「上忍缶詰」
敵も味方も分からぬような混戦のさ中、カカシは左目を覆った額あてをぐいと持ち上げた。
暈けたピントが急に合ったように視界がくっきりとする。乱れる人馬の動きが手に取るように分かる。自分の中の何かが加速し、それにつれて周囲の動きがスローモーションのように緩やかになる。流れを感じる。体の内と外に。チャクラを集中した利き腕からパリパリと放電するような痺れと音が聞こえ始める。それはやがてチリチリチ…チチチ…チ、と鳥の囀るような音に変わる。見回した視界に敵の大将の姿が映る。重なり合う馬と人と槍や刀剣、その狭間に一筋の道が開いた瞬間、すべての動きが止まる。
膨大なチャクラの放出とともに人馬をなぎ倒し、カカシは標的目掛けて駆けた。空間が歪むほどの衝撃が跨った馬ごと標的を突き破る。
一瞬の凶事に誰もが動きを忘れる。焼けた肉片がバラバラとカカシの後ろに降り落ちる。
「撤退」
短く指示の声が飛び、木の葉の部隊は波が引くように戦場から消えた。
転戦する部隊と別れてカカシとアスマは野営地点へ向かった。自分達が駆り出されるはずではなかった任務。大規模な盗賊団の騎馬隊が予想以上に手強かったため急遽、部隊へ投入された。本当なら今頃はちび共と芋でも掘っていたはずだ。あんまり便利に使い回さないで欲しい。疲れちゃった。早く帰って死ぬほど惰眠を貪りたい。
そう思ったが、その願いは簡単には叶えられないようだった。
複数の気配が追ってくる。さやさやとした風にも似た微かな気配は他里の忍のものに間違いなかった。
アスマと目配せし、囲まれるのを避けるために手近な雑木林へ潜り込む。出来れば交戦せずに行き過ぎたい。
木々の中で上下差を生かして移動する。
国境付近で強奪を繰り返した盗賊団は、元々はその国を平定した大名に滅ぼされた豪族の残党で盗賊団というよりは反政府組織に近かった。大名が木の葉忍に制圧を依頼するとすぐさま隣国の忍の里から忍を雇い入れた。大名側にも彼らにも大義があるのだろう。木の葉に限らず忍はそういった事情には介入しない。火影がその依頼を受ければ命じられるまま働くだけだ。
後を尾けてきた忍らとて同じだろうに、転戦した部隊ではなくこちらを追ってきたというのが解せない。気配を殺して様子を窺う。
野営地を知られるわけにはいかない。すでにあちらは陣形を展開しているようだ。数メートル先にいるアスマにちら、と視線を投げると軽く頷きが返ってくる。次の瞬間、二人の忍のいた場所には微かな空気の流れのみが残る。
少しだけアスマは気配を残して移動する。煙草の匂いが染みついた体は完全に消え去るには少々難があるからいつもそう役割が決まっている。カカシのチャクラが残り少ないため幻術は使わずに荒い方法を選んだ。囮であるアスマに引き付けられ包囲の輪が出来上がりつつある所で内と外から手勢を削る。
数人を無音のうちに切り捨て、相手が三人になったところでアスマと合流した。
敵の部隊長らしき男とおそらく中忍クラスの男が二人、ひたりと睨み合ったまま対峙した。退く気はないのかと目で問えば上官の男が視線を揺らがせもせずに応えた。
「写輪眼は見かけたら殺せと言われている」
「だからおめぇと組むのは嫌なんだ」
アスマが吐き出すように言う。
「ゴメンネ」
「黙れ、クソが」
可愛く言ったつもりが一蹴された。
顔を晒すとろくな事がない。里の中では異様な風体に見えるかもしれないが、戦場では顔を隠す人間は少なくない。将来に余計な禍根を残さぬためにも、顔は知られない方が良いのだ。出来ればああいう特徴的な大業も使用は控えたかったのだが、あまりの混戦振りにどうにも埒が明かないと判断した。自分に期待されていることは知っている。使わない写輪眼はただの硝子玉と同じだ。その結果がこれなわけだが。
血で任務服がビタビタだ。
同じ数ほどの人間を斬ったはずなのに殆ど返り血を浴びていないアスマが露骨に顔を顰める。
「雑な仕事しやがって」
微かな嫌悪をそんな言葉でアスマはやり過ごす。カカシはもうほとんどチャクラを使い果たしてしまっていてそんな事に気を使っていられない。
犬の殺し合いの方がまだましだったろう。
