アオは自分のしっぽが大好きだ。
 今も縁台の上に寝っ転がって、ぱたぱたと尻尾を振って、自分で自分のしっぽを捕まえては噛みついたりして遊んでいる。
 わたしにしっぽはついていないから、それがどんな気持ちなのか分からない。
 今日のはたけさんも同じだ。
 縁台の上に横向きに転がって、オレンジ色の本を読みながらにまにま笑っている。
 わたしがいることなんて気がついていないみたい。
 アオもはたけさんも、一人で楽しそう。
 ちょっと呆れてしまう。
 わたしは縁台の端っこに座って、転がっているはたけさん越しにはたけさんの家の窓を覗き込んだ。
 昨夜の犬はどこにいるんだろう。
 うみのさんに構って欲しがって吠えていた犬。
 きっと甘ったれにちがいない。あんなに吠えつくなんて、ちょっとわがままでやんちゃかもしれない。
 なのに、人がいる時に出てこないのはなんでなんだろう。人見知りするのだろうか。はたけさんには懐いていないのかもしれない。うみのさんの前にしか出てこないのだろうか。
 うみのさんは大変だなあと思った。
 今日は曇っているけれど、暖かい。雨の日が続いていたけど、もうじき晴れてきそうだ。お日様が出たらきっと暑いくらいだろう。
 お昼が近くなって、やっとはたけさんは起きあがった。
 お昼ご飯にそうめんを茹でて、庭からもいできた胡瓜に味噌を付け、わたしも一緒にかじった。
 はたけさんはいつもにもまして、ぼーっとしている。
 ご飯を食べるとまた寝転がってしまった。なんだか怠そう。
 はたけさんが起きないので、わたしは庭に降りてはたけさんの植えた野菜の苗を見て回った。
 トマトの苗にアブラムシがくっついていて、茎から汁を吸っていた。
 アブラムシがつくと、植物は枯れてしまうからよくないなと思った。
 テントウムシはアブラムシを食べるから、テントウムシを放すと良いんだと、お祖父さんが言っていた。赤くて黒い星が七つついているテントウムシは害虫を食べてくれるけど、星の数が二十八のやつは逆に植物の葉っぱを食べてしまうからよくないのだ。
 お祖父さんの庭はもっと広くて、大きな木が植えられていた。
 お父さんとお母さんに連れられてお祖父さんの家に行ったことを思いだした。
 わたしはナナホシテントウがいないかなと思って、庭の隅の雑草の茂みを覗き込んだ。黒い細長い体の羽虫や、豆粒みたいなコガネムシがいた。しゃがみ込んで茂みの中を探していると黒い背中に赤い星が二つついたテントウムシがいた。わたしはナナホシテントウの方が赤くて好きだけど、フタツボシテントウもアブラムシを食べると聞いたから、それを捕まえてトマトの茎にくっつけた。
 アブラムシを食べないかなと思ったのに、テントウムシは急に違う場所につれてこられてびっくりしたらしく、アブラムシの背中の上を行ったり来たりするばかりでなかなか食べない。
 どんな風に食べるのかみたいのに。
 じっと座っていたけどテントウムシはウロウロするばかりなので、つまらなくてわたしはまた縁台に登った。お日様が出てきて暑くなってきた。日陰に入るとほっとする。
 はたけさんは本を読むのをやめて、体を丸めて頭を抱えていた。
 寝ているのかなと思ったのだけど、頭を押さえている手に力が入って震えているのに気がついた。灰色の髪を掻きむしるようにした指先が白くなっている。
 様子がおかしい。



 わたしははたけさんの顔を覗き込んだ。白い肌に汗が滲んで青白くなっている。
 アオも気がついて、はたけさんに近寄ってきて心配そうにうろうろし始めた。
 アォン、と鳴いて、アオがはたけさんの血の気の失せた頬に鼻先をくっつけると、はたけさんは小さく唸った。
 とても苦しそうな押し殺した声。
「ノドカ」
 低く、はたけさんはわたしを呼んだ。
「悪いけど、氷持ってきてくれる?」
 左眼を押さえて、はたけさんは言った。
 笑ってみせようとしたみたいだったけど、顔を顰めたようにしか見えなかった。
 わたしはすぐに縁台を飛び降りて、自分の家に走った。
 掃き出し窓から中へ入り、台所の冷蔵庫の上の扉を開けた。製氷皿を取り出して、ビニール袋に氷を詰めて、水も少し入れた。
 私が氷の入った袋を渡すと、はたけさんはそれを左眼にあてて深く息を吐いた。
 少しは楽になったのだろうか。
 はたけさんは左眼に氷を宛て、もう片方の手できつく頭を押さえている。
 毛布を掛けてあげた方がいいだろうか。でも冷やした方がいいのかもしれない。
