うみのさんは夜遅く帰ってくるので、はたけさんの庭に行っても会うことがない。
時々、夕方、空の色が薄くなってピンクがかってくる頃に帰ってくることもある。そういう時は、わたしはすぐに自分の部屋に帰るようにしている。
はたけさんはもう忍者じゃないからいいけれど、うみのさんは忍者でアカデミーの先生だから、やっぱり関わってはいけないと思う。
はたけさんはわたしが逃げるように自分の家に駆け込むのに不思議そうな顔をするけれど、あまり気にした風もなくうみのさんの方を向いてしまう。
はたけさんはうみのさんが帰ってくると、それまでしていた事なんて忘れてしまったみたいにあっさりやめてしまう。
まるで、ぜんぶがうみのさんが帰ってくるまでの暇つぶしみたいだ。
わたしにははたけさんの気持ちがわかる。
わたしも家で時間を潰しながら、ただお母さんが帰ってくるのを待っているからだ。
はたけさんの家の玄関の戸が開く音がすると、わたしはすぐに縁台を飛び降りて、垣根を潜って自分の家へ帰る。
「イルカ先生」
はたけさんの嬉しそうな声が後ろから聞こえる。
垣根越しに振り返ってみると、硝子サッシの向こうから顔を出したうみのさんに、はたけさんが「おかえりなさい」と言っているところだった。
うみのさんは穏やかな声で「ただいま」と応える。
やさしい顔をした人だなあと思った。
庭の塀には板と板の隙間が少しだけ空いているところがあって、わたしは時々そこから表の往来を覗いてみる。
いつもアオが現れる塀だ。
向こう側はアパートの裏の狭い小路で、広い庭を挟んで大家さんの家がある。大家さんの家の庭には金木犀の垣根があって、塀の隙間からは油っぽい濃い緑色の葉っぱが繁っているのと、白茶けた乾いた道がほんの少し見える。
見知っている場所なのに、塀の隙間から覗くとぜんぜん別の場所のように思える。塀の間を潜り抜けたらぜんぜん別の場所に繋がってるんじゃないかしらと考えるとわたしは怖いような不思議な気持ちになる。
このまま、ひとりで誰も知らない場所へ行ってしまったらさみしいだろうか。でも、不思議と平気のような気もするのだ。さみしいという気持ちさえ置き去りにして、行ってしまえるような気がする。
背伸びをしてじいっと塀の隙間を覗き込んでいると、向こうの庭からはたけさんが呼んだ。
「買い物、一緒に行ってみる?」
わたしは振り返って、垣根の向こうに突っ立っているはたけさんを見た。
ん?とはたけさんは首を傾げた。
塀の隙間がわたしの髪の先をひいているような気がする。
こわい。
うっとりするほど。
「おいで」
はたけさんの声がそれを断ち切った。
わたしは大きくジャンプするように、はたけさんに駆け寄った。
はたけさんは細長い背中を丸めてのそりと塀に背を向けた。
ちくちくする垣根を潜り抜けてはたけさんの庭に入る。生い茂った野菜の苗から独特の青くさい匂いがする。
はたけさんは雪駄をひっかけて、庭の角の裏木戸を開いた。
わたしははたけさんの後について、裏木戸から塀の向こう側へ頭を出した。
そこは見慣れた、アパートの裏の小路だった。
大家さんの庭の上に、青い空が広がっていた。
はたけさんの少し後ろから乾いた道を歩いた。アパートのある小路から表通りに出ると、急に世界が眩しくなった。お母さん以外の人と外を歩くのはすごく久しぶりだ。
わたしはきょろきょろと周囲を見回した。わたしの住んでいるアパートは里の外れにあるので、表通りもお店はまばらだ。
十分くらい歩くと商店街の端っこに出る。昼日中の白い道を、ぱらぱらと人が歩いている。はたけさんはのらくら人を避けながら、ひょろひょろ歩く。わたしは早足でその後を追う。ぶらぶらはたけさんの右手で籐の買い物籠が揺れる。全然そうは見えないのに、はたけさんは足がはやい。
「木の葉西商店街」と書かれた看板の下を通って七軒目の魚屋さんの前ではたけさんは足を止めた。
平たい冷蔵庫の中にうろこを光らせた魚がいっぱい並んでいる。
半透明のくず餅みたいな膜の中に青黒い目がたくさん、こちらを見上げている。
はたけさんは買い物籠を持ったまま腕組みして、冷蔵庫のガラス戸を覗き込んだ。