切っ先の鈍った刀を叩きつけた肉の感触が手に残っていて、今更酷く興奮してくる。獣にも劣る。真に劣情と表現されるべきもの。戦いの最中はむしろ冷え切っている頭が、終わった後に熱くなる。人を殺した事よりも、今自分が生きている、自分は殺す側であって殺される側ではなかったという事実に体が震えるほどの歓喜を感じる。存外、こういった戦いの後の自分達は陽気だ。自分が殺す側なのだと信じられるうちは何度でも自分は戦場に出るだろう。嫌々やっているなどと自分でも信じない。好きでやっているとも思わないが。ただ慣れ親しんでいる行為なのだ。他に出来ることもない。
数日前に荷物を隠した河原に着くとカカシは流れの中に身を浸した。赤い色が流れに溶けだして川が真っ赤に染まる。膝ほどもない浅瀬にうつ伏せに体を伸ばして水に浸かる。冷たくて気持ちいい。
「おい、そんな浅いところで溺れるなよ」
水面に出ている耳にアスマの声が聞こえる。
「おい?」
ブクブクブクブク…。
「おい!」
首根っこを掴まれて引きずり上げられる。
「大ジョーぶれす」
面倒臭ぇ、アスマがしみじみと言った。
濡れた任務服を脱いで絞り、それで体を拭くと荷物の中から着物を出して身につける。袴をはいて刀を腰に帯びれば流れ者の浪人にでも見えるだろう。
左目の奥がズキズキ痛んで涙が止まらない。緊張と弛緩を繰り返したために脳の血管が拡張して視神経に触るらしい。左目からだけたらたら涙が落ちて鬱陶しい。移植されたばかりの頃は歩くだけで酔っぱらってゲーゲー吐いていた。それに比べれば今は格段にマシになったがフル稼働となるとチャクラの消費だけでなく負担は大きい。人様の物を借り受けてろくでもない事をやっている報いだ。
「大丈夫なのか?」
「吐きそう」
手拭いを絞って左目の上に乗せた。
「少し寝ていいぞ」
岩陰に伸びるとアスマがそう言ってくれる。
こういう時は腕のいい仲間の存在は本当に有り難い。子供達と一緒ではおちおち休息もとれない。
はーーーー。
「俺ねえ。帰ったらカレー食うの」
「吐きそうな時にカレーの話なんぞするな」
たしかに、ちょっと胃の辺りがムカムカしてきた。
今はただ、誰もいない薄暗いところに潜り込んで一人で眠りたい。
憧れのカレーライス空間、それに馴染まない自分も知っている。
なにも考えない。
ひたすら寝こけて、チャクラが戻ってくるのを待つ。
どうせなんにも出来ないし。
殺せと言うのは自分じゃない。分別もつかぬ自分に殺すための道具を握らせたのも、あんな怖い場所へ連れていったのもどっかの誰かだ。
どっかの誰かのために犬みたいに駆けずり回って、飢えた獣みたいに血塗れになって、それで腹が膨れるわけでもないのに。
誰のためでもない。誰のためにもなってない。
ただそういう生き物なだけだ。
だから眠ろう。なんにも考えない。
綺麗なもの、優しいもの、暖かいもの、それは他の誰かのためのものであって自分のためのものではない。
そのことに安心している。
泣きたくなるほどに安堵している。
コンコン。
小さなノックの音にハッと体に力が入る。
ここは、里の中の自分の家で、自分はベッドに潜り込んでかれこれ3日はぐうたら眠りこけている。カーテンから漏れる光は午後のそれで、瞼に残る顔は数日前に自分が殺した男の顔で、たった今まで夢に見ていたものだ。客人の来る予定はなく、ドアの向こうの気配は静かだから火急の用件というわけでもなさそうだ。
目を開いた刹那にぐるりと周囲の状況が頭に入ってきた。ぐるりと感じたのは瞼の動きに合わせて眼球が回転したからだ。
誰だろう。
居留守を使おうか。まだ体が十分ではない。任務達成後の躁状態も去って今は心身とも下降気味だ。
でもそろそろ体を動かした方が良い。昔のように任務が立て込んでいれば自動的に飛び起きる羽目になるが今は自力で起きなければ永遠に布団に同化して溶けてしまいそうだ。
コンコン。
再度のノックの音を踏ん切りにカカシはむっくりと身を起こした。
「こんにちは」
ドアの向こう側に立っていた感じのいい笑顔にカカシは狼狽えた。
よりによってこの人だなんて。
くしゃくしゃのパジャマを着て、だらけきった体をぐんにゃり立たせている自分の姿を想像してカカシは頭を抱えたくなった。
いつもは違うんですよ、いつもは。
今回はちょっと面倒な任務でチャクラ使い過ぎちゃって、無駄に人殺し過ぎちゃって、いつもみたいにちゃんと出来なくってドッグファイトにもつれ込んで無用に血を流させてしまって…ああ、考えちゃダメ。
