「いい人、優しい人」



「だって、ひどいじゃないですか、そんなの!」
 イルカ先生は生ビールの中ジョッキを両手でぎゅっと握りしめて、歯ぎしりしながら言った。
 左の頬が青黒く内出血していて痛々しい。
 カカシは烏龍ハイを片手に、カウンターに肘を突いてイルカの方へ体を向けている。
 いつもの居酒屋の、いつものカウンター席で、「うん、うん」とイルカの話を聞いている。
「俺は、ただ彼女の相談役になってただけなんですよ?!そもそもはあいつがちゃんと彼女の話を聞いてやらないから、俺が話を聞いてあげてたんです!」
 うん、うん、そうだねえ、イルカ先生は優しいからねえ。
「彼女も彼女ですよ!信じられない!あんなにあいつの事が好きだって言ってたくせに、ちょっと話を聞いてやっただけで俺の事が好きだとか言い出すなんて、安易に過ぎます!」
 そうそう、そんな尻軽には今後、一切関わらないのが正解。
「もう死にたいとか言ってたくせに、その程度の悩みだったのかってんだ!」
 死にたいだと?甘ったれやがって。一度、最前線に送りこんで同じ事が言えるか試してやりたい。
「なんで、俺が殴られないといけないんですか!」
 納得いかん!とイルカはまた叫んだ。
 要約するとこうだ。
 イルカは同僚の女に彼氏と上手くいかないと相談された。人の好いイルカは相談役になってやっているうちに女に惚れられ、相手の男に殴られた。
「全然、俺の知らないところで話が進んじまってるんですよ。今まで散々、俺相手に愚痴ってきたくせに肝心なとこは言わないんですもん」
 「好きな人が出来たから別れたい」と女に切り出されて、逆上した男は受付までやって来て、いきなりイルカを殴りつけたのだという。
「ちなみにそいつの名は?」
「そんな事はどうだっていいんです!」
 イルカはぐっとビールを呷った。
 よくないよ。イルカ先生の顔に青痣をつけた奴だもん。
 ぷはっと息を吐いた口元は紫色で、きっと痛むに違いない。
「かわいそうに。明日になったら腫れるね」
 そっと指の背で撫でて言うと、イルカがきょとんとした目を向けた。それからにっこりと笑った。可愛い。可愛すぎる。カカシは心の中で身悶えた。
「カカシさんだけですよ〜、そんな風に労ってくれるのは〜」
 酔っているのか、イルカはグズグズと鼻を鳴らした。
「みんな、俺が悪いみたいに言うんですよ。俺はただ、彼女の恋がうまくいけばいいなあって思って」
 うん、うん、みんな、イルカ先生の良さが分かっていないんだよ。
「彼女が話したいって言うから、残業しないで家に仕事持ち帰ったり、それで徹夜で任務のレポート仕上げる羽目になったりしてたんですよ!」
 ん?
 カカシは眉を顰めた。
「週末も他の誘いを断って会いに行ったり、」
 それで、これじゃあ割が合わない、とイルカは憤っている。
 ちょっと、待て。ちょっと、待て。
「イルカ先生、なんでそこまで…やっぱり、その女のこと好きだったりしたんじゃ…」
「なわけないじゃないですか!彼氏持ちですよ!?」
 いや、だって、それは…。
 それは、誤解するだろ。そこまでしてくれたら、上手くいかない彼氏より、呼べば来てくれて、話を聞いて慰めてくれる笑顔の可愛い中忍先生の方が良くなるだろ。
「なんで、そこまで…」
 カカシは頭を抱えたくなった。人が好いにも程がある。他人の色恋沙汰など放っておけばいいのだ。その二人が上手くいこうが、いくまいが、イルカにはなんの関係もないのだから。
 イルカは拗ねたように唇を突き出した。いつもより幼い表情に、カカシはつい顔をじっと見てしまう。
「俺だって、いつもはそこまでしないんです」
「じゃあ、なんだって、そんな」
 やっぱり、その女に気があったんじゃないのか。
「だって、カカシさんが、」
 イルカがちろっと上目遣いでカカシを見上げた。
「カカシさんはいつも、俺のくだらない話や愚痴を聞いてくれるじゃないですか。カカシさんにはなんの関係もない話でも親身になって聞いてくれて。だから」