 どうしたらいいのか分からなくて、わたしは色々、迷いながらはたけさんのそばに座っていた。
 考えているうちに、昨日、うみのさんが言った事を思い出した。
 りんごジュースが欲しいとはたけさんが言ったら、うみのさんは心配そうに「頭痛い?」と聞いていた。
 はたけさんは頭が痛い時、りんごジュースが欲しくなるんだ。
 自分の家にりんごジュースはなかったから、わたしははたけさんの家に入った。どこかに犬が隠れていて、急に吠え掛かられたりするんじゃないかとおっかなびっくりで足を踏み入れたけれど、何も出てはこなかった。
 わたしは昨日うみのさんがしたように、冷蔵庫からりんごジュースを取り出して、流しの横に伏せてあったコップに注いで、はたけさんの所に持っていった。
 寝ているはたけさんの前にりんごジュースを置くと、はたけさんはまた苦しそうに顔を歪めて笑ってみせた。
「ありがとう」
 コップを掴みそっと顔を持ち上げて、はたけさんはりんごジュースを啜った。
 半分くらい飲むと、はたけさんはまた体を横たえた。



 はたけさんは目を閉じ、眉の間に皺を寄せている。
 わたしは自分が病気の時にする事を思い出そうとした。
 お布団に横になって、お母さんが氷枕をしてくれる。ビタミンCが入ってるからとオレンジジュースを飲む。それから、薬。
 −−−薬だ。
 昨日、はたけさんが持っていた紙袋。青い文字で「木の葉病院」と書かれていた。病院でくれるお薬の袋だ。
 わたしはもう一度、はたけさんの家に入った。
 昨日、はたけさんが紙袋を置いた卓袱台の上にはもうなかった。
 茶箪笥の扉を開いてみる。引き出しも開けてみる。メモ帳や短い鉛筆、細々とした物が詰まっていて、薬の袋はない。
 台所の流しの上や食器棚も見たけれど、見つからなかった。上の方の戸棚は手が届かない。
 居間に戻って、左手の襖を開けた。中には大きなベッドがあって、床には服が散らばっていた。うみのさんが着ていた黒い、忍者の人が着ている服と、はたけさんの白いTシャツが一緒になって丸まっている。ベッドの上では毛布が足もとの方へ押しやられている。
 わたしは薄いタオルケットを引っぱって、腕に抱えた。薬は見つからない。
 縁側に戻ると、はたけさんにタオルケットを掛けてみた。
 はたけさんは水色のタオルケットにすっぽりくるまってじっとしている。
 薬が見つからない。
 お医者さんに行ったら貰えるだろうか。でも、はたけさんは自分では歩けそうにない。わたしがはたけさんを運んでいくのは無理だ。わたしははたけさんの傍でうろうろと落ち着かないアオを見た。アオも不安そうにわたしを見上げた。
 私ははたけさんの庭の隅、板塀の端っこにある木戸を見た。
 はたけさんといつも行く商店街の魚屋さんのもっと向こうに、お医者さんの看板があったのを覚えている。じゅうびょうにんが出た時は、お医者さんは黒い大きな鞄を持って家に来てくれる。ずっと前にお祖父さんの家にお医者さんが来ていたことがあった。
 「一人で外に出てはだめよ」という、お母さんの言葉を思い出す。
 水色のかたまりになってしまっているはたけさんを見た。アオが首を傾げる。
 わたしはしゃがんでアオを抱き上げると、庭に降りて靴をはいた。
 それから、ゆっくりと木戸に向かって歩いた。



 錆びた取っ手を回して引くと、ぎきぃいと音をたてて木戸はひらいた。
 アオをしっかり抱いてわたしは外へ出た。
 はたけさんといつも歩く道だ。一人で外へ出てはいけないとお母さんは言ったけど、アオが一緒だからいいだろう。
 向かいの大家さんの庭には垣根に沿って、背の高いムクゲの花がこちらを見下ろしている。うすいピンクで、真ん中だけ赤紫だ。たっぷりと花粉をつけた黄色いおしべが花びらと一緒にゆらゆら揺れる。
 塀に挟まれた細い路地を抜けると、商店街にでた。
 明るい通りには買い物をしている人がちらほらいるだけだ。わたしは周囲を見回してから、商店街へ踏み出した。
 そうしたら急に腕の中でアオがにょろにょろ動き出した。
 しっかり抱きなおそうとするのだけれど、アオの体はくにゃくにゃで腕をすり抜けてしまう。アオはわたしの手から抜け出して、肩をよじ登り、頭の後ろへ回ってしまった。背中を踏み台にされたわたしはアオが落っこちないように自然と前かがみになって顔が上げられない。
 手を肩越しに回して足を捕まえると、アオは引きずり降ろされまいと背中に爪を立ててきた。
 痛い、痛い!
