「雪の日」
校庭で一人の子供が雪玉を投げている。
ぱしゃり、ぱしゃりと教室の窓ガラスに雪の玉が投げつけられて、砕けては張り付いて滑り落ちる。
分厚い雪雲は遠くの山の上から里の空全体を覆いつくして外はもう真っ暗だ。
教職員用の昇降口から外を覗い、イルカは白い息を吐き出す。
昨夜降り積もった雪にはしゃいだ生徒達はさっきまで雪玉を投げあったり、雪だるまを作ったり校庭を転げまわっていた。日が暮れて彼らが散り散りに帰ってゆく頃、その子供は踏み荒らされた校庭の雪の上に現れて一人で雪玉を作っては教室の窓に投げつけている。
今までどこにいたのだろう。
他の子供たちがきゃあきゃあと走り回る様を一人でどこかからか眺めていたのだろうか。
上靴を履きかえると今朝、出勤時に濡れた外履きはまだ湿っていて冷たかった。昇降口の階段を下りて校庭を横切るついでに声を掛ける。
「おおい、何してる!下校時刻は過ぎてるぞ、早く帰れ!」
小さな背中がぎくりと強張った。
悪いことをしていたのが見つかったように恐る恐る振返る。イルカはずんずん雪を踏みしめて子供に近づいた。
「こんな遅くまで外にいたら風邪ひくぞ」
寒さで強張った顔に手をやると自分の指先よりも冷たくなっている。
「こんなに冷えて」
屈みこんで両掌で頬と耳を包み込んで目線を合わせる。
「何やってたんだ?」
ゆき、と小さく子供が言った。
「あそこに当たるかどうか、投げてた」
教室の窓を指差す。
ふうん、とイルカは呟いて立ち上がった。
ぽん、と子供の頭に手をのせるとヒヨコみたいな黄色い髪は冷たく湿っていて指先から背筋がじわり、と冷え込む。
「寒いな。早く帰ろう」
小さな頭をくるりと押して促すと子供はイルカに並んで歩き出した。
見下ろした細い首筋が寒々しい。
「マフラーとか持ってないのか?」
訊きながらイルカは自分の襟巻きを解いて子供の首に巻いた。耳までしっかり覆うようにして端を結んでしまう。どうせ走り回ってすぐ解けてしまうだろうから。大きな青い目が見上げてくる。
「先生、寒くない?」
「先生は大人だから平気だ」
はふ、と息を吐いて子供はマフラーに顔を埋めた。
昼間の日差しで融けかかった雪が夜の寒さでまた凍り始めている。半端にぬかるんだ道の冷たさが足に凍みる。手をつないだ子供の袖口には雪がこびりついて濡れて冷たい。体の一部でも濡れていると惨めな気持ちになってくるのはどうしてだろう。月も星も出ていない重苦しい空の下、二人だけが暗い道を歩く。
世界にひとつもきれいなものが見つけられない、そんな夜道だ。
ああ、腹が減っているのか。
くちん、と子供がくしゃみをした。
「晩飯、食っていこうか」
「へ?」
「こんな時間だし、今から帰ってもまともに料理なんてしないだろう?」
イルカは子供の手を引いて里の中心街へ向かった。
明るい賑やかな場所へ出るとほっとした。気温は変わらないはずだがなんだか暖かい。
軒先に下がった大きな提灯が目印の一軒の店へ入る。ガラリと戸を開けると「らっしゃい」と無愛想な声が響く。
店主はちらりとイルカの後ろに立つ子供に目をやり、何もいわずにカウンターを顎で示した。
並んでカウンターの椅子に腰掛けお絞りで手を拭う。湿気を含んだ暖かい空気が冷え切った顔や手にまとわりついてくる。水滴のついたコップがたん、たん、と目の前に置かれる。とりあえず水に口をつける子供にメニューを見せてやる。
「ここは叉焼が美味いぞ」
「‥‥‥味噌とトンコツ、どっちが美味い?」
「う〜ん、悩むところだなあ。どっちも美味いんだよなあ」
頬杖をついて考え込む仕草のイルカに子供の声が明るくなってくる。足をぶらぶらさせながら、どうしよっかなあー、と一緒に考え込む。
