Navigator、Navigator, rise up and be strong,
The morning is here and there's work to be done.



 最近、俺はイルカ先生が怖い。
 暗部時代の後輩なんかは「泣く子も黙る写輪眼のカカシが、何を言っちゃってんですか」と笑うが、本気でびびっている。
 俺は今までイルカ先生を、ただのちょっと熱血でお人好しの中忍先生としか思っていなかった。
 初めて会ったのが七班の上忍師を拝命した時だから、三年以上そのような印象しか持っていなかった。
 いや、白状すると、ちょこっとだけ可愛いなあとか、思ってなかったこともない。なんというか、野暮ったい生真面目そうな男なのだが、笑顔が屈託ないというか、苦労人のわりに世間ズレしていないというか、酸いも甘いも噛み分けてきただろうに純情でどことなく可憐な田舎町のオカンみたいな可愛らしさがある。
 子供の下品な悪戯にすぐに真っ赤になって怒っちゃうとこなんか、あれは仕掛ける子供達の気持ちも分かる。つつきたくなるんだよね、ああいう反応されるとさ。子供は単に面白がってるだけだろうが、思春期を過ぎた人間は何とも言えない微妙な気分にさせられる。
 この先生、もしかして女知らないんじゃないのか?というような。
 二十代も後半に差し掛かったの男がそのような弄られ方をしているというのが、ちょっと大丈夫なの?と思わなくもないが、そのままの君でいて…と思っているのはおそらく、俺だけじゃない。上忍くノ一の姐さん方もくさくさした任務の後は、受付所で純情な中忍をからかって憂さ晴らしをしているそうだ。
 海千山千のくノ一達をうまくあしらっているのを見ると、やっぱりやり手なのかな?とも思う。度量がでかいんだと思う。
 いつも元気で、声が大きくて、ニコニコしてて、正直そうで、どっしりした安定感がある、可愛いオカンみたいな内勤の中忍。
 俺は微笑ましく、その他大勢と同様にイルカ先生を鑑賞し心を和ませていた。
 しかし、そのイメージがここ数週間で覆された。
 最初に気がついたのは、目の下の隈だった。
 疲れてるみたいだな、と思っていたらみるみるやつれてきた。ラーメンの汁を吸ったみたいにふっくらつやつやしていた頬が削げて、精悍さが増した。
 そして眼光が鋭くなった。
 中忍とは思えない、幾多の戦場を潜り抜けてきた戦鬼のような目だ。
 その目で俺をじっと見るのだ。まるで暗殺任務を請け負った忍が標的を見るような目だ。
 最初は気のせいかと思った。
 俺にはイルカ先生にそんな目で見られなくちゃならないような覚えはなかった。以前、ナルト達に中忍試験を受けさせた時に、売り言葉に買い言葉でキツイ言葉を吐いたことがあったけれど、あの時もイルカ先生は怒っていたみたいだけど、あんな目を俺に向けることはなかった。
 他の奴らに対しては、やつれた顔はしているものの、いつも通り穏やかな目をしているから、やっぱり俺が個人的に恨まれているみたいだ。
 その様子があまりにも鬼気迫るので、俺はすっかりイルカ先生が怖くなってしまった。
 怖い。
 あの穏やかで優しい人に、そんな目を向けられているという状況が。
 身に何の覚えもないというのに。俺だけが。
 胸が痛んだ。
 俺は悲しかった。



