灰色の羊は姿を現しません。
もう幾日が過ぎたでしょう。彼は柵の周囲をウロウロと歩き回っては羊たちの群を眺めて暮らしました。
灰色の羊と黒い羊の間に何があったのでしょう?こんな風に長い間外の草を食べなくてもあの羊は平気なのでしょうか?もしかしたら、灰色の羊は黒い羊のように仲間の肉を食べるようになってしまったのかもしれません。
----僕がいくらでも美味しい草を食べさせてあげるのに。
それとも羊はやはり同じ羊と一緒にいる方がいいのでしょうか?
彼はふと、灰色の羊は外の草を食べる必要がなくても自分の所へ訪ねてきてくれるのだろうかと考えました。
彼と一緒にいれば灰色の羊は自分に合った草をいつでも十分に食べられるのです。なのに灰色の羊は必ず仲間の群に帰っていきます。
羊は群から離れる孤独に耐えられないのです。自分から望んで群から離れた彼にはその気持ちが分かりません。
羊たちが味わう心が壊れるほどの痛みや悲しみを彼は知りません。
だからこそ、羊という生き物に惹かれたのかもしれません。
弱く優しい生き物。
その中でも一際弱く頼りない灰色の羊のために自分がこんなにも苦しんでいるなんて。彼はその滑稽さに自らを笑いました。
今日もまた日が暮れていきます。
森から仲間たちの遠吠えが聞こえてきても、彼はもう何も感じません。ただ、明日は灰色の羊がやって来るだろうかと、それだけが心配で眠れないのです。
それは彼が初めて知った、孤独というものでした。
「やあ」
顔を上げると灰色の羊が立っていました。
彼はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向きました。灰色の羊は困惑して突っ立っています。彼の眉間に刻まれた皺の深さに、そうとう機嫌が悪そうだとは分かるのですが、どうしてなのかは灰色の羊には分からないのです。
「随分久しぶりじゃないか」
彼はつっけんどんに言いました。
「う、うん」
「柵の中の草が食べられるようになったのかい?だったらもう、ここへ来る必要はないのだろう」
「いや、そういう訳じゃないんだ。やっぱり腹をこわしてばかりだよ」
灰色の羊の言葉にようやく彼は顔を上げました。どうせこの羊から自分の望んでいる言葉など聞けるはずはないのです。
見ると灰色の羊は以前よりもやつれているようでした。表情もなんだかしょんぼりとして冴えません。
「腹が減っているのかい?」
「うん」
彼はいつものように柵を押し開けて灰色の羊を外に出してやりました。
灰色の羊はおぼつかない足取りで柵を出て、草を食みはじめました。
その姿を見て、ふと彼の頭にある考えが浮かびました。
----このまま柵を閉じて群へ帰れなくしてしまったら彼はどうするだろう?
柵の外は危険だらけです。きっと羊は外での生活の緊張に耐えられないでしょう。森の穴蔵に追い込まれたあの羊たちのように。
----我々には決して味わうことの出来ない……
彼の心臓が一つ大きく跳ねました。
----それに対する禁忌の意識が強ければ強いほど……
彼には羊を食べてはいけないという禁忌はありません。けれど、その羊が彼にとって決して傷つけられない、大切な羊だったらどうでしょう。その羊が大切であればあるほど、その肉は美味しいに違いありません。
そして羊の中でも特に苦痛や恐怖に弱い灰色の羊はすぐに心を麻痺させて、彼に自分の肉を差し出すのではないでしょうか。これ以上の快楽はないというように。
彼は自分の心臓が煩いほどにドキドキと高鳴るのを感じました。
けれど、彼は思い直します。
灰色の羊を食べてしまった後、彼はどうすればいいのでしょう。
森へは帰りたくありません。
けれど羊の群の近くにいるわけにもいかなくなるでしょう。
----そうだ。
あの最後に残った羊のように、彼は彼自身をも貪って果てればいいのです。灰色の羊を食べた自分の体を食べて、それで終わりにすればいい。そうすれば彼も少しは羊に近づけるような気がしました。
彼は足音を忍ばせて灰色の羊に近づきました。そして背後からそっと灰色の羊の喉元へ牙をあてました。
「え…?」
「------っっ!?」
鈍い音がしました。彼は吹っ飛んで地面の上に転がりました。
「だ、大丈夫かい!?」
慌てて羊が駆け寄ります。彼は鼻面を押さえてくぐもった唸り声をあげました。
振り向きざまに灰色の羊の角が彼の顔を直撃したのです。
目の前に火花が散るような衝撃でした。
羊には爪も牙もない代わりに堅い角が合ったのです。
灰色の羊はおろおろと彼を覗き込んで、大丈夫かい?大丈夫かい?とそればっかりを繰り返しました。
「いいよ、もう。君はさっさと群に帰りたまえ」
彼は鼻面を押さえたまま言いました。
「でも……」
「いいから、帰るんだ」
彼の突き放すような声に怯えて灰色の羊は後ずさりました。
「ごめんよ、ごめんよ。わざとじゃなかったんだ」
そういいながら灰色の羊は柵の中へ、群の方へと歩き去りました。
彼は痛みにまだクラクラしながら情けなさに歯噛みしました。
確かにわざとではなかったでしょう。けれど振り向いただけであんな強烈な突きが出るわけありません。無意識のうちに羊の本能が危険を察知したのです。そして咄嗟に彼を角で突き飛ばしたのでしょう。
どんなに大切に思っても灰色の羊にとって彼は仲間ではないのです。
----ああ、まったく。
まったくなんて厄介な生き物なのでしょう、羊というのは。ズキズキする鼻を押さえて彼は心底から思いました。
----もう、あんな生き物に関わるのはごめんだ。弱くて頼りなくて、一人で生きてゆくことも出来ないくせに警戒心が強くて薄情だ。どうして僕があんな生き物に振り回されなくてはいけないんだ。もう金輪際、あんな生き物に関わるものか。
彼は心の中で堅く堅く誓いました。
それでも明日になれば、灰色の羊の訪れを心待ちにしているだろう自分が簡単に予想できてしまうのです。
彼はうんざりと呟きました。
「僕は業が深い…」
黒い痩せた狼は柵に凭れて寝そべると、切ない溜息を一つ吐き出したのでした。