から滑り落ちてくるものだとしたら、ナルトがここで受け止めなかったら地に落ちてしまう、それを悲しんでいるとしたら。
 もしかしたらこの人はナルトが思っているよりも寂しい人なのかもしれない。
 ふと頭を掠めた考えはナルトの胸を締め付けた。
 たまらなくなった。
 この人を自分のものにしてしまいたいと思った。
 なんて思い上がりだろう。
 この忌まわしい身で、誰かを抱きしめたいなんて。




 サイと別れてナルトは図書館を後にした。
 意識しなくても足はイルカの家へ向かう。
 きっと自分はまたイルカに酷いことをするだろう。さっき知った様々なことをイルカにする。イルカにとっては拷問と変わりないことを。
 イルカはどうせ抵抗しない。
 俺のことが怖いのかな。
 そう思うと泣きたくなる。
 イルカが信じてくれたら自分は何でもする。だけどイルカが信じてくれなかったら自分は何をするか分からない。
 ヤマト隊長は「君は本当は強い子なんだよ」と言ってくれたのに、全然自分は九尾に勝てていない。甘えているんだ、イルカに。
 だって寂しい。
 あの人が認めてくれたから自分はここに存在しているのに。あの人にいらないと言われたら本当に消えてしまいそうな気がする。怖い。怖いんだ。
「やっぱり俺が弱いんだ」
 ナルトは空を見上げる。暮れ始めた空にいくつかの星が象嵌された宝石みたいに光っている。
 手が届かないそれにナルトは背伸びをして手を伸ばしてみた。



あの光り輝く天上への梯子。