 俺はどんよりとした澱を胸の底に抱えて、受付所へ続く廊下を歩いていた。
 周囲には俺と同じように任務を終えて報告へ向かう者と、既に報告を終えて出口方向へと歩いてくる者達がいる。すれ違いざまに顔見知りの上忍くノ一がひょいと、片手を突き出した。
「今年もよろしく」
 うふ、と笑ったくノ一の手にはリボンの結ばれた小さな箱が載っていた。
「ナニ、これ?」
「やぁだ、毎年のブツよ。甘い物嫌いだって言うから今年は煎餅にしといたわ」
 くノ一の言葉に俺は首を傾げた。毎年のブツ?なんだ、そんな怪しい取引をしてたっけ?
 俺が考えていると、廊下の向こうから数名のくノ一がやって来て甲高い声をあげた。
「はたけじょうにぃん、私達も!」
 はい、チョコレート!と三名の中忍が次々に俺の手の中にラッピングされた箱やら包みやらを押しつけた。
 ああ、バレンタインデーか。
「こういう事、しなくていいって言ってるのに」
「でも、貰えるとうれしいでしょ?」
 あー、まあね。
「今年は猿飛上忍が受け取ってくれなくってぇ」
 うわ、この子、アスマに渡しに行ったの?命知らずだなあ。幻術を使う赤い目の獣がアスマの周囲をうろついているというのに。
 ありがとね、と礼を言って俺はくノ一達と別れた。
 それからも次々にチョコレートを渡されて、受付所に着く頃には両手が一杯になっていた。
 よっ、色男!と野次を受けながら受付所に入ると、部下や同僚に貰っただろうチョコの包みを手にした男達がうようよいた。
 夕方に差し掛かった今の時間帯は、任務帰りの忍達で受付は混み合う。
 俺は比較的空いている端の方の列に並んだ。
 以前なら、真ん中より一つ右側の列に迷わず並んだ。火影の隣はイルカ先生の指定席だ。
 イルカ先生のことを考えてバレンタインデーの華やかな空気に浮かれていた気分が、一気に落ち込んだ。
 イルカ先生の列に並んでいる連中はいつものように、にっこりと笑って「お疲れ様でした」と言ってもらえるのだろう。元生徒だろうか、イルカ先生にチョコレートを渡している女の子もいる。だが、俺があの列に並んでも、きっとまた凄い目で睨まれるのだ。
 俺は一体、イルカ先生に何をしてしまったというんだろう。
 知らずに傷つけるようなことをしてしまったなら謝りたいし、誤解なら解きたい。
 だが、イルカ先生の殺気立った気配が近づくことすら許してくれない。
 俺は悲しい。
 人に拒絶されるのには慣れていると思っていたのに、イルカ先生が相手だとこたえる。
 他の誰もが拒絶したナルトという存在を唯一受け入れていた人だったからだろうか。この人だけは謂われもなく人を否定したり拒絶したりしないと信じてしまっていた。
 そういう人に嫌われるというのはキツイ。すぐに「あいつ嫌い」とか「うざい」とか言い出すような相手なら、別に嫌われたってダメージは受けない。
 俺はそこまで非道な人間だろうかという気分になる。
 イルカ先生に見つからないように、人陰に隠れてひっそりと俺は報告所の提出をした。
 気配を消し、言葉も発せず、黙礼だけで係の男に挨拶し、受付を後にしようとした。
 ところが、イルカ先生は目敏く俺に気がついて、ぎらりと目を光らせて、突然立ち上がった。
「カカシ先生!」
 呼び止められて、俺はぎくっと立ち止まった。
 いよいよ、何か決定的な事を言われるのだと思った。
 悲しみに変わる前の恐怖が胸の内を締め上げた。
 イルカ先生は上体を曲げて机の下から何かを取り出すと、俺に向けてそれを差し出した。
「受け取って下さい!」
 数列の人間を挟んでそれは俺の手元に突き出された。
 イルカ先生は真剣な目で俺を睨みつけている。
 俺は両手に抱えたチョコレートの包みをばらばらと床に落としてしまった。
 それは真っ赤な包装紙に包まれた、馬鹿でかい四角い包みだった。
 白いリボンが掛かっている。
 受け取るとずしりと重かった。
 いや、マジで重い。
 そしてデカイ。
 忘年会の上座で火影様が座る厚手のふかふかの座布団くらいの大きさがある。
 俺が包みを受け取ると、イルカ先生は表情を緩め、ほやっと笑った。
 硬く閉じていた蕾が綻ぶよう。
 その笑顔があんまり可愛くて、俺は呆気にとられてしまった。