う〜ん。
う〜ん。
「お決まりですか?」
「あ、ああ、はいっ」
店主に声を掛けられて慌ててイルカはメニューに向き合う。
「ほら、何にする?」
「う〜〜‥‥味噌、トンコツ…う〜〜〜〜〜…メチャメチャ悩むってばよ」
「俺はトンコツにするぞ。今日は冷えたから香油とにんにく入り」
「う〜…う〜…いっそ醤油…」
「こらこら、選択肢を広げるな」
う〜う〜とひとしきり唸って、ようやく味噌ラーメン叉焼・煮卵トッピングに決まった。
「ああ〜、でもやっぱりトンコツのがよかったかも」
注文してからもまだ悩んでいる子供にイルカが呆れた声を出す。
「今度きた時に頼めばいいだろ」
「‥‥‥‥‥‥」
イルカの言葉に子供は黙り込んだ。そして何度か言葉を飲み込んでから思い切ったように言った。
「先生、また、‥‥‥連れてきてくれる?」
「そうだな〜、期末考査で赤点がひとっつもなかったらな」
「ホント?ホント!?」
「ああ、でも他の子達には内緒だぞ。全員で来られたら先生、破産だ」
わあ、俺、がんばっちゃうってばよ!大きな声で宣言して、子供は待ちきれないみたいにカウンターに身を乗り出して厨房を覗き込む。
やがてほかほかと湯気の立つ丼が二つ、二人の前に並んだ。
「美味いか?」
「ぐふっ」
勢いよく頷いて子供がむせる。
「先生、トンコツ一口頂戴!」
「おう」
「あ、こっちも美味いってば。今度はこっちにしよっと」
ぴょこぴょこ動くヒヨコ頭のつむじを見下ろしてイルカは笑った。
「やっぱ腹が減るとだめなんだなぁ」
「ん〜?」
「暖まったろ?」
「うん」
赤みのさした頬で子供も笑う。
ごうちそうさま!ぴょん、と椅子を飛び降りた子供がととっと店の外へ出てゆく。会計を済ませてイルカも後を追う。
外は真っ暗で冷たい風がびゅうびゅう吹いていたが、もう惨めな気持ちにはならない。
「さむっ」
ぶるっと震えた子供のマフラーを巻き直してやる。
「先生、これ、」
「このまましていきなさい。さっきくしゃみしてたし、風邪ひくなよ」
「うん」
素直にこっくり頷く頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「ちゃんと風呂入って暖まれよ」
「うん」
「夜更かししないで、早めに寝るんだぞ」
「うん」
「それから----」
「もー、いいってばよ。ちゃんと一人で出来るってば!」
つないだ手を離して子供がぴょん、と一歩先へ踏み出して振返る。
「イルカ先生、ごちそうさま!」
「おい、転ぶなよ!気をつけて帰れよ!」
駆け出す背中にイルカは更に掛ける言葉を探したが、わかってるってばー!と子供の声に遮られて苦笑するしかなかった。
ほ、と白い息を吐く。
黙々と雪玉を投げる背中に怒りが滲んでいたのをイルカは見ていた。
こんな寒い日に一人きりで、どんな気持ちで他の子供たちを見ていたのか。
まっすぐに伸びやかに育ってほしいと思う。
ずいぶん、手前勝手な望みだけれど。
踏みしだかれて泥にまみれた雪道をイルカは歩き出す。
融けかけた氷の上に、あと幾度か雪が降ったら季節は春に向かう。
雪融けの時が一番里は汚く見える。
日陰に残った汚れた雪や泥濘にうんざりしながら、花も見えず、清廉な寒気もなくなり、穏やかな暖かさもない。
いやな季節だ。
だがその向こうに春が来ている。
翌朝、イルカが教室のだるまストーブに火を入れるとストーブはもくもくと黒煙を吐き出し、教室中がハムかソーセイジのように燻製にされた。
昨日、子供の投げた雪玉がストーブの煙突にぱんぱんに詰まっていたのである。
事態を引き起こした張本人は自分のしたことなどすっかり忘れ果てて一緒に燻し出されたそうである。