そろそろ十時になるのに、今朝ははたけさんは庭に出てこない。
わたしはアオを抱っこして自分のうちの窓に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。
うちにははたけさんのうちみたいな縁台がないので、サッシを開けるとすぐにコンクリの地面があって、そのむこうに庭がある。この頃はだいぶ暑くなってきたけれど、お昼前はまだそれほどでもない。
腕の中のアオのお腹の柔らかい毛が腕にあたってくすぐったい。
今日ははたけさんは水撒きをしないのだろうか。
わたしは耳をすまして、お隣の音を聞こうとしたけど、なんにも聞こえない。
お母さんはいつものように、もう仕事に出かけてしまった。はたけさんがいないとつまらないなあ、と思った。
そしたら、いきなり玄関の呼び鈴が鳴った。
わたしはびっくりして、自分のうちの玄関を振り返った。
ドアの外で、誰かがうちの呼び鈴のボタンを押している。
「誰かが来ても、ドアを開けちゃだめよ」とお母さんに言われていたから、わたしは息をひそめてじっとしていた。
何度か、ジージーと呼び鈴が鳴った。それから外で、人の声がした。
「留守なのかしら」
女の人の声が言った。
「そんなはずはないだろう。母親は仕事に行っているが、子供はいるはずだ」
年取った男の人の声も聞こえた。
どんどん、とドアが叩かれて、男の人の声がわたしの名前を呼んだ。
「ノドカ、ノドカ」
どんどん、とドアが叩かれる。わたしが答えないでいると、ドアノブががちゃがちゃ回される。
わたしは窓から庭にそうっと降りた。
足音を立てないようにそうっと、アオをしっかり抱いて、垣根をくぐって、はたけさんの庭へ出た。はたけさんの庭の土はやわらかくて、つま先が少しだけしずみこむ。
縁台までたどりつき、アオを上にのせると、わたしもよじ登った。
わたしのうちの開いたサッシから、ドアががちゃがちゃいう音がした。
わたしははたけさんの家の窓をたたいた。
窓の向こうはカーテンが引かれたままで、こつこつ、最初は小さくたたいたけど、はたけさんが出てきてくれないので、てのひらでばんばん窓をゆらした。
はたけさん、開けて。おねがいだから、開けて。
わたしの家の中からドアの開く音がする。
はたけさん!
わたしは声を出さずに呼んだ。
カーテンの向こうから、大きな男の人の手がのぞいて、サッシの鍵をかちゃりと回した。
カラカラとガラス戸が開いて、わたしは夢中でカーテンをめくった。
そこにいたのは、はたけさんじゃなかった。
うみのさんだった。
わたしははっと息を吸い込んだまま固まってしまった。
「ノドカ!」
垣根の向こうから男の人の声が呼んだ。
わたしのうちの中に入ってきたんだ。
足音が玄関から、こちらへ近づいてくるのがわかった。
−−−たすけて。
わたしはうみのさんを見上げた。
わたしの気持ちが通じたみたいに、うみのさんは脇によけるとカーテンをまくってくれた。
わたしはうみのさんの足許から、はたけさんとうみのさんの家の中へもぐりこんだ。
薄暗い部屋の中を、四つん這いで音を立てないように進む。部屋の真ん中に置かれた卓袱台のかげに入って丸くなった。
うみのさんは少しだけ開いたカーテンの隙間をさえぎるように立っている。
ノドカ、ノドカ、と男の人と女の人の声が呼ぶ。
「おい、君」
窓の外から声がした。わたしは卓袱台のかげでぎゅっと丸まった。
「小さい女の子を見なかったか?」
声はすぐそこからしているような気がした。胸の中で心臓が痛いくらいドキドキした。うみのさん、お願い。わたしがここにいるって言わないで。わたしは膝小僧の中に頭を突っ込んで祈った。
「いいえ」
うみのさんのはっきりした声が言った。
「だが、誰かが窓を叩いていなかったか?」
「猫ですよ」
うみのさんは身を屈めて、窓の外へ手を伸ばした。わたしは卓袱台の足の間からそれを見ていた。
「近所の野良猫なんですが、うちに餌だけ貰いに来るんです」
アオがまだ縁台の上にいるんだ。うみのさんの手の先に、灰色のシマの尻尾が絡むのが見えた。
しばらく、間があった。
「しかし、子供はここを抜けていったようだ」
男の人が言った。
「足跡が残ってる」
あしあと!
