「傍らにナメクジ、青空」
風が流れて、視界が開けた。
重い塵芥は地へ、軽い粉塵は風が運び去る。
青空が広がる。
「大丈夫か!?イルカ!」
仲間の声がする。
砂埃が入り込んだ口の中がじゃりじゃりする。
もったりと、とろけるように柔らかい何かが体の上から引き剥がれてゆく。ひんやりと冷たいそれから清らかな水のようなチャクラがイルカの中に注ぎ込まれているのを感じた。
離れてしまうのが惜しいような心地よさだ。
「…すみま…せん…。皆様を包むだけで…精一杯でした…」
鈴を転がすような可愛らしい声が言う。
イルカは地面に両手をつき、慎重に身を起こした。あちこち痛んだが、骨は折れていないようだ。
「イルカ!」
霞む目を何度もしばたいて、仲間を見た。土埃に汚れた顔で、彼は呆然とした表情を晒していた。目を擦ろうとして、目の回りも、手も汚れているので思いとどまった。
何が起きたのか。
目に映る物と、頭の中の状況が一致しない。
イルカも、仲間の男も自然と基礎訓練で叩き込まれた整息法で呼吸をしている。ともすれば、パニックに陥りそうな自分を、本能的な警戒心だけが引き留めている。
のろのろと起きあがるイルカを守るように巨大なナメクジが身を寄せている。
呆れるほど空が青い。
警戒態勢で息を殺しているのが馬鹿馬鹿しくなるほどの開放感だ。
これから何が起きるのか分からない。
だのに、もう全てが終わってしまったような気持ちになる。
徐々に頭は状況を理解していくのだが、気持ちは麻痺しているのだろうか。周囲に広がる光景があまりにもあっけらかんとしているせいだろうか。
ただただ、呆然とするばかりだ。
十五年前のあの日から、ずっと怯え恐れていたはずだ。
また、あんな厄災が木の葉の里に降りかかる事を。全てを失う事を。
あの時よりひどい。
イルカのちっぽけなアパートの部屋も、子供達の声の溢れる教室も、朝夕に仲間達に依頼を配った受付も、毎日通った商店街も、何もない。
ささやかでいじましく大事にしてきた全てが消えている。
悲壮感はまだ感じない。
この先、一つ一つを実感し、悲嘆し、泣いたりするのだろうか。
他人事のようにイルカは考えた。
ついさっきまで必死で守ろうとしていたもの達のあまりにもあっけない消失に脱力してしまっているのかもしれない。
一緒に行動していた部隊の仲間達が声をかけ合って、少しずつイルカ達の方へ集まってきた。
見上げると目が合う。
生きている。意志のある目だ。
イルカの視線に答えるように彼らは頷いて見せた。イルカも頷き返す。
仲間達の傍にも様々な大きさのナメクジが付き添うように存在した。
イルカは気がつく。
悲壮感がないのは、血の臭いがしないからだと。
あの九尾の厄災の時のような生臭い有機的な臭いが殆どしない。崩れた建物と土塊の臭いが鼻につくけれど、空気は乾いていて、夥しい粉塵は雲のように吹き飛ばされていく。風の国から流れ込む黄砂と一緒に遠い海まで運ばれていくようだ。
イルカは自分に寄り添う巨大な軟体生物を見た。
通常時だったら大声で叫んでしまいそうな形状をしている。たっぷりと水気を含んだ灰色の胴体と色の濃い縞の入った背中は粘液でねっとりと光っている。この体内に先ほど感じていた清水のようなチャクラが溢れているなど信じがたい外見である。
五代目のチャクラだった。
ジン、と胸の奥が痺れる。
里の全ての人の傍らに。
守られているのを感じた。
遠くでまた土煙が上がった。どぉん、と衝撃音。
はっと見上げると、巨大な忍獣の影が三つ、また敵の口寄せかと皆、身を強張らせたが、それは木の葉を守護する蝦蟇の姿をしていた。
「ナルトオオオ!」
同時に遠くで声がする。土煙が上がるのと、どちらが早かったか分からない。
掠れて聞き取りづらいがサクラの声だ。
生きている。
ナルトが帰ってきた。今度こそ力が抜ける。心配より、安堵が大きい事にイルカはまだ気づかない。
同じように周囲の仲間達の表情がほっとしたものに変わる。
安堵したと同時にイルカの頭の片隅にこびりついていた怖い事が針のようにツキリとイルカの思考に刺さった。
イルカが一番恐れている事。先ほどから表層には浮かび上がらず、胸の内にたゆたっていた考え。
−−−カカシが命を落としたらどうしよう。
イルカは軽く頭を振って、その不安を振り払った。
きっと皆、生きている。
カカシは生きている。
何もかもがなくなろうとも、それだけでイルカは大丈夫なのだ。