わたしははたけさんを見下ろして立ち尽くした。こめかみのあたりから、すーっと冷たくなった。
 昔、こんな風になってしまった人がたくさんいた。わたしはそれを覚えている。
 その人達はみんな、どこかへ片づけられてしまって、もうどこにもいないのだ。はたけさんもこのまま動かなかったら、どこかへ片づけられてしまうかもしれない。
 木戸をくぐって、お医者さんがやっと庭に入ってきた。わたしははたけさんから目が離せずに立っていた。
 私の横からお医者さんは縁台に鞄を置いて、はたけさんを見た。
「これはいかんな」
 呟くと、ひょいと縁台に登った。
 倒れているはたけさんの脇に屈んで抱き起こすと、仰向けに寝かせた。まず口元に手を持っていって呼吸を確かめた。仰向けになると小さくだけど、はたけさんの胸が上下しているのがわたしにもわかった。
 動いている。
 とりあえず、ほっとした。
 それからお医者さんは、はたけさんの前髪を掻き上げて、閉じた目蓋を指で押し上げて目の中を覗き込んだ。わたしも一緒に覗き込む。はたけさんの額には汗の粒がびっしりと浮かんでいた。目蓋の間のほとんど白目になっている上の方に灰色がかった黒い目がぎょろりと見えた。
 少し考えて、お医者さんははたけさんの左眼の目蓋も押し上げた。傷がある方。目が開いたのでわたしはびっくりした。
 目蓋の下は塗りつぶしたように真っ黒だった。目がないのかと思ったけど、ちゃんと目の玉は入ってるみたいだった。濡れた真っ黒なガラス玉をはめ込んだみたいだった。真っ白い顔に、真っ黒な目玉のお化けみたい。無理に開かされた目からたらりと涙が流れた。痛いような、怖いような気持ちがしてどきどきした。
「はたけ…あの、はたけか?」
 お医者さんは小さく唸って、はたけさんの目蓋から手を放した。
「体が冷えてる。布団に寝かせよう」
 そう言ったけど、お医者さんは自分より背の高いはたけさんを持ち上げる事ができなかった。わたしにも無理だ。
 仕方がないから、部屋の中の座布団を集めて布団代わりに敷くと、その上にはたけさんを寝かせた。わたしはお医者さんと一緒に、さっき入った寝室に行って毛布を持ってきて、はたけさんにかけた。
「よく、こんな事はあるのかね?」
 お医者さんにきかれて、わたしは首を傾げた。
 あたまが、いたくなる。りんごじゅーすをのむ。
 昨日からのはたけさんの様子をわたしは説明した。
 どこかに、くすりが、ある。
 口をぱくぱくして伝えると、お医者さんは立ち上がって、部屋の中をきょろきょろと見回した。わたしも一緒にあちこちの引き出しをもう一度、開けてみた。
 寝室でお医者さんがベッドの脇の引き出しからくしゃくしゃの薬の袋と注射器を見つけた。袋の中には粉薬の袋と、細長いガラス瓶みたいなものが何本か入っていた。
「痛み止めか」
 細長いガラス瓶に書かれた文字を読んで、お医者さんが言った。
「こっちは血行を良くする薬だ」
 お医者さんは注射器と薬の袋を持ってはたけさんの所まで行くと、鞄から銀色のまるいケースを取り出した。中には濡れた脱脂綿が詰まっていて、消毒薬のにおいが、つん、とした。お医者さんは脱脂綿ではたけさんの腕を消毒して、それから細長いガラス瓶を、細くくびれたところから折って、中の薬を注射器で吸い取った。針の先を上に向けて、じっと見ながら注射器の空気を抜くと、お医者さんははたけさんの腕をとった。
 半袖のTシャツからのびたはたけさんの白い腕に、注射の針が刺さるのをわたしは自分が痛いような気持ちで見ていた。
「しばらく様子をみよう」
 お医者さんはそう言って、はたけさんの腕を布団の中にしまった。



「いっしょに住んでいるのは君だけか?」
 お医者さんにたずねられて、わたしは首を横に振った。
 わたしははたけさんと一緒に住んではいないし、ここにはうみのさんも住んでいる。
「家の人はどこにいるんだね?」
 うみのさんは仕事に行っている。
 お医者さんは少し考えてから、鞄から小さくたたんだ白い紙を取り出した。