わたしはまた顔を膝に埋めた。
昨日、雨が降ったから。はたけさんの庭の土は引っ越してきた時に新しく入れた土だから、まだやわらかくて、足あとがくっきりと残ってしまう。
「隣の子はこのよくうちの庭を通って、そこの木戸から表へ出ているみたいですからね」
うみのさんが答えて言う。
でも、今、地面にのこっている足あとは、はたけさんのうちの縁台で途切れているはずだ。
「わたしはあの子の保護者なんだ。少し探させてもらうよ」
外にいる人達もそれに気がついているのだろう。そう言って、垣根の枝をガサガサいわせる音が聞こえてきた。
こっちへ来る。
どうしよう、見つかってしまう。
−−−お母さん。
わたしはそろそろと顔を上げた。あの人達は庭にいる。いまのうちに、はたけさんの家の玄関から外に出ようか。そして、お母さんの働いているお店まで走っていこうか。このままここにいたら捕まってしまう。
−−−どうしよう。
わたしはゆっくりと立ち上がった。玄関からこっそり出て、走って走って、お母さんのところまで行けば−−−
「止まりなさい!」
うみのさんの声にびくっとわたしは動きを止めた。
「ここは忍の家です。それ以上踏み込むつもりなら、相応の覚悟をして頂きます」
ぴんと張った声でうみのさんが言った。
「あなた方も、一般人には見えません」
おそるおそる振り返ると、うみのさんは真っ直ぐに立って、窓の外へ向いている。うみのさんが言葉を発するたび、頭の上で縛った髪がゆらゆらと揺れる。
「わしらは別に、あんたの家を荒らそうというわけじゃない。ただ子供を探しているだけなんだ」
「わたし達はあの子の親類なんですよ」
窓の外で、男の人と女の人はあれこれとうみのさんに言ったけれど、うみのさんは頑として聞き入れなかった。
どうしてもうみのさんが敷地内へ入る事を許さなかったので、外の人達は「仕方がない。今日のところは帰ろう」と、引き上げていった。
わたしは、ほう、と息を吐いて、強張っていた肩から力を抜いた。
うみのさんがからからと戸を閉めて、振り返った。
「もう大丈夫」
にこりと笑うと、うみのさんは優しい顔になった。
「そこに座りなさい」とうみのさんが言ったので、わたしは部屋の真ん中の卓袱台の横に敷かれた座布団の上に座った。
うみのさんは台所へ行って、冷蔵庫を開けるとコップにりんごのジュースを注いで持ってきて、わたしの前においた。
「どうぞ」
うみのさんはやさしく言った。
わたしは正座して四角くなったまま、両手でりんごジュースのコップを持った。うみのさんをそっとうかがうと、にこにことわたしを見ていた。
わたしはりんごジュースを一口、口にいれた。
あまくてすっぱいりんごの匂いが鼻の奥と胸の奥に広がった。
ごくごく飲んだ。
一生懸命、ぜんぶ飲みきってしまうと、うみのさんが目を丸くした。肩で息を吐くわたしを見て、うみのさんは少しだけ困ったように眉を下げた。
「無理にぜんぶ飲まなくてもいいんだよ」
わたしはうみのさんを見上げて、ああ…と口を開いたり閉じたりした。自分が間違ってしまったと思ったからだ。
うみのさんは笑って、「カカシさんから聞いてるよ。いつもカカシさんと遊んでくれてるんだって?」と言った。
カカシさんというのは、はたけさんのことだ。わたしはこくりとうなずいた。
うみのさんはクスクスと笑っている。
うみのさんはもう一度、りんごジュースを注いでくれた。
「ゆっくり飲みなさい」
うみのさんに言われて、わたしはうなずいた。
うみのさんが立ち上がってカーテンを開けると、部屋は明るくなった。白いレースのカーテンを透かして、うみのさんは窓の外を確認してからまた戻ってきた。
「しばらく、ここにいていいよ」
散らかってるけど、と言いながら、うみのさんは床に落ちている丸まったタオルを拾い上げた。脱ぎっぱなしの服も拾って、奥のお風呂場の脱衣所にある洗濯機に持っていった。しばらくすると水を流す音が聞こえてきて、洗濯機が回り始める音がした。うみのさんは洗濯をはじめたらしい。
