はたけさんは昔、忍者だったそうだ。
その道の人なら知らない人はいない「すごうでのじょうにん」だったらしい。
今は「イルカ先生のヒモ」なんだそうだ。
おかあさんが仕事へ出掛けた後、朝ご飯の食器を片づけてわたしが庭に出ると、はたけさんは庭の小さな畑で草むしりをしていた。
わたしとはたけさんは同じアパートの一階のお隣同士だ。
アパートの南側には小さな庭があって、それぞれ部屋の境界はちくちくした葉っぱの垣根で区切られているのだけど、背伸びをすればすぐにお隣が覗き込めるくらいの高さしかない。うちの庭は時々、大家さんが手を入れてくれるのでそのままほったらかしになっている。勝手に生えてきた白粉花が夕方になると庭の隅で白い花を咲かせる。
はたけさんは庭を石でいくつもの長方形に区切って土を入れ、畑を作っている。夏の初めの日差しを受けてピーマンや茄子やトマト、胡瓜が緑の茂みの中にいくつもぷらぷらとぶら下がっている。
はたけさんはうみのさんという声の大きな男の人と一緒に住んでいる。
うみのさんはわたしのお母さんが出掛けるのと同じくらいの時間に家を出てしまうのであまり会うことがない。忍者アカデミーの先生をしているらしい。
お母さんはお隣の人と関わってはいけないと言うのだけれど、お母さんも他の部屋の人達も仕事に出掛けてしまった後、アパートにぽつんといると、同じように一人で留守番をしているはたけさんが気になって自然に様子を窺うようになってしまった。
わたしは苗の林の中にしゃがんでいるはたけさんを横目に、つっかけを引っ掛けて塀の所まで出ていってみた。お日様のひかりがだいぶあたたかくなってきたのでアオがそろそろ来るんじゃないかと思った。
「アオ、アオ」
私が呼ぶと、ぬるんと灰色の猫が塀の向こうから姿を現した。
向こう側から塀に飛び乗ったのだろうけど、いつも私は大きな魚が水面に浮き上がってきたみたいだと思う。
アオはわたしの猫だ。
家に飼っているわけではないけれど、わたしはそう決めている。
持っていた煮干しを地面に置くと、アオは前足を塀についてそろそろと下に滑らせると、と、たん、と地面に降りてきた。しゃりしゃりと乾いた音をたてて、煮干しを食べる。
「鯖猫だからアオなの?」
はたけさんが声を掛けてきたので、わたしはびっくりした。
わたしがじっとはたけさんの顔を見ているとはたけさんは首を傾げた。
「鯖って青魚でショ?」
私も首を傾げてはたけさんを見た。「でショ」という響きがちょっと変だ。しばらく、じっと黙ってお互いの顔を見合っていた。
「アオーーン」
わたしがアオの鳴き真似をすると、ああ、とはたけさんは頷いた。
「おおきいね、その猫」
はたけさんの言葉にわたしは頷いた。
お昼ご飯はお母さんが冷蔵庫の中に用意しておいてくれたおかずをレンジで温めて食べる。
南向きの硝子サッシから日の光が降りそそいであたたかい。昔、苺を摘みに行ったビニールハウスの中のよう。
昼ご飯を食べ終わると、食器を流しにはこんで水に浸けた。
一人でご飯を食べるようになってからどのくらい経つだろう。前は−−−どうだったかよく覚えていない。ずっと前、お父さんがいた頃。
一人ですることもないので庭に出た。
はたけさんは庭に置いた縁台の上で胡瓜を囓っていた。洗っただけの胡瓜に味噌をつけてそのまま食べている。じっと見ていると、はたけさんがこちらを向いた。
「食べる?」
きかれて困った。食べたいわけじゃないけど、誘いを断ってまた一人の部屋に入るのも退屈なのだ。
「今、とったばっかりだよ」
はたけさんは目の前の畑を目で示して言った。
大人が子供に語りかける時の変に明るい優しい調子とはかけ離れたのんびりぼんやりした口調で、本当に勧められているのか悩んでしまう。
わたしは垣根の隙間を潜って、はたけさんちの庭へ出た。耳元や手首をちくちくした細長い葉っぱが引っ掻いて白いひっかき傷がついた。
はたけさんはぷらぷらと手を振ってわたしを招き寄せると、縁台の上で胡瓜を盛った籠と味噌の皿をわたしの方へ滑らせた。わたしは縁台の端っこに座って胡瓜を囓った。とったばかりの胡瓜は温くて青臭い味がした。味噌には胡桃が入っていて美味しかった。
はたけさんはごろんと縁台に転がると肘をついて頭を支えながら目を閉じた。
「いい天気だねーえ」
鼻にかかった甘ったるい調子で言った。
はたけさんは白い髪をしている。最初はおじいさんなのかと思ったけど、近づいてよく見たら顔は若かった。前髪が長くて顔の半分は隠れてしまっている。
アオが庭を横切ってきて膝の上にのった。大きなアオはわたしの膝の上からはみ出して、だらりと後ろ足を床に垂らしている。わたしは両手で輪を作って、その中にアオをすっぽり入れた。ごろりと寝返りを打って、アオは白いお腹を見せた。
「でかい猫」
はたけさんはまた言った。
「餌貰って、膝で甘やかされて、いいご身分だねー」
はたけさんは歌うように言った。
ひとしきりゴロゴロしてから、はたけさんはまた畑に入った。茄子とピーマンをもいでビニール袋に入れて戻ってくると、サッシを開けて部屋の中へ入っていった。はたけさんの部屋はうちよりも一部屋多い間取りで、身を乗り出して覗くと、巻物や本が多くて散らかっていた。