 黒い目が真っ直ぐにカカシを見る。
「本当に優しいっていうのは、こういうことなんだなあって思って。俺もカカシさんを見習わなきゃいけないなと思って」
 烏龍ハイ一杯で酔ったわけでもないのに、カカシはくらりと目眩を感じた。
「はあ?」
「俺、全然優しい人間じゃないから、優しいってよく分からなくて。だけど、カカシさんを見てると、やさしい人だなあって思うから」
 ナニ言ってんの?優しくない人間が、親の仇の妖獣を封じられた子供を命がけで庇いますか?胃が捩れるほど心配しますか?
 それに俺は全然、優しくなんてない。
「俺が誰にでも、こんな風にするなんて本気で思ってるんですか?」
 びっくりだ。
「だって、そうなんでしょう?」
 イルカは露ほども疑っていない顔で言った。
「俺みたいな、ただ部下の元担任ってだけの中忍に、こんなに良くしてくれるんだもの。今日だって、こうやって俺の愚痴につき合ってくれてるし」
 そりゃあ、だって!下心がありますから!
「俺、カカシさんとこうやって話せるの、すごく嬉しいんです」
 酔いのせいだけではなく、顔を赤らめてイルカが言った。ちょっと、その顔可愛いです、先生。
「己の欲するところを人に施せっていうじゃないですか」
 ああ、言いますねえ。どっかの国の大昔の聖人が、そんな適当なことをぬかしやがりましたね。
 だけどねえ、先生。
 がっくりと俺はカウンターに突っ伏した。
 今まで、まったく自分の気持ちがイルカに伝わっていないことが判明して、頭がクラクラした。
「あのねえ、先生」
 突っ伏したままでくぐもった声で、いかように、この純朴で鈍感なお人好しに、打算と情欲まみれの自分の好意を説明したものか悩んだ。
「俺は、イルカ先生だから優しくしたいと思うんです」
 ぺたりと頬をカウンターに載せて、カカシは上目遣いにイルカを見上げた。
「その女が、イルカ先生を好きになっちゃった気持ち、わかんない?」
「分かりませんよ!恋人がいるのに!」
 ふくれっ面でイルカは断固として答えた。
 誠実でお堅くて、いい人。融通が利かなくて−−−−−ああ、どうやって口説いたらいいんだろう。
「イルカ先生は、優しい俺を好きにならない?」
 え?とイルカは目を丸くする。
「イルカ先生が困ってたらいつでも手を貸します。愚痴も聞くし、寂しい時には傍にいて慰めます。優しくします。どうですか?俺の事、好きになりません?」
「なりません」
 きっぱりとイルカは言った。
 ああ、そう。なんだか告白もしないうちから振られた気分だ。
「好きになる時は、なんの見返りがなくても好きになります。その相手がいてくれるだけで嬉しい。俺は、ただ、」
 真っ直ぐにイルカ先生は俺を見た。すっと酔いが覚める。
「ただ、その人の在りようが好ましいと思える相手に惚れます。本当は任務帰りでくたくたなのに、顔に青痣作ってるの見たら放っておけないで話聞いちゃうような、人手不足だからって立て続けにSランク任務請け負って、文句の一つも言わずにまた次の任務に出かけちゃうような、気のなさそうな顔してこっそり医療棟で修行してる部下の様子見に通ってたり、さっきまでアカデミーの裏庭で死んだように眠ってたくせに、俺の前では平気な振りして酒なんか飲んで−−−−」
 イルカはカウンターに指を引っかけて俯いた。
「俺は、そういう人を好ましいと思うんですよ」
 俺はかあ、っと顔に血が上るのを感じた。
 好ましいと言われた事より、見られていた事が恥ずかしい。
 なんだか、ものすごく恥ずかしい。
 真っ赤になった俺を、イルカ先生は見て微笑んだ。
 「ああ、そっか」と呟く。
「俺は、カカシさんに優しくすればよかったんですね」
 そんな事を言うイルカ先生に、俺はぐぅの音も出ない。
 情欲まみれの下心も打算もどっかに引っ込んでしまって、ひたすら恥じ入った。
 恥じらう俺を、嬉しそうにイルカ先生は見ていた。

 先生のバカッ!




三十路近い男二人。