わたしは座布団に正座して、部屋の中を見回した。
壁沿いに本棚があって、床にまで本がはみ出している。ひもでくくった巻物が何本か、本棚の一番下の棚に突っ込んである。卓袱台の上にも開いたページを下にして、本が一冊置いてあった。オレンジ色の表紙の、ずいぶんと読み古した感じの本だった。
「あの人、また出しっぱなしにして」
ひょいと視界に手が伸びて、戻ってきたうみのさんがその本を掴んだ。
おんなじシリーズらしい本が本棚の端っこに並んでいて、その空いたところに、うみのさんはその本を差し込んだ。
わたしがいるのにお構いなしで、うみのさんは部屋の片づけをはじめた。
床に落ちているものを拾ってはどんどん棚や引き出しに詰めてゆく。床の上に物がなくなると、今度は掃除機をかけはじめた。
向こうの方で洗濯機がごうんごうんと鳴っていて、すぐ横をごおごおと掃除機が通りすぎてゆく。
「男所帯だから、すぐに散らかっちゃうんだよなあ」
うみのさんが言った。
「カカシさんは料理はするけど、掃除はあんまりしてくれないんだ」
そうなんだ。
うみのさんは掃除機をかけ終わると、腕まくりをしながら大股で台所へ入っていった。
「お昼ご飯、食べていくだろう?お好み焼きでいいかな?」
そう訊かれて、わたしはこくこく頷いた。
うみのさんはテキパキとものすごくよく動く。のったりしたはたけさんとは大違いだ。
流しの下の戸棚から鉄板とコンロを持ってきて、卓袱台の上にセットすると、こんどは冷蔵庫の中から新聞紙にくるんだキャベツを一玉、取り出した。
「キャベツとネギ、いっぱい入れような」
ネギがいっぱいと聞いて、わたしはちょっと気が重くなった。
うみのさんがざくざくとキャベツを刻みはじめると、玄関のドアが外から開かれた。
「ただいま」
と言って、はたけさんが帰ってきた。
「おかえりなさい」と答えたうみのさんに、はたけさんは嬉しそうに笑った。それからはたけさんは靴を脱いで、こちらに目を向けた。
わたしが卓袱台の前に座っているのを見つけて、びっくりした顔をした。
「イ、イルカ先生が、俺のいない間に女を連れ込んで−−−」
最後まで言わないうちに、うみのさんがペチンとはたけさんの背中を叩いた。
「ほらほら、手を洗って。もうすぐご飯ですよ」
うみのさんに追い立てられて、はたけさんは洗面所へ向かった。手を洗って、がらがらぺっぺっとうがいをする音が聞こえた。
それから、のっそりと居間へ来て、わたしの向かい側に座った。
「イルカ先生、俺にもりんごジュース」
はたけさんに言われて、うみのさんは仰け反って、台所から顔を覗かせた。
「りんごジュース?野菜ジュースじゃなくて?」
うみのさんはりんごジュースを入れたコップを持ってきて、はたけさんの前に置くと、はたけさんの額に手を宛てて、顔を覗き込んだ。
「頭、痛いんですか?疲れた?」
心配そうな声でいう。
はたけさんは、ふるっと頭を振って「平気です」と言った。
「ちょっと甘い物が欲しくなっただけです」
うみのさんは、それでも心配そうにはたけさんの顔を見ている。
「検査はどうでした?」
「いつもどおりです。変化無し」
はたけさんは手元に置いた紙袋をがさがさいわせた。
「これも気休めみたいなもんですよ。別にどこも悪くないです」
だから大丈夫、とはたけさんは目を細めた。
「お昼はなんですか?お好み焼き?俺、イカ玉食いたいな」
キャベツは俺が刻みます。もう刻んじゃったの?イルカ先生、おおざっぱだからなあ。ネギも細く切った方がよく火が通るし、こないだみたいなぶつ切りは勘弁して下さいよ−−−はたけさんはりんごジュースを飲みながら、うみのさんに色々と注文をつけはじめた。うみのさんは、首を竦めて台所へ退散した。