「ご飯ちゃんと食べましたか?」
訊ねられて視線を戻すとイルカの眉が寄せられて顔つきが硬くなっている。
「食べました」
それは本当。ちゃんと食べなきゃ忍失格だ。
「ちゃんと寝てますか?」
「はい」
死ぬほど寝こけてます。
イルカが気遣わしげにこちらを見ている。そんなにおかしな様子なのだろうか。
「これ、急ぎの書類だったもので。お休みなのに家まで押し掛けてしまってすみません」
イルカは小脇に抱えた書類入れから数枚の書類を取り出して差し出した。今回の任務についての確認事項がいくつか。報告はアスマが済ませてくれていたがカカシの意見も必要なのだろう。明日の会議に出席しろと書かれている。
「ちょっと待っててもらえますか?時間かかりそうなんで上がって下さい」
中に入るように示しながらきびすを返すと、はい、と小さく応えてイルカも一緒に家に入った。
カカシの家は無駄に2LDKだ。上忍になった時に宛われて他に家を探すのも面倒だったのでそのまま住み着いている。
リビングのソファに座って貰って戸棚の引き出しからペンを探り書類に向かう。
「ああ、お茶、お茶」
お茶くらい煎れるべきだろう。多分。立ち上がって台所へ向かったカカシにイルカが恐縮する。
「お構いなく。仕事中ですから」
ああ、そうなの、と返しながら流しに向かい、そういえば湯飲みがないことに気がついた。
いつも家では茶漉しに茶葉を入れて直接マグカップに注いでいるのだが、そのマグカップ以外にはガラスのコップしか持っていない。他にお茶を入れられるような物と言ったら-----------------お椀。
ああう、と呻くとイルカがリビングからこちらを伺っているのが目に入った。
「………すみません、ちょっと今、」
湯飲み切らしてて…最後の方はごにょごにょと誤魔化した。
「いえ、本当にお構いなく。書類を受け取ったらすぐにお暇しますから-----」
あ、イルカの口が小さく音の形を作った。
「猫缶」
台所のテーブルに積まれた缶詰が目に入ったらしい。
カカシは頬が赤らむのを感じて目を逸らした。
唐突にそんなものをテーブルに積んでいることがもの凄く恥ずかしくなった。
「カカシ先生、猫飼ってらっしゃる…」
「いえ、もう二度と猫缶なんて、!!」
「はい?」
怪訝そうなイルカの視線から隠すようにカカシはテーブルの上の缶詰を流しに移動した。
「今、書いちゃいますから」
ガリガリと頭を掻きながらカカシは空き缶だらけの台所を出た。
書き終わった書類を渡すと玄関先でイルカはもう一度、カカシの顔をじっと見つめた。
黒い眼がきれいだ。
この人も自分とおんなじ人殺しのはずなのになあ。
イルカだってAランク任務も何度かこなしているのだから当然そうなはずだ。なのに、きれいな眼だ。
「気が済んだら、」
イルカの口から発せられた言葉に耳がそばだつ。
「うちにカレー食いに来なさい」
思わぬ真剣な響きに心のどこかを突かれる。
手を伸ばす素振りを見せて、けれどイルカは手を引っ込めた。撫でてもらえるのかと思った。ふぅっと沸き上がった心地よい予感に勝手に眼が細くなる。体の内側がジリジリしてくる。
泥沼の混戦で無駄な人死にを出したくなかったんです。
だから大業を使った。
追ってきたのはむこう。
俺は悪くはないですよね。間違っていませんでしたよね。
そんな事考えるだけ悪あがきだ。
俺は悪いし、間違っている。
それに気付いてしまえるくらいには大人になってしまった。何も考えず何も感じずにいられればよかったのに。
今更、だろう。
ただ遠くからいいなあ、と思って眺めていられたら良かった。
カカシには分かっている。
この人と関わったら、きっと自分は辛いだろう。
色んな事を考えて、辛いだろう。
綺麗なもの、優しいもの、暖かいもの、それは他の誰かのためのものであって自分のためのものではない。
ずっとそれが免罪符だった。
絶対に自分は幸せになんてなりません。
だから、赦して。
どこかの誰かにそう言い訳しながらカカシは生きている。
でも明日、会議の帰りに湯飲みを買おう。そんでちゃんと飯食って帰ってこよう。
誰も自分を赦しはしないし、自分も自分を赦さない。
でも、カレーを食いに行こう。