「鮎か…イルカ先生、好きそうだなあ…」
「塩焼きか天ぷらにするとおいしいよ!」
魚屋のおじさんが大きな声で屈み込んでいるはたけさんに声を掛けた。
「天ぷらはイヤだなあ…」
はたけさんは真剣に硝子ケースを覗いている。
「じゃあ、塩焼きにしなよ。鮎は今時分が一番おいしいからね」
うーん、でもちっさいなあ。とはたけさんは呟いた。
はたけさんがじっと見ているのは黄色い苔の生えたような色の魚だ。他の魚と比べるとちいさい。なのに、値札に書かれた値段はずっと高い。
「喜ぶか、怒るか、どっちだろう。その辺がまだ読めないんだよねえ」
「塩焼きにしてさ、冷酒をきゅっと。旨いよ」
「ううーーーーーん」
わたしは悩むはたけさんを見上げていた。はたけさんの家の夕飯なので、わたしには関係ない。でもあんまり真剣に悩んでいるので、わたしもいっしょに考えてあげなきゃいけないかしらと思った。
「あれ、おじょうちゃん、日和さんちの子じゃないかい?」
はたけさんの横で考えていると、魚屋のおじさんが急に気がついたみたいに言った。
わたしはぱちくりと、おじさんを見上げた。
「お正月にお母さんと一緒に餅つきに来てただろう?」
今年の初めに町内会でやった餅つきのことを言っているみたいだ。わたしはこくりと頷いた。
「そうだ、そうだ。ノドカちゃんだ」
おじさんは私の名前を呼んで笑った。日焼けした顔に白い歯が覗く。
「ノドカっていうの、この子?」
はたけさんがおじさんに訊いた。
「そうですよ。知らなかったんですか?」
「うん。この子、口きかないから」
はたけさんが言うと、おじさんは、え、と一瞬、驚いた顔を見せてから、困ったように口もむにゅむにゅさせた。
「猫としかしゃべらないんだよね」
はたけさんが言うと、ああ、とおじさんは安心した顔になった。
「恥ずかしいんでしょ。人見知りする子みたいだから」
横に立っているはたけさんがわたしを見下ろした。わたしもはたけさんを見上げた。
そうなの?とはたけさんの目が訊いている。わたしは首を傾げた。
「お隣に住んでてね。俺の留守番仲間なのよ」
はたけさんは顔をまっすぐに戻して、おじさんに言った。
はたけさんは鮎を二尾と、鯵を二尾買って帰った。
ノドカは何にも買わないの?とはたけさんが、わたしの名前を言ったのでびっくりした。
わたしはお金を持っていないし、買い物はお母さんがして来るから何も買わなかった。
イサキさんは一生懸命、魚屋さんをやっている人だ。
ということが、はたけさんと通っているうちにわかってきた。
「へい、らっしゃい!」
と、いつものように挨拶したあとで、すこしだけ照れたような顔をする。
今のは魚屋っぽかったな、と自分で思っているみたいだ。
はたけさんは可笑しそうに目を細める。
わたしも真似して目を細めた。
「いやだなあ、なんだか親子みたいですよ」
イサキさんは自分が笑われたことがわかるのだろう、恥ずかしそうに首を縮めた。
「え?親子に見える?」
はたけさんは目を丸くする。
わたしははたけさんを見上げた。
はたけさんは髪が白いし、目の色も鈍い灰色だ。肌の色も白くって、わたしとはぜんぜん似てない。なにより、わたしのお父さんとぜんぜん似ていない。
見えないよ。
わたしは心の中で言った。
はたけさんはぼうっとしたような目をして、「黒髪の子供かぁ…」と、小さな声で言った。
その日は、はたけさんはちいさい鰯をたくさん買った。
アパートの裏木戸を潜って、はたけさんの庭に帰った。
はたけさんはわたしに鰯の入った袋を持たせると、「ちょっと待ってて」と部屋の中へ入っていった。
しばらくして、まな板とボールと包丁を持って出てきた。
「お母さんが働いているんだから、ノドカも料理くらい作んないとだめだよ」
そう言って、はたけさんは袋の中の小鰯をボールにあけて、わたしに寄越した。
「そこの水道で洗って、うろこを落として」
わたしは言われるままに、縁台の横の水場で鰯を洗った。ボールの中でじゃぶじゃぶかきまぜていたら尖った胸びれが手に刺さって、びっくりした。痛い。
わたしは手を水から出して、ひれの刺さった指を口にくわえた。血の味がする。