 通り過ぎる人がわたしとアオを見てクスクス笑った。
 笑い事じゃないのに。笑っている場合じゃないのに。早くお医者さんに行かないといけないのに。
 アオの足を掴んだ手を無理矢理引き寄せようとすると、アオはわたしの背中を蹴って地面に降りると、そのままお店とお店の間の狭い隙間に滑り込んで消えてしまった。
 アオ、アオと呼んだけれど出てこない。
 しばらく、建物の間のせまいすき間をのぞき込んでいたけれど、しかたなしにわたしは立ち上がった。まわりを見回してみた。金物屋さん、布屋さん、なにを売っているのか分からないお店、小さい酒屋の錆びたトタンの壁を通り過ぎて、いつも行くイサキさんの魚屋さんのもっと向こうに、こんもりとそこだけ緑の葉っぱが茂っていて、その間に白い看板が見える。
 「指定医療忍機関」と読めない漢字の列の横に、一回り大きな文字で「ヤマメ医院」と書かれている。
 よじれたような形の椿の木があって、ジージーと蝉が一匹だけ鳴いている。そういえば、今年初めて聞く蝉の声だ。小さな門の奥に剥げかけたオレンジ色の木の扉が見える。わたしはそっと門の中に入っていった。



 玄関のドアの周りには色硝子がはめ込まれていて、古いけれどきれいな家だった。こんな古い家は今の木の葉では珍しい。ドアを開けて中へはいると、板張りの床に黒い皮の長椅子が並んでいた。
 奥へ続く廊下の手前にある受付には誰もいない。
 薄暗い廊下を進んでいくと、つきあたりに階段があって踊り場の窓から明るい光がさしていた。
 廊下の左側にドアがひとつ、あった。
 ドアは開いていた。のぞき込むと大きな木の机が窓際に置かれていて、白いカーテンで仕切られた部屋の奥には白いシーツを敷いただけのベッドがあった。
 中を見回してみたけど、だれもいない。
 ごめんください、と言おうとしたのだけど、やっぱりわたしの口からは声が出なかった。
 開いた口の奥で、喉の中でわたしの声は溜まり込んで出てこない。
 わたしは開きかけているドアを叩いた。
 トントン。
 もう一度。
 トントントントン。
「はいはい。聞こえておるよ」
 しわがれた声がして、部屋の奥のベッドの脇のドアから白衣を着たおじいさんが現れた。
 ぼさぼさの白髪頭で眼鏡をかけている。
 聴診器を首にかけているからお医者さんだとわかった。
 知らない大人の人を前にして、わたしはすごく緊張してしまったのだけれど、とにかくはたけさんを診てもらわないといけないと思って、それを伝えようとした。
 じゅうびょうにん。いえにきてください。
 わたしはぱくぱくと口を動かした。
 お医者のおじいさんは「ん?」と首を傾げて、わたしの方へ身を屈めた。
 じゅうびょうにん。はたけさんをみてください。
 繰り返して口を動かした。声が出ないのがもどかしい。わたしはなんども繰り返して、口を動かした。
「もっと、ゆっくりしゃべってくれんか」
 お医者さんは眼鏡をずらして目を凝らすような仕草をした。
 わたしはゆっくりと、一言ずつ区切って口を動かした。
「じゅう、びょう、にん。はたけ、さん、の、家、に、来て、ください」
 お医者さんは、ようやくわたしの口の動きを読んでくれた。
「病人がいるのか」
 うん、うん、とわたしは頷いた。
「今、用意しよう」
 お医者さんは机の下から黒い大きな鞄を引っ張り出して、肩に掛かった聴診器を仕舞い込んだ。それから机の引き出しから、いろんな道具を鞄の中に移した。
 わたしはドアの外へ出てから中を覗き込んだ。お医者さんが鞄を持って歩いてきたので、先に走り出すと、「待ちなさい。そんなに走らないで−−−」くれんかのぉぉ、と間延びした声が後に聞こえる。玄関のドアを飛び出して、後ろを振り返って少し待った。お医者さんは鞄を抱えて、ゆっくり靴を履いて、えっちらおっちら歩いてくる。
 お医者さんがついてくるのを確かめながら、わたしは商店街を走って、路地を曲がった。路地の入り口でまた少し待った。お医者さんが追いつくと、また走って、わたしの住んでいるアパートの塀の所まで行った。板塀の端っこの板戸を開けると、もう振り返らないでまっすぐはたけさんのいる縁台へ駆け寄った。
 はたけさんは水色のタオルケットから抜け出して、縁台の縁から落ちかかったように倒れていた。頭がぐったりと地面に向けて垂れている。近づくと、つん、と酸っぱいような臭いがした。
 縁台の下、地面の土にはたけさんの吐いたものが広がって浸みていた。
 はたけさんはぐったりとして、動かない。