「To be by your side.」
風が渦を巻いて視界が煙る。
霞む視界一面に白。
叩きつけるように横殴りに雪が吹きつけ、山肌に削られた道ともいえぬ足場を進む体は今にも風に巻き上げられそうだ。
全身にチャクラを張り巡らせていても一瞬の気の緩みで雪と氷に足を取られて暗い谷底へと滑落するだろう。
前を行く男の巨躯がわずかばかり風と雪を防いでくれているにしても、いまだ成長しきらない少年の棒切れのような手足はこの吹雪の中、その体を支えきるのに心許なく感じさせた。
「吹き飛ばされるなよ、カカシ」
白い外套を翻しながら前を歩く男が声を張り上げる。
耳元でごおごお鳴る風の音にその声も掻き消される。
重く垂れ込めた雪雲の下、白く雪煙をたなびかせて尾根は幾重にも続いている。
「どうかお願いいたします」
そう言って頭を垂れた長い黒髪の姫君は彼らに一通の書状を託した。
灯りを落とした自らの居室で手引きした侍女に襖の外を窺わせながら、隣国の実父へ宛てた密書だった。
「三千の民草の命がかかっております」
この大陸を二つに隔てる山脈を越え、彼女の生国へ同盟国の裏切りを知らせる書状。
雪は既に三日降り続いていた。この季節、忍の足をもってしても山越えに十日はかかる。
だが雪が融ければすぐさま城主は彼女の国へと攻め込むだろう。一刻も早くその情報を国へともたらし迎え撃つ準備を進めておかなければならない。
「あなたはどうするのですか?」
問うた忍に姫君は
「私が動けば事が漏れたのも城主に知れてしまいましょう」
そう言い人質のまま敵地に残ることを選んだ。
この密書が無事彼女の生国へ届けられても、届けられなくともおそらく彼女の命はない。
戦が起きる。
「どうか、お願いいたします」
深々と下げられた黒髪を見下ろして、忍達は雪の吹雪く晩に足を踏み出した。
顔を覆った暗部面のおかげで顔面に吹き付ける雪は凌ぐ事が出来る。面の内に篭った湿った呼気が外套の襟元を湿らせるのが冷たい。
同行の男も上忍でカカシと同じく暗部に属していた。寡黙で見上げるような巨躯に似合わず獣のような優しい目をしている。初めて任務を共にするこの男をカカシは嫌いではなかった。他の同僚達から流れてくる噂が気にならない程度に気に入っており、また関心が無い。そういう相手だ。
噂は男が男色であるということ。戦場ではよくあることだ。女が絶対的に少ないために男を代わりに使う。だがこの男が噂に上るのは里で女に囲まれても見向きもしないからだ。男しか相手に出来ないらしいとか、心に定めた相手がいるのだろうとか、そんな風に下卑た笑いの中で語られる。
カカシにはどうでもいいことだ。
男は腕が立つ。
それだけで十分だった。
書状は櫛の歯ほどに細く畳み蝋で固めてカカシのベストに縫い込めてある。
はじめ、カカシは密書を持つのは自分ではない方が良いと言った。
同行の男に比べ、体力面で劣っている事をカカシは自覚していた。抜きん出た殺傷能力を持っているにしても十七になったばかりのカカシの体はまだ少年の域を出ない。
最悪の場合、密書を持った者だけでも山を下りられればいい。
ならば膂力も持久力もカカシを上回る男の方が持つべきだろう。
それにそうであれば万が一、敵に襲われた時にもカカシは敵を倒す事だけに専念できる。
そう主張したカカシに連れの男は
「なら、尚更お前が持っていたほうがいい」
いなすように言った。
「これを持っていれば死ねないだろう」
男の言葉にカカシは眉を寄せる。
「俺には生きて帰って会いたい人間がいる」
だから二人とも生きて山を降りるのだと、そう言った男の声音は何故かカカシの耳にいつまでも残った。
絶え間ない風の音に遠くなる意識を低い唸り声が引き戻した。
カカシの傍らを駆けていた忍犬が鋭く鳴いた。
同時に鼻を掠める火薬臭。
「来たぞ!」
たん、たん、と短く軽い発火音。起爆符を用いたのだろう、頭上の雪が崩れて二人を襲う。
二人の忍は咄嗟に身を翻した。足場が崩れる前に先へ、先へ。
白い忍犬が二人を先導するように走る。雪に溶け込みそうなその姿を追いながら、素早く敵の位置を伺う。
攻撃は後方から。罠を仕掛けられたわけではない。二人の忍が城を去った後に姫の密計が城主に漏れたのだろう。そして追っ手がかけられた。
「あの人、殺されちゃったかな…」
面の内で呟いた言葉は雪風に飛ばされて音にならない。
目の前に雪原が開けた。
細い足場を追って来る敵を迎えるならここだ。
振り向きざまに前の男が吠える。
カカシは跳躍した。
その下を風を切って千条の針が飛ぶ。追っ手の幾人かが全身に針を受けて白い斜面を落ちてゆく。
雪の上に降り立ったカカシを頭上から十字手裏剣が襲った。かわして更に跳ぶ。尾根を越えてバラバラと灰色の人影が駆け下りてくる。
土地勘はむこうにある。
後ろと上からの挟み撃ちだ。
「クロガネ!」
カカシが男を呼ぶ。
男の太刀が吹雪を裂いて、敵の手裏剣を薙ぎ払う。カカシが印を結ぶと雪崩のように雪中から無数の忍犬が放たれた。犬達とともに咆哮を上げ、カカシは敵に躍りかかった。
白く霞む視界に撒き散らされた赤い色だけが鮮やかだった。
里は平和だった。
あの雪山での決死行が嘘のようだ。
凍りついた外套の裾も火の国へ近づくにつれて融けて乾いていった。