はたけさん達が引っ越してきた時は随分と大掛かりだった。
庭を畑に変えて、縁台を置き、思わず上でぴょんぴょん跳ねたくなるような大きなスプリングのマットレスが庭側のサッシから運び込まれた。
「新婚さんみたいだねえ」と大家のおばさんが笑っていた。引っ越し屋さんと一緒にはたけさんもうみのさんも行ったり来たりして荷物を運び込んでいた。
夜には蕎麦を持って二人が挨拶に来た。
お母さんは「今時、珍しいわね」と驚いていた。お母さんは最初はにこにこ対応していたのだけど、うみのさんが忍者アカデミーの先生だと聞いて、怖い顔になった。わたしに、あの二人には近づかないようにと釘を刺した。
その時の蕎麦はまだ食べられないまま戸棚の中に入っている。
はたけさんは奥で冷蔵庫の中を覗いていたけれど、「そろそろ買い物に行くか」と呟きながら戻ってきた。
「お裾分け」と言ってわたしに茄子とピーマンを持たせると、戸締まりをして買い物用の袋をぶら下げて玄関から出て行った。
平日の昼間、アパートにいるのはわたしとはたけさんだけだ。
アパートの裏に大家さんが住んでいて、何かあったらそこへ行きなさいとお母さんには言われている。はたけさんの庭に時々、入ることはお母さんには内緒だ。
わたしは鏡の前で、お母さんが頭に結んでくれた赤いリボンを色んな角度から眺めていた。昨夜はお店のお客さんが持ってきてくれたのだと、お母さんは赤いリボンの掛かった箱に入ったケーキをお土産に持って帰ってきた。
白いイチゴののったケーキはお母さんと二人で食べた。箱に掛かっていた幅広のリボンを捨ててしまうのが勿体なくて、わたしはせがんで頭に結んで貰った。
わたしは庭に来たアオにも余った分のリボンを巻いてあげた。
顎の下を通して耳の前にちょこんとリボン結びにした。アオは耳をいくどかぱたぱたと振ったけれど、されるがままでわたしの腕の中にだらりと抱き上げられた。お揃いが嬉しくてわたしはアオをぶら下げたまま庭を歩き回った。
はたけさんが、いつものように庭に出てきた。わたしとアオを認めると、何とも言えない顔をして吹き出した。
何が可笑しいのだろう。
わたしが呆気にとられた顔をしていると、はたけさんは首を振りながら顔を上げ、また笑った。
アオがリボンを巻かれて神妙な顔をしているのが可笑しいと言う。
「かして」と、はたけさんは垣根越しにアオに手を伸ばして抱き取った。アオの首の後ろにリボン結びがくるように結び直して返してくれた。アオはお金持ちの猫みたいになった。
はたけさんは水撒きに出てきたらしい。
片手に持ったホースの口を絞り、雨のように庭の畑に水を振らせるのを垣根のこちら側からわたしは眺めた。水が飛んでくると思ったのか、アオが腕の中で身を捩った。
ぬるん、とした感触を残してアオが飛び降りる。
いつもされるがまま、だらりとぶら下がっているのに水だけは苦手らしく、猫らしい動きで逃げてゆく。
わたしはカカシさんがホースの雨で虹を作るのを見上げていた。
はたけさんは、今日は朝からずっと縁台で逆立ちをして本を読んでいる。
背中も脚も真っ直ぐに上に伸ばして、片手で柱に立てかけた本のページを捲っている。朝からずっとだから何時間も逆立ちしているのだ。
もと忍者だからなのかなとわたしは思った。
忍者の人達は里の中を暗い紺色の服に枯れ草色のごつごつしたベストを着て歩いていたり、時々は塀の上を走ったり、屋根の上を跳んでいたりする。
もの凄いスピードでびゅんびゅんツバメみたいに跳んでゆくのだ。
わたしも里の人達も、ぽかんと口を開けてそれを眺める。
空を鳥が飛んでゆくのと同じように見慣れた光景なのだけれど、鳥を見上げるようにわたし達は忍者の人達を見上げる。
アオが「にゃーん」と鳴いて、逆立ちしているはたけさんの腕に顔をぐいぐい押しつけた。はたけさんは邪魔そうに片手でアオを押し退ける。アオは構ってもらえて嬉しいのか、尚更にはたけさんの腕に頭を押しつけ、腕の間、はたけさんの逆さまになった顔の下を潜り抜けて、ピンッと立てた尻尾ではたけさんの顔を叩く。
嫌そうに顔を背けるはたけさんがおかしくてわたしは笑った。
私ははたけさんの家の縁台によじ登ってポッキンキャンディー(そう、うちでは呼んでいる。凍らせて半分に折って食べる細長いアイスキャンディーだ)を、ぽきんと折って片方を口に入れた。もう片方をはたけさんに差し出すと、はたけさんは逆立ちしたままで片手を出して受け取ると、器用にそれを銜えた。
その時に見えてしまった。
いつもは前髪で隠れているはたけさんの顔の左側に、大きな傷があった。
わたしはびっくりしたけれど、気づかなかった振りをした。
忍者の人で、体に傷のある人はたくさんいる。
お父さんの腕にも細長くうねった縫い痕があった。
ちゅうっ、と音をさせてポッキンキャンディーを吸った。甘い砂糖水味が口の中に広がる。
はたけさんはしゃりしゃりとキャンディーを囓りながら、逆立ちして本を読んでいる。
はたけさんはもう、ツバメのようには跳ばないのだろうか。