はたけさんが持って帰ってきた白い紙袋を見ると、青いインキで「木の葉病院」と書かれていた。
うみのさんが鉄板をよく熱して油をひいた。
うみのさんのうちのお好み焼きを焼く鉄板は四角くくて縁のない平たい真っ黒なフライパンみたいなので、小さな丸いガスコンロの上で熱されて、もうもうと黒煙をあげている。
そこへ、うみのさんはネギをばらばらと撒いた。
最初に言ったとおり、うみのさんはネギをたくさん切った。わたしはネギがこんなにいっぱいでは食べられないと思ったのだけど、熱した鉄板の上でこんがりと焼けていくネギからはとてもおいしそうな匂いがしてきた。
うみのさんは焼けたネギの上からお好み焼きのタネを流し込んだ。ジュウウと鉄板が鳴いて、香ばしい匂いが広がる。
「そろそろホットプレート買いましょうか」
はたけさんが言った。
「支給品をこんな事に使ってるなんてばれたら叱られるでしょ」
「みんなやってますよ。ガスボンベは自前なんだから、問題ありません。このコンロの方が火力も強いし、いろんな料理に使えますよ」
「ーーーなんだか野営してるみたいな気分だなあ」
片側半分焼けた生地の上にうみのさんはイカの切り身をのっけた。
それからうみのさんは真剣な顔で、フライ返しと木のへらを両手に構えた。そろそろと、お好み焼きの下にフライ返しをもぐらせてゆく。
「イルカ先生、がんばって」
はたけさんが声援を送ると、うみのさんは頷いて「えいや!」と気合いと同時にお好み焼きをひっくり返した。
お好み焼きは少し横にすべって、生の生地が白くスライディングの跡を引いた。
うみのさんはそれを木のへらでこそいで、お好み焼きの下にしまいこんだ。ちょいちょいと、お好み焼きを鉄板の真ん中に戻すと、元通りの丸いお好み焼きになった。
「うまい、うまい」
はたけさんが喜んで言う。ふん、とうみのさんは鼻息を吐いてわたしを見た。にっこり笑う。つられてわたしも笑う。
じゅうじゅうと美味しそうな匂いがする。
こんな風に人と一緒にごはんを食べるのは久しぶりかもしれない。
いつも一人か、お母さんと二人、この頃ははたけさんと二人でお昼を食べているけれど、うみのさんが一緒なだけでとてもにぎやかに思える。
うみのさんは木べらでお好み焼きをぱんぱん叩いた。こんがりきつね色の上にソースを垂らし、かつお節をふりかける。かつお節が生きているみたいにふらふら踊るのを見て、また笑い合った。
青のりをまぶしたら出来上がりだ。
「マヨネーズ、かけるか?」
皿に取り分けて貰ったお好み焼きを食べようとしたら、うみのさんがちゃぶ台の向こうから腕を伸ばしてマヨネーズのチューブを渡してくれた。中ぶたの星形の穴からねちりとマヨネーズを皿に絞り出す。
「やっぱりお好み焼きにはマヨネーズだよな」
うみのさんが言うと、はたけさんが嫌そうな顔をして「邪道…」と呟いた。
「カカシさんは好みがうるさいから」
うみのさんは大きな口でがぶりとお好み焼きに食いついた。
「ノドカだって、ネギが嫌いですよ」
はたけさんが言ったので、わたしはお好み焼きを口に入れたまま思わず背筋を伸ばした。
「ネギ、嫌いだったのか?」
うみのさんが目を見開いてわたしを見た。わたしは答えに困ってしまう。ネギは嫌いだけど、うみのさんの焼いてくれたネギのたくさん入ったお好み焼きは美味しいと思う。
答えられないでうろうろ目を泳がせていたら、うみのさんは
「でも、こうやって食べると美味しいだろう?」
と聞いてくれた。
わたしはこくこく頷いた。
うみのさんはにっこりした。
うみのさんは食べながら次々と鉄板の上でお好み焼きを焼いた。三人で四枚のお好み焼きを食べた。お昼だけでおなかがぽんぽんになった。
お昼を食べ終わった後、うみのさんが鉄板を仕舞いに台所へ行ったので、わたしも自分の使ったお皿とおはしを持ってうみのさんの後につづいた。
