ある日、いつものように灰色の羊が彼の元を訪れました。
しかし、なんだか様子が変でした。
もともと灰色の羊はぼんやりとした胡乱な目をしているのですが、今日の彼は尋常ではありません。目に外界の何物も映してはいないようなのです。のろのろと彼の隣までやって来て、そのまま立ちつくしています。ひどく怯えているようです。
「ぼ、僕は」
灰色の羊は聞き取りにくい声で呟きました。彼に対して言っているのか独り言なのかも分からないような調子です。
「羊が…」
切れ切れの単語に彼は注意深く耳を傾けました。
「見たんだ。羊が-----」
「どうしたんだい?」
「黒い羊が仲間の羊を食べていた。」
そういうと灰色の羊は堰を切ったように話し出しました。
「羊が羊を食べていたんだよ。真っ黒な羊が----美味そうに----時々いるんだ。突然変異で真っ黒に生まれる羊が。ぼ、僕みたいに、みんなと違う毛並みで……でも、羊の肉を食べるなんて」
「君、落ち着いて…」
「僕は肉なんか食べない。僕の毛並みは灰色だけど、----か、彼は、本当に美味しそうに羊の肉を食べてた。草を食べられないのなら、肉を食うしかないじゃないか、って。」
灰色の羊の興奮した顔を見て彼は眉を寄せました。
「ぼ、僕はっ------それを見て、僕は、その肉は本当に美味しいんだと----思った----」
灰色の羊は呻いて地に突っ伏しました。ガタガタと全身を震わせて小さく小さく、まるでこの世から消え去ってしまおうとするように体を縮こまらせています。
彼は痛ましそうに灰色の羊を見つめていましたが、立ち上がると柵の緩くなった部分に頭を押しつけてグイ、と押しました。そうして柵を開くと灰色の羊の傍らへいって、その背中を促すように鼻先でつつきました。
「おいで」
彼は先に立って柵の外へ出ました。灰色の羊はそんな彼をぼんやりと眺めていましたが、彼がさっさと歩き出したので慌てて立ち上がり、後を追いました。
「何処へ行くんだい?」
灰色の羊は柵を出てもせいぜい数メートルの範囲にしか行ったことはありませんでした。ところが彼はどんどんと柵から遠ざかっていきます。
「ねえ、待ってくれよ」
臆病な灰色の羊は柵から離れるのも、彼が遠ざかってゆくのも恐ろしくて暫くウロウロとしましたが結局彼の後を追いました。
彼は灰色の羊を広い牧草地の端の森に近い雑草の生い茂った場所まで連れてゆきました。
「ほら、此処には君の食べられる草がたくさん生えている」
灰色の羊はきょろきょろと周りを見回しました。沢山の種類の草が生えています。色んな花が咲いています。
「これがこの土地の本来の姿なんだよ。君のいる柵の中は、羊にとって食べやすい草だけを選んで意図的に育てている場所なんだ。君の先祖だって元はこういった雑草を食べていたんだ。だから、当然羊の中には柵の中の牧草が体に合わないのだっているのさ。君も黒い羊も突然変異というよりも先祖帰りと言った方が正しいだろうね」
「先祖帰り?」
「そうだ。君たちはそうあるべくして、そう生まれたのさ。柵さえなければ自由に体に合った草が食べられたんだ。だけど、羊には柵の外は危険だらけだから柵は必要だ。限られた広さで、より多くの羊が生きていくためには食べられない草は省いて、より食べやすい草だけを育てる必要がある。だから君のような体質の羊には食べられる草が少ない住み難い場所になってしまった」
「あの黒い羊も……食べられる草があれば羊の肉は食べなかった…?」
「だろうね。もともと羊の体は肉を食うようには出来ていないんだ」
灰色の羊はほっとした顔をして雑草の茂みの中をサクサクと歩き回りました。そして何事か思い立ったように彼を振り返りました。
「ねえ、今度あの黒い羊も此処へ連れてきてもいいかい?」
灰色の羊の言葉に彼は眉間のしわを深くします。灰色の羊は彼の表情に少々怯えましたが懸命に言葉を続けました。
「あ、あの羊も柵の外の草を食べる事が出来れば仲間を食べたりしなくていいんだろう?だ、だから…彼のために柵を開けて欲しいんだ」
彼は小さくかぶりを振りました。
「だめだよ。その黒い羊はもう…」
「どうして?」
「一度仲間を殺してしまったんだ。仲間の制裁を受けなければならないだろう。それに、柵の外へ出たら、彼はもう帰ってこない。」
どうして?また灰色の羊は訪ねました。自分のように柵の外で草を食べて、また柵の中へ戻ればいいと思っているのです。
彼も出来るならばそれが一番良いと思います。けれど彼は知っています。柵の中の草が体に合わない羊は一度柵の外へ出てしまうと柵の中へ戻ってこなくなる確率の方が高いのです。そして、柵の外で羊が生き延びられる確率はとても低い。
それに、羊の肉の味を知った黒い羊はこの灰色の羊にとってとても危険な存在です。黒い羊は灰色の羊を食べようとするか、もしくは一緒に肉を食べるように誘いかけるのではないでしょうか。その誘惑を突っぱねられるほど灰色の羊はしっかりしていません。自分が羊ではないのじゃないかといつも悩んでいるくらいなのです。
出来れば関わりを持って欲しくない、そう彼は思います。そして灰色の羊にそう言いました。柵の中へと帰る道々言い聞かせましたが、果たして灰色の羊が納得したかは分かりません。
いいえ、多分…
彼は柵の傍らに腰を下ろしながら、憂鬱な気持ちで灰色の羊の後ろ姿を見送ったのでした。