その後の数日、彼は煩悶して過ごしました。
彼には灰色の羊に言わいでおいたことが一つありました。
羊の肉はとても美味い。
仲間の羊ならなおさら-----
その事を彼は、昔、森で仲間たちと暮らしていた頃に教えられたのです。
群のボスは大きな黒い狼でした。ひどく残忍な狼で食べる必要がなくても獲物をいたぶるのが好きでした。
そいつは羊を数頭、穴蔵に追い込み一頭ずつ他の羊の見ている前で殺して食べる遊びがお気に入りでした。羊はもともと臆病で恐怖や痛みに対する耐性が低いのです。そのうち羊たちは正気を失って、そいつの命じるままに自らの肉を噛み切って差し出すようになります。その肉をそいつは他の羊に食べさせるのです。狂った羊はとても美味そうに仲間の肉を貪ります。
一頭の羊が恍惚とした表情で、仲間に自分の肉を食わせているのを彼は見たことがあります。自分の体を貪り食われる痛みすら快楽としているようでした。そうして羊たちはお互いを食い合い、最後の一頭は自らの体を貪りながら果てたのです。
彼はその光景にぞっと背筋が凍り付くような気持ちがしました。
「羊の肉なんて、本当はそうたいして美味いものではないのだがね」
彼の横でそいつは冷ややかに笑って言いました。
「他の獣の肉と変わらない、ただの肉だ。だが、精神の弱い羊たちは共食いするという禁忌を犯す恐怖に耐えられないのだ。麻痺した脳が、ことさらに仲間の肉を美味く感じさせるらしい」
仲間の肉を食べるということを禁忌と感じる気持ちが強ければ強いほど、その肉は羊たちにとってこの上なく美味なものとなるのだ、そうそいつは言いました。
「我々には決して味わうことの出来ないご馳走というわけだ」
彼はそれ以来、肉が食べられなくなりました。
そいつの群にいることも我慢できなくなり、森を出て羊たちの柵のそばで草を食べて暮らすようになりました。いつの間にか彼は羊という生き物に、得体の知れない、奇妙な愛着を感じるようになっていたのです。
あの日以来、灰色の羊は姿を現さなくなりました。今までにもそんなことは度々あったのですが、この間話した黒い羊の話も気になって、彼は一日中羊の群の方ばかり見ているようになりました。
どうして僕が、あんな胡乱で薄情な羊の心配をしなくてはならないんだ。そう、思いながら羊の群から目を離すことが出来ないのです。
彼の目が羊の群から離れて歩いてくる誰かの姿を捉えました。
彼は目を凝らして、歩いてくる誰かをじっと見つめました。
灰色の羊ではないようです。ピンク色です。
----ピンクの羊?
彼は首を傾げました。それこそ突然変異の羊ではないでしょうか。
けれど、その誰かが近づいてくるにしたがい、それがそんなファンシーな代物ではないことが彼には分かりました。
風に乗って流れてくる生臭い匂い。
彼のよく知っている匂いです。
すぐそばまで近づいたそれは、赤い血にしとどに濡れた白い雌の狼でした。
彼は寝そべったまま警戒するように低く唸って、彼女を睨み付けました。
「何もしないわ。そこを通して欲しいの」
彼女は言いました。
「君はどこから羊の群に紛れたんだ?」
「知らないわ。生まれたときからあそこにいたのだもの。ほら、私の毛並みは真っ白でしょう。今は血に濡れているけれど、羊みたいに真っ白だわ」
「だけど君には爪も牙もある。」
「きっと私は母さんが森の獣に犯されて生まれたのだわ」
悲しそうに俯いて白い狼は言いました。
「だからあそこに私の居場所はないのよ。通してちょうだい。森へ帰るの」
彼は彼女の血に濡れた体を探るように見つめました。羊の血に間違いはありません。
「森には危険な獣がたくさんいる。羊の中で育った君なんか、すぐに殺されてしまうよ」
「だから母さんと妹たちを食べたの。強くなるために」
彼は顔を顰めました。
「美味しかったかい?」
「味なんか分からないわ。泣きながら食べたのよ」
では、やっぱり彼女は狼なのだ、そう彼は思いました。
彼は緩んだ柵を勝手に通ればいいと示しました。
白い狼は、数歩柵の方へと近づいてから、思い出したように彼を振り返って言いました。
「私、羊にも友達がいたのよ」
怪訝そうな彼に向かって彼女は続けました。
「黒い毛並みの綺麗な羊だったわ。この間会ったときに、嬉しそうに話してくれた。自分にもやっと仲間が見つかったみたいだって。灰色の毛並みの、優しそうな羊を見つけたんですって」
彼ははっと、彼女の顔を見上げました。
「仲間になれそうだったのに、あなたが邪魔したんでしょう?」
「なんの話だい?」
「あなたが草を食べるように、肉を食べる羊だっているんだわ」
「彼は違う。黒い羊の仲間じゃない」
「黒くなるわ。羊はそういう生き物なのよ。彼みたいな灰色なら、あっという間に黒くなるわ」
「君は…」
「妹で試したもの。最初は真っ白な、そりゃあ可愛らしい子羊だったわ。でもね、簡単よ。『あら、最近毛の色がくすんできたわね』『なんだか毛が黒くなってきていない?』『本当は黒い羊の子供だったのかもしれないわね』、そう毎日のように言っていたら本当に黒い羊になっちゃった」
羊なんていい加減な生き物だわ。そう彼女は呟いて、柵を潜り抜けると森へ向かって歩き出しました。
「黒い羊はどうなったんだい?」
彼の問いに白い狼は振りもせずに応えました。
「死んだわ。仲間たちの制裁を受けて。羊は弱いから…」
彼方の森へ、彼女の姿が消えるまで彼は赤く染まった毛並みを見つめていました。
そして目を閉じて、明日こそは灰色の羊が訪れてくれることを願ったのです。