背伸びして流しの中に食器をつけると、うみのさんはにかっと笑った。
「えらいな、自分の分は自分でちゃんと片づけるんだ」
ほめられてわたしは恥ずかしくなってうつむいた。
「ノドカのお母さんはしっかりした人なんだな」
そう、うみのさんが言ったので、わたしは嬉しかった。
うみのさんの後について部屋にもどると、はたけさんは卓袱台の横でころがっていた。
うつぶせで、ひじをついて、足をぶらぶらさせている。
アオが寝そべってぱたん、ぱたんとしっぽをふっている時とよく似ている。
うみのさんは、はたけさんの食器も流しに持っていって洗い始めた。
わたしは卓袱台の横に座って、部屋の中を見回したり、はたけさんの様子をうかがった。はたけさんは体を伸ばすと、さっきうみのさんが本棚にしまったオレンジ色の本を引っ張り出して読み始めた。
わたしは窓の外を見た。
もう、あの人達はいなくなっただろうか。また戻ってきていたりしないだろうか。
窓にそろそろと近づいて、レースのカーテンを少しだけ捲って外を見てみた。
はたけさんの庭には誰もいない。
わたしの家はどうだろう。
見えないだろうかと頭を窓にくっつけていたら、上の方でかしん、と鍵を外す音がして、からからと窓が開いた。うみのさんが後ろから、わたしの頭越しに窓を開けたのだ。
「誰もいないよ」
うみのさんは左右を見渡して言った。
にゃあああん、と声がして、縁台にアオが飛び乗ってきた。わたしが手を伸ばすとアオは体を擦りつけてきた。わたしはアオを抱っこした。
うみのさんも身を屈めて、アオを撫でた。
「おっきい猫だなあ」
うみのさんがびっくりしたみたいに言った。
アオの柔らかいお腹が腕の中でむにゅむにゅして気持ちいい。
その日はお母さんが帰ってくるまで、はたけさんとうみのさんの家にいた。
夜、布団の中で暗闇の中をじっと見ていると、どこまでも奥へ奥へと空間があるような気がする。そこに天井があって、壁があると分かっているのだけど、何もないつもりになって目を凝らすと、底のない暗がりを覗き込んでいるみたいな気がする。
しばらくそうやって目を凝らしていると、今度は真っ黒な壁が目の前にあるような気もしてくる。
どこまでも何もない暗がりが続いているのかもしれない。すぐ目の前は行き止まりなのかもしれない。
隣に寝ているはずのお母さんも、いないみたいな気がしてくる。
息を詰めて、目を見開いている。なんにも見えない。
寝そべっているのが自分の家の暖かい布団の中なのか、知らないどこかなのか分からなくなってくる。
突然、犬の吠える声が聞こえて、わたしは我に返った。
だんだん暗さに目が慣れて、見慣れた部屋が見えてくる。やっぱり、ここは自分の家のお母さんと私の部屋で、隣にはお母さんが眠っている。もぞもぞと寝返りを打って、私は声のする方へ目をやった。
わんわん!と勢いよく犬が吠えている。
わんわん、わんわん、壁の向こうのお隣から聞こえてくるみたいだ。
「やめなさい!ちょっと…!」
うみのさんの声がした。
やっぱり、お隣のはたけさんの家から聞こえてくるらしい。
「やめなさい!やめなさいって!ばかッ!」
ガタガタ、バタン、と音がして、うみのさんが何か言っている。
どうしたんだろう。
今日の昼間は見なかったけれど、今まで見た事もなかったけど、はたけさんの家では犬を飼っているのだろうか。
うみのさんが犬に吠え掛かられているみたい。小声で叱っている声も聞こえる。
はたけさんは助けてあげないのだろうか。
心配になったけど、お母さんは眠っているし、もう夜中だし、どうしよう。
暫くすると静かになった。
それからもっと時間が経って、わたしがうとうとしはじめた頃。
お隣から小さく、犬の声が聞こえてきた。
ふん、ふん、くぅん、と甘えた声を上げている。
ああ、かまってほしかったんだ。
柔らかく甘ったるい、その声を聞いていると安心して、わたしは眠ってしまった。