「刺したの?」
はたけさんが訊くので頷いた。
「気をつけなよ」
かして、と言ってはたけさんは自分で鰯を洗い始めた。
一匹いっぴき、掴んで爪の先で鱗をこそいでゆく。
うろこを水で流して、水を切ると、はたけさんは鰯をまな板の上に載せた。
はたけさんが持ってきたうすい刃の銀色の包丁は、うちでお母さんが使っている包丁とは形が違った。細長い葉っぱみたいな形をしている。
はたけさんが鰯のエラの下に刃を入れると、スッと身が骨から剥がれてゆく。小骨を断つ、ぽきぽきという音が聞こえた。
「ノドカは生姜をすって」
はたけさんが皿と一緒に盆に載せてきたおろし金と、茶色い生姜のかたまりを顎でさした。わたしははたけさんが鰯をおろすのを横目に、生姜を小皿の上で擦った。
はたけさんはあっという間に、鰯を捌いてお刺身の山を皿の上に作った。
生姜をおろしたお皿に醤油を差して、はたけさんは鰯を一切れ指でつまむと、そこへひたしてぺろりと食べた。
「ん。うまい」
一つ、頷くと、はたけさんはまた部屋の奥へ引っ込んだ。
箸を二膳、持って帰ってきた。
「ノドカも食べなさいよ」
箸をわたされて、わたしも一緒にお刺身を食べた。ご飯もなしにお刺身だけ食べるなんて変な気がした。
はたけさんとお刺身を食べていると、アオが庭の奥の茂みからやってきて、甘ったれた声で「にゃああん」と鳴いた。お刺身を一切れ投げると、アオはそれを庭の隅へくわえて走っていき、かふかふと食べ始めた。
この頃、お昼ご飯をはたけさんと一緒に食べるようになった。
はたけさんは庭でとれた野菜で色々なおかずを作ってくれる。
わたしがお母さんが作っておいてくれたお昼ご飯を、はたけさんの縁台まで持っていくと、ふたりで一緒に食べる。
「ノドカのお母さんは料理がうまいね」
はたけさんが言うので、わたしは頷いた。
お母さんの作るおかずは味が染みていておいしい。
はたけさんの作る料理は歯ごたえがあってシャキシャキしている。きゅうりやナスはいいけど、セロリやピーマンは生の味がそのままして、あんまり食べたくない。わたしがなるべくよけて食べていると、はたけさんは「好き嫌いはダメだよ」と言う。
はたけさんはにんじんとかネギとか、わたしが嫌いな野菜ばっかり好きみたいだ。
今日は雨が降っていて、すこしだけ寒い。
わたし達は縁台の上でカーテンみたいに軒の向こう側を覆っている雨を見ながらご飯を食べた。
アオはわたし達から離れた所に座って、濡れた体をせっせと舐めている。
はたけさんが立ち上がって、サッシを開けて部屋の中へ入っていった。しょうゆを忘れたと言った。
わたしは開いたガラス戸からはたけさんの家の中を覗き込んだ。
はたけさんはわたしを家の中には入れない。
そう言われたわけではないけれど、なんとなく入ってはいけないのだとわかる。
雨の日の家の中は薄暗くて、ひとの家の匂いがした。
向こう側の襖が少し開いていて、くしゃくしゃのベッドが見えた。
大人の人の部屋だと思った。
前に住んでいた家のお父さんとお母さんの寝室も、あんな感じだった。
こどもは入ってはいけない部屋。でも時々、怖い夢を見たり、寒くて眠れない夜はお父さんとお母さんの部屋に行って、布団に入れてもらって一緒に眠った。長い冷たい廊下を裸足で歩いて、そっと襖を開くと、必ず、お父さんが先に顔を上げた。お母さんは「お父さんは、誰か来るとすぐに起きちゃうのよ」と言って、わたしと二人の部屋で寝起きするようにしようかと言ったけど、お父さんは「いいよ」と言って、いつもわたしを二人の布団の間に入れてくれた。
今は、このアパートにお母さんと二人で同じ部屋に寝るから、寒いとすぐにお母さんの布団に入り込める。お母さんはあったかくて、わたしの冷たい足もすぐにあたたまる。
はたけさんのうちの襖の向こうに見えるのは大きなベッドがひとつだから、はたけさんとうみのさんも一緒に寝ているのだろう。きっと毎晩、あたったかくてすぐに眠れるだろう。
そんな風に考えていたら、おしょうゆを持ってはたけさんが戻ってきて、わたしの視界をふさぐように、サッシをぴしゃんと閉めてしまった。