 事務の女の子が奥に引っ込んで紙袋を持ってきてくれたので、俺は床に落としたチョコレートをそれに入れた。
 そしてイルカ先生に貰った包みを両手に抱えて、待機室に行った。
 イルカ先生は慌ただしく、また業務に戻ったので話は出来なかった。
 真っ赤な座布団大の包みを抱えて上忍待機室に入ると、周囲の視線が一気に俺に集中した。
「なんだ、それ?」
 アスマが口にタバコを銜えたまま言った。
「なんだと思う?」
 俺は待機所のソファにその包みを置いた。
「結界が張ってあるな」
 アスマの言葉に俺も頷いた。
「爆弾か!?」
 珍しくガイが待機所にいた。
 そうだったら、俺、泣いちゃうよ。
「誰にもらったんだ?」
「イルカ先生だけど…」
「開けてみましょうよ」
 おそらく今日一日は、アスマに寄ってくる女の子を牽制してベタベタとひっついているのだろう、紅が赤い目を爛と輝かせて言う。
「女たらしにバレンタインデーの鉄槌ね」
 人聞きの悪い事を。俺はこれでも硬派なのよ。
「俺は恨みを買うような覚えはないよ」
「でもイルカ先生、最近すごい目であんたのこと睨んでたじゃない」
 紅も気づいてたのか。というか、周知の事実らしい。俺がリボンを解きにかかると、周囲五メートルほどから人が引いた。ちょっと、おまえ達、友達甲斐のない連中だね。
 真っ赤な包みを剥がすと、中包みは新聞紙。怪しい。
 新聞紙も無造作に剥がす。四角い透明なプラスチックの箱の中には水が張ってあった。ひんやりと冷たい。結界でプラスチック容器の中に薄く張られた水は、容器を縦にしても零れることはなかった。
「水遁の応用か。随分、高度な術じゃねえか」
 いつの間にか隣に近づいてきていたアスマが感心したように言った。
 結界の中で水は循環して、気化熱で容器全体を冷却していた。重たいはずだ。
 そして、S級の水遁忍術を駆使して冷やされている容器の中央に据えられているのは、チョコレートだった。
 ハート型をしている。
 そしてデカイ。
 座布団サイズだ。
「------------------------------------なに、コレ?」
 俺は、巨大なチョコレート塊を前に首を傾げた。
「チョコじゃない」
 アスマの隣から紅が顔を覗かせた。
「------------------------------中忍でも、これだけの高度な術が使えますっていうアピール?」
「LOVEって書いてあるぞ」
 ガイが指差した。書いてある。ハートのチョコレートの表面に、くさび形文字で彫り込んである。
「------------------------これ、どうしたらいいの?」
「食べるんじゃないの?」
 紅の言葉に、皆、うんうんと頷いた。
「食べられるの、コレ?」
 だって、めちゃめちゃデカイよ。厚みだって分厚い座布団みたいだよ。
「匂い、嗅いでみろよ」
 アスマに言われて、俺はハート型の物体に鼻を近づけた。
 甘ったるい匂いが鼻孔一杯に広がった。
「毒は入ってないみたい」
「じゃあ、食べるんじゃない、やっぱり」
「囓ってみろよ」
 アスマが言う。
 俺は素早く覆面をずらして齧り付こうとした。が、重くて片手で持てなかった。仕方がないからソファの上で斜めに浮かせて、体を屈めて囓ってみた。
「かひゃい…」
 よく冷えていてガチガチだ。硬いし、ぶ厚いし、歯の先で傷をつけるだけで精一杯だった。
 覆面を元に戻して、歯でこそげたチョコレート片が口の中で溶けるのを吟味した。
「どうだ?」
「セミビターみたい」
 それでも甘い物が苦手な俺には充分甘い。
「これ、どうしたらいいの?」
 俺はまた、周囲に訊いた。
 みんなは笑って
「好きにしろよ」
と言った。
 俺は途方に暮れた。


 馬鹿デカくて、重たくて、硬くて、甘くて、到底、食べきる事なんて出来そうにない。
 こんなもの、今までもらった事なんてない。
 イルカ先生がくれた。
 花のように微笑んで、イルカ先生がくれた。
 どうしたらいいのか分からない。
 なんだか泣きそうだ。
 上忍待機室のソファの上で、上忍仲間達に囲まれて。
 なんだか俺は泣きそうだ。



For to shift a few tons of this earthly delight.




メガトン級のバレンタインデー。
The poguesの「Navigator」を聴きながら。