噂が里を駆け巡る。
はたけカカシが同性のうみのイルカから告白されて、こっぴどく振った。中忍の男なんかに言い寄られて、珍しくキレたらしい。
バレンタインデーにイルカがカカシにチョコレートらしき、バカでかい包みを渡したのは受付所にいた大勢が目撃していたから、それは確かに本当の話だろうと誰もが信じた。
イルカを笑う者もいれば、カカシを大人げないと諫める者もいた。
だけど、それは本当ではないとカカシだけが思っていた。
イルカからチョコレートを貰ったのも、それに腹を立てたのも本当だけど、だけど腹を立てた理由はそうじゃない。
イライラとした気持ちを抱えたまま、カカシは本部棟の昇降口で壁に凭れて立っていた。
仕事を終えた内勤者達が次々と建物を出て行く。イルカの姿はない。
ここで張っていれば会えるはずなのだが、残業があるのかもしれない。ずるずるとカカシは壁に背中を預けたまましゃがみ込んだ。
暮れてゆく空を眺めながら、カカシはそっと溜息を吐いた。腹立ちは徐々におさまって、悲しいような気持ちになってきた。
すっかり日が落ち、星が頭上に冷たく光り始めた頃にやっとイルカは現れた。一人で、寂しそうな目で歩いてくる。いつも元気に跳ねている髪が、勢いなく揺れている。
「イルカ先生」
昇降口の階段を降りかけたイルカの横から声を掛けた。イルカはハッとしてしゃがみ込んでいるカカシを見下ろした。
「返事は?」
「え?」
「いらないんですか?」
カカシはイルカから視線を逸らせたままで言った。
「自分の気持ちを押しつけて、それでお終いじゃないでしょ。あんなバカでかくて重たい物、押しつけといて知らんぷりなんて失礼じゃないですか」
膝に手を着いて、億劫そうにカカシは立ち上がった。振り返るとイルカは黒い目を見開いてカカシを見ていた。
「ご迷惑だと…思ったんです」
弱い声で言い訳する、黒い瞳が揺れている。
「真剣な相手なら、俺はちゃんと返答をしますよ。当然でしょ」
イルカは目を伏せ、頭を垂れた。
「明日ね」
明日、返事をします。そう言って、歩き出したカカシの後からイルカの声が追ってきた。
「カカシ先生は、やっぱり、思っていたとおりの人です」
その声が濡れているような気がしてカカシは後ろを振り返った。
イルカは泣き笑いみたいな顔でにっこりと白い歯を見せていた。
どんな人だと思われているんだろうな、とカカシは考えた。夜の匂いを鼻孔に感じた。
翌日は、朝からそわそわと落ち着かない空気が本部棟内に漂っていた。
里中をチョコレートが飛び交った一ヶ月前、その回答が今日、あちこちで手渡される。
−−−便利な世の中だ。
菓子屋の陰謀だろうが、誰かに用意された流行だろうが、利用出来るものはなんでも利用してロマンスを楽しむ。男女の色恋とは貪欲なものだ。
そんな風潮とは自分は無縁だと思っていたカカシだが、今年は初めてバレンタインのお返しという物を用意した。
ま、作法に則って、ってことだ。
受付所では一ヶ月前とは逆の光景が見られた。バレンタインデーのお返しにと貰ったらしい菓子の箱を手にしたくノ一達がそこここにいる。義理には義理のお返しが、本命には後でこっそりとやりとりされるのだろう。
カカシは真っ直ぐ、イルカの列に向かった。先に並んでいた数人の忍達が報告所の提出を済ませるのを待って、カカシはイルカの前に立った。
カカシが自分の列に並んでいるのには気がついていたのだろう、イルカは緊張した面持ちながらも笑ってみせた。周囲の人間も、噂になった二人が相対しているのに気がついて、ふと受付所内の音がなくなった。
「イルカ先生、これ」
報告所を受け取ろうとしたイルカの掌に、カカシはころりと、それを載せた。
小さな、栗の実ほどの大きさの丸っこいチョコレートだった。白い銀紙に包まれ、一箇所だけ窪んでハートの形になっている。
イルカに貰ったのと同じくらいの重量と質量を持ったものを贈ってやろうかとも思ったのだ。だけど、それは自分の胸の内とはかけ離れているような気がしてやめた。
イルカがくれたような大きくて重くて堅い、そんなものは自分の中にはない。
「俺に返せるのはこれくらいです。イルカ先生がくれたようなものは返せません。それでもいいですか?」
イルカは掌の上の小さな丸っこい菓子をじっと見つめていた。真っ黒な目がこぼれ落ちてしまいそうだ。無心で無邪気な子供みたいな眼差しで、それを見つめている。
こくん、とイルカは一つ頷くと、にっと笑った。
「ありがとうございます」
きゅううとイルカの眉が八の字になった。
「よかったな」
ぽんぽんと両隣の受付の同僚達が、イルカの肩を叩いた。受付所内の張り詰めていた空気が緩んで、また元のざわめきがかえってきた。
はたけ上忍も、優しいところあるのね。まあ、そんなとこだろう。良かったね、イルカ先生。そんな声があたりから聞こえる。
イルカは目を潤ませながら大事そうにカカシの渡したチョコを握りしめ、同僚達も一緒になってよかった、よかったと連呼している。行き会わせた周囲の人々もホワイトデーの微笑ましい一幕に、うんうん、と分かったような顔で頷いている
そんな予定調和の美しくまとまりかけた空気を打ち破ったのはカカシの声だった。
「じゃあ、今夜は仕事終わったら待ち合わせして飯でも食いましょう」
怪訝そうな顔でイルカはカカシを見上げた。声は出なかったが、口が「は?」の形に開いている。ふっくらした唇が美味しそうだ。
「え?どうして?」
イルカはぽかりと開いた口から疑問の声を上げた。
「だって、恋人になったんですから一緒に帰って飯くらい食うでしょ」
「え?」
イルカと一緒に、周囲の空気も凍りついた。
「だって、カカシ先生は、これしか俺に返せないって…」
「イルカ先生はそれでもいいって言ったじゃない」
バレンタインデーにチョコを貰って、ホワイトデーにお返しをしたのだ。
「それって、恋人になりますってことでしょ」
「えええええ!?俺、男ですよ!?」
「知ってますよ、そんなの」
カカシはしれっと答えた。
周囲がどよめいて、カカシは溜飲を下げた。
どうして誰もかれも、イルカ本人すら、カカシがイルカを振るだろうと、そんな風に思っているのか、と。
あんな半永久的に壊れる事もなさそうな、大きくて重たくて甘くて堅い、イルカからそんな物を受け取って、カカシが心を動かさないと、どうして信じ切ってしまっているのか。
それが腹立たしかったのだ。
「これは今の俺の気持ちです。でも、これから育てていくんだからいいでしょ」
イルカの手の中のホワイトチョコレートを指差して、カカシはにこりとイルカに笑いかけた。
実際につき合う事など考えていなかったのだろう。イルカは呆然としたまま、こくこくと頷いた。
多分、それは小さいけれど、とても甘くてしつこくて後を引く。
じっくりたっぷり、味わっていただこうと思う。