柔らかな冬の陽に、遠い異国で人質のまま短い命を終えた姫君の顔も霞んでしまう。
チャクラの消耗と気温差の激しさに疲弊しきった体を引き摺って二人は火影の執務室へ報告に行った。
「よく帰ったの」
三代目火影は皺だらけの顔に更に皺を刻んで笑った。
雪が融けたら戦は起こるのだろうか。
一介の忍の知るところではない。一国の軍事力を担う木の葉忍を束ねる火影ならば、自国とは無関係の異国の勢力図も動向も胸の内にあるのだろうが。
「ゆっくり休め」
好々爺然とした笑顔はそう言っただけだった。
火影の執務室を辞し、面もとらぬまま二人は建物の外へ出た。まだ冬のさ中ではあるがあの北の国よりは随分と暖かい。里人達の穏やかな声の響く中を宿舎へと向かう、その途中で不意に連れの男が歩を止めた。
誰かを見つけたらしい。
カカシは驚いた。
一般の忍の前ではけして外さぬはずの暗部面を男は毟り取り、一人の少年の方へと駆け寄っていったからだ。
「イルカ!」
呼ばれ振返った少年はカカシよりも一つ二つ年下、十五、六に見えた。支給のベストを身につけている。なりたての中忍だろうと身のこなしや纏う空気から察する。
連れの男の声や仕草が高揚を伝えてくる。
ああ、とカカシは納得する。
噂の意味、男しか相手にしない男の意中の相手。
こいつのためにこの男は女を寄せ付けず、決死の雪山を越え里へ帰ってきたのか。
どこにでもいそうな、凡庸な若い忍に見えた。顔立ちも、黒々とした目に愛嬌があるかもしれないが特に整っているわけでもない。鼻の上に一線、一文字の傷跡は古いもののようだ。特徴といえばそれくらいだ。あれほど腕の立つ男が執心するような相手には見えない。
閨術に長けているとでもいうのだろうか。そういった匂いもしないのだが。
奇妙な取り合わせだ。
数メートル離れた位置からカカシは二人を眺めた。
イルカと呼ばれた少年は声の主を見定めると顔を強張らせた。
「今朝がた帰った」
男の言葉には答えず
「面を取らないでください」
顔を背けるように言う。
「おまえの前でこんなものつけていたくないないんだ」
「それはあなたの勝手でしょう。困ります」
「---------」
「任務お疲れ様でした」
少年は硬い顔のまま、硬い声音で言ったきり一つ礼をするとそのまま立ち去ろうとした。
男の嬉しげな様子とは裏腹に少年の態度はそっけない。
「イルカ、」
その腕を取ろうとして躊躇った男の手の動きに、カカシの中で波立つものがあった。
「おい」
男の代わりにカカシは少年の腕を取り、背中に捻りあげた。簡単に後ろが取れた。
「----っ」
苦痛に歪む少年の顔を冷ややかに見下ろしながらカカシは言った。
「こいつ、やっちまおう」
腕の中の体がぎくりと強張る。
「カカシ」
「こいつだろう、あんたが山を降りて会いたいと言った相手は」
ただのガキじゃないか、呟いたカカシを少年が気丈に睨みつけてくる。
生意気そうなガキだ。
歳こそ違わないが物心ついた頃から戦忍として戦場に身を置いてきたカカシにしてみればまだ尻に殻のついている雛鳥に過ぎない。そんな何の力も無い身で身分も戦歴もはるかに上回る男を鼻であしらう態度に苛ついた。
たった今、任務から帰って来たのだ。
血と埃に塗れた相手に言う言葉がそれか。
-------俺には生きて帰って会いたい人間がいる
あの、声音。何かを懐かしむような、切ないような色の滲んだ言葉を吐かせたのがこのガキか。
黒々と真っ直ぐに澄んだ目。
まだ何も知らない目だ。
「あんたが命じればこいつに拒否権はないんだ」
少年は唇を噛み締め、それでも挑むように男を見上げた。男は悲しげに眉を顰め少年を見、カカシを見た。
男の気配が微かに揺らいだと思うと、カカシはいきなり頬を張られた。
受け流したつもりが男の丸太のような腕にカカシは軽く弾き飛ばされた。地面に蹲って睨み上げたカカシから少年を庇うように立ち、男は怒りと微かに憐憫の色を滲ませた目でカカシを見た。
かっと頭に血が上った。
「勝手にしろ」
吐き捨てるように言ってカカシは埃を払って立ち上がり、その場を後にした。
九年後、カカシの目の前で信じがたい光景が展開されていた。
「お疲れ様でした」
にこりと穏やかに微笑む報告書の机に座っている男。
先日から受け持つ事になった下忍三人のアカデミー時代の恩師だというその男は、任務を終え報告に訪れる全ての人間を穏やかな笑みで労っていた。
鼻っ面に真一文字の傷。
あの時の少年に違いない。
男はカカシに向かっても他の人間に対してと変わりなくにっこりと笑いかけた。
向こうはあの時の少年が自分だとは気がついていまい。自分の顔は面に隠されていたのだから。
「これが俺のイルカ先生だってば」
誇らしげに新しく部下になったばかりの金髪の少年が言う。
初めまして、アカデミーでこいつらの担任をしていましたうみのイルカです。
そんな挨拶の言葉と共に向けられる笑顔。
「どーも」
カカシは呆気にとられてとぼけた返事しか返せなかった。
先生、先生と纏わり付く少年の頭をくしゃくしゃに掻き混ぜて男は惜しげもなく優しい笑みを零す。
そんな風な出会いだったので。
遠ざかる大きな背中と小さな背中にカカシはあの日自分が見たかった光景を見出して、それをとても欲しくなってしまったのだった。