 広げると鳥みたいな形をしていた。不思議な文字のような模様のようなものが墨で書かれていた。お医者さんはその紙に、一緒に鞄から出した短い鉛筆でなにか書き付けると、元通りたたんだ。
「家の人に連絡を取るから、どこにいるか教えてくれるかね?」
 わたしはちょっと考えた。うみのさんは忍者アカデミーの先生だから、きっとアカデミーにいると思う。
 にんじゃあかでみーにいます。
 わたしが口を動かすと、お医者さんは頷いて、たたんだ紙を窓から外へ放り投げた。
 空に向かって投げあげられた紙は、そのまま落ちてきそうになって、でも落ちる前に、羽を広げて空をすべって飛んでいった。
 わたしはぽかん、とそれを見上げた。
 忍者の人が使う式鳥だ。
 このお医者さんも忍者なんだ。
 わたしがお医者さんの顔をびっくりして見つめていると、お医者さんは不思議そうな顔をした。
「君だって忍者の家の子供だろうに。そんなに珍しかったかね?」
 わたしは答えずに、縁台に出て式鳥の飛んでいった方角を眺めた。あっちに忍者アカデミーがあるんだ。
 しばらく並んだ屋根の向こうを見ていたけれど、もう式鳥も見えなくなってしまったので、部屋に戻った。足下にさっき、わたしがはたけさんに渡した氷水の入ったビニール袋が落ちていた。氷はもう溶けて小さくなっていた。
「頭部は冷やした方がいい。水枕はないかな?」
 お医者さんが言った。わたしははたけさんの家のどこに水まくらがあるか分からない。わたしの家では洗面台の下に氷まくらが入っているけれど。
 わたしは庭に向いた窓から外に出て、自分の家に戻ることにした。
 わたしが縁台から飛び降りて、垣根を潜っていくと、お医者さんはびっくりして「どこへ行くんだ?」と叫んだ。わたしは答えずに自分の家に入った。
 洗面所の下の棚からだいだい色のゴムのまくらと、口をとめる金具を引っ張り出して、また垣根を潜ってはたけさんの家に戻った。
「お隣さんから黙って借りてきたのか!?」
 お医者さんはまだびっくりしたままだ。
 わたしは首を振った。
 これは、うちの。
 わたしのうちの。
 説明したけど、お医者さんはまだ首を傾げていた。
 わたしは水まくらを持って、はたけさんの家の台所に行った。冷蔵庫の上の扉を背伸びして開けた。氷のお皿を取ろうとしていたら、お医者さんが取ってくれた。氷をまくらの中にあけて、水を入れると、お医者さんはまくらの口を留め金でぱちんと閉じた。
 洗面所できれいなタオルを巻くと、お医者さんは水まくらを寝ているはたけさんの頭の下に敷いた。



 はたけさんは白髪なんだと思っていたけれど、お医者さんのぼさぼさの白い髪とはちがった。お医者さんの髪は太さの不揃いな針金みたいにぐねぐねとしているけれど、はたけさんの髪はつやつやしていて太さもそろっている。色もお医者さんの髪はちょっと黄色っぽい。はたけさんの髪は、アオの灰色の縞の白っぽいところみたいな色だ。
 若いのに白髪なんだと思っていたけど、猫の毛並みといっしょで生まれつきこういう色なのだろうか。
 きれいなガーゼではたけさんの額をふくお医者さんの横に座って、わたしはそんな事を考えていた。
 式鳥を飛ばしてから二十分くらいした頃、外の廊下を誰かの足音が近づいてきた。
 足音ははたけさんの家のドアの前で止まって、がちゃがちゃと鍵が鳴ってドアが開いた。
 うみのさんが帰ってきた。
「すみません、あの、」
 うみのさんは肩で息をしながら、靴を脱ぎちらかして大股で部屋へ入ってきた。
 わたしはお腹のそこから空気が抜けるように息をついた。
 よかった。
「あの、」
 うみのさんはわたしとお医者さんの顔を交互に見ながら、なにか言おうとしているのだけど息が整わないでいる。
 お医者さんはうみのさんの顔を見て、左側の襖の向こうの寝室を何度も見た。目がまん丸になっている。
 お医者さんは気を取り直したように、うみのさんに向き合った。
「お邪魔しとりますよ。わしはそこの通りのヤマメ医院の者なんだが」
 式を飛ばしたのは自分だとお医者さんは言った。
「この子が医院まで来て、病人がいるから診てほしいと言うから上がらせてもらいました」
 うみのさんは大きく頷いて、はあ、と息を吐くと、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「カカシさんは−−−」
「さっき、痛み止めの注射を打ったから落ち着いてきとる。木の葉病院から処方されたアンプルを使わせてもらった」
「はい、ありがとうございます」
 うみのさんはもう一度、頭を下げた。
「まあ、落ち着いて。座ったらどうかね」
「はい」
 うみのさんはお医者さんと向き合って正座した。
「よくこういう事はあるのかね?嘔吐や気を失うほどの痛みの発作が」
 うみのさんはぎゅっと顔を顰めて、ほんの少し斜め下へ目を向けた。
「月に一度ほど」
「木の葉病院から出されている薬を見るかぎり、偏頭痛か群発性頭痛のようだな。即効性がある薬だから十五分もすれば効いてくる。もう大丈夫でしょう」
「あの、」
 うみのさんは迷いながら口を開いた。
「月に一度、木の葉病院へ行くと発作が起こるようなんです」



 うみのさんは寝ているはたけさんを、自分も痛いような顔で見つめた。お医者さんは首を傾げながらうみのさんに尋ねた。
「病院へ行くと?」
 うみのさんは口を開いて、少しだけ迷ってから言った。目はずっとはたけさんの事を見ている。
「ただの検査だと本人は言っているんですが、なんらかの治療の副作用ではないかと−−−」
 お医者さんは卓袱台の上に置いた薬の袋を手にとって眺めた。
「これは一般には鎮痛剤として扱われているが、正確には脳の受容体に作用して血管を収縮させる薬だ。眼球の裏側の動脈を選択的に収縮させる」
「はい」
 うみのさんは頷いた。
「だが、こちらの粉薬は血行を良くするための薬だ。効き目は緩やかで日常的に薬湯で飲むような」
 お医者さんはうみのさんの顔を注意深く見ながら言った。
「薬で代謝をコントロールしているように思える」
「−−−木の葉病院に行った後は、ひどく気が高ぶるようなんです」
 思わずといった風に、お医者さんは寝室の襖に目を向けた。また、うみのさんの顔を見る。
 うみのさんもお医者さんの視線につられたように寝室の襖を見た。わたしもいっしょに寝室の方を見て、うみのさんの顔を見た。
 うみのさんは、お医者さんと私の顔を見て、それからはたけさんを見た。
 うみのさんと目が合った。
 ひゅっと、うみのさんは息をのんだ。それからみるみる顔が赤くなった。
「いや、まあまあ。二人とも男盛りだしな」
 お医者さんはそう言ってなだめるように手を振った。
 うみのさんはますます赤くなった。
 オッホン、とお医者さんが咳払いをした。
「わしはしがない町医者でな。中央の病院が何をやっているかまでは分からないが−−−あれが写輪眼か?」
 シャリンガン、とお医者さんは知らない言葉を言った。
「今はもう、ただの目です。視力はほとんどないはずです」
 お医者さんは腕組みをして重たく頷いた。



「治療というのは、目の治療かね?」
「いえ−−−彼は一度、チャクラを使い果たして、それからチャクラを練れなくなったんです。もちろん、中央の病院で様々な治療を受けました。でもチャクラは戻らなかった。だから退役して忍をやめました」
 チャクラを練れなければ忍術は使えないというのはわたしも知っている。この里の子供はみんな小さい頃に「てきせいしけん」を受けて忍者になれるかどうか確かめる事になっている。わたしもうんと前に受けた事がある。
「綱手様も手を尽くして下さって治らなかったものを、今更治せるものでしょうか?」
 うみのさんに訊かれて、お医者さんは腕組みしたまま唸った。
「さてなあ。チャクラが練れなくなるというのは経絡の流れが滞ったり、乱れが生じているという事だろうし、やはりこういった薬で気長に代謝を整えていくしかない、というのが大方の医者の見解だと思うが」
 お医者さんは粉薬の方を指差して言った。
「頭痛の原因は、憶測ではなんともいえんな」
 うみのさんはお医者さんの言葉に黙ってうつむいた。
「しかし、度々こんな事があるのