「きれいきれい」
ほんのりオレンジがかったやピンク色のそれはアカデミーのトイレの洗面台や保健室に置いてあって、ちょっと特別な石鹸らしかった。
家で使う白いただの石鹸とは違う。
保健室の棚の中にカートンごと入っているのを見たことがある。赤い化粧箱にデザイン化された白い手のマークが描いてあって、「薬用」と記されている。
特別に消毒殺菌効果のある薬が入っている、アカデミーとか病院とかそういう施設で使われる特別な石鹸なのだ。
イルカ先生の家にもその石鹸があって、ナルトはいつも訪れるたびに「まず手ぇ洗えよー」と自分の前に立って奥の間へ向かう背中越しに命じられ洗面所に赴くたびに、さすがアカデミー教師の家だと感心していた。
どこでこの特別な石鹸を入手しているのだろう。
ナルトがいつも行くスーパーには青い箱の牛の絵の描いてある石鹸や白い箱にロゴマークの入っている石鹸しか置いていない。
きっと教師とか医者とか特殊な職業の人間だけが使う石鹸なのだと思っていた。
シカマルの家に行った。
「とりあえず、あがれよ」
シカマルはいつものようにめんどくさそうな顔で言った。
玄関の中は薄暗くて古びた木の匂いと畳の匂いがした。
モルタルの壁にフローリングのナルトの家とは全然違う感じだ。
家の人はいないみたいだった。
シカマルはアカデミーの中でただ一人ナルトを疎ましがらない変わった奴だった。
仲が良いわけではないのだけど、他のクラスメートに声を掛けるのと同じ調子で「よお」とか「テストどうだった?」とかナルトにも声をかけてくる。
もともとベタベタする性質ではないらしい。チョージという仲の良い幼馴染がいていつも二人でつるんでいるのだけど他の少年のように体術で習った技をかけあったり、駄菓子屋までメンコを賭けて競争したりとかはしていない。いつも二人でぼーっとしている。時々、窓際の席で将棋を指したりしている。
ナルトもいつもバタバタしている方でシカマルとは趣味はまったく合わないのだが、同じように騒がしいキバとかはナルトを馬鹿にするのであんまり仲良くない。
「茶ぁでもいれてやるから手、洗ってこい」
そう言われてナルトは暗い廊下の奥まったところにある洗面台へ案内された。
小さな陶器の洗面台にはそれにみあった小さな蛇口がついていて、白い飛沫の痕がたくさんついた鏡が上にある。
「うちの洗面台小さいからな。水飛ばすなよ。後で母ちゃんに叱られるからな」
廊下の向こうからシカマルの声が言った。
ナルトは蛇口を捻って、洗面台の石鹸おきから石鹸を取った。
ちびた石鹸はオレンジがかったピンク色で、アカデミーの手洗い場に置いてあるのと同じ匂いがした。
シカマルの家の人は先生とか医者とかではなかったはずだ。
「シカマルー!」
呼ぶとめんどくさそうに台所からシカマルが顔を出した。
「なんだ」
「この石鹸ってどこで買ったんだってばよ?これって普通のスーパーとかじゃ売ってないんだぜ」
はあ?とシカマルは首を傾げる。
「知らねー。母ちゃんがどっかから買ってきたんだろ」
「そっか。すげぇな」
ナルトが感心して言うとシカマルは変な顔をした。
その時からナルトにとってその石鹸は『お母さんの石鹸』になった。
お母さんが家族のために、普通の白い石鹸じゃなくて特別な石鹸を用意するのだ。
ただの石鹸じゃ落とせないばい菌から子供を守るためにわざわざどっかから買ってくるのだ。本当は教師とか医者じゃないと買えないのに。
すごいなあ。
ナルトは素直に感心した。
あの石鹸がある家がとても羨ましくなった。
もしかするとイルカの家にあの石鹸があったのは教師だからじゃなく、イルカの母親がいつもその石鹸を家に置いていたからイルカもその石鹸を選ぶようになったんじゃないかと、そんな事を考えついたのはずっと後のこと。
薬局で普通の石鹸の置いてある棚の、目立たない一番下の段にあの赤い箱を見つけてからだ。
特別なルートを使わないと手に入らないと信じていた石鹸は、なんのことはない近所の薬局で買えたのだ。
薬用なんだから薬局で売ってるのは当然か。
他の石鹸よりちょっとだけ高い赤い箱を持ってナルトは感傷に浸った。
自分一人のためなら安い白い石鹸を買うだろう。
誰かが使うと分かっていれば、高くても質の良い物をと思う。
先日イルカの家で鉢合わせした上官は、流しで腕にこびりついた血を洗い流していた。
ナルトは色々な意味で驚いたのだが、まずイルカの家に彼がいたことと、彼が傷を負っていたことと、なのに自宅でも医務室でもなくイルカの家で傷を洗っていたこと。イルカがいないのになんで鍵があいてたのかとか。
上官は手馴れた様子で自分で手当てをしながら、玄関口で突っ立っているナルトにイルカはまだ帰っていないと告げた。
待っているかと問われたけれどナルトは首を横に振ってイルカの家を後にした。
上官がなんだか別の、知らない男の人のように見えたので。
イルカの家の石鹸が教師の家の石鹸でも、『お母さんの石鹸』でもなく、でもやっぱり特別な石鹸のような気がしたので。
ナルトは手に取った赤い箱を棚に戻すと、いつもの青い箱の石鹸をかごに入れた。
なんだかそれは自分の手の届かないもののような気がずっとしていて、やっぱり今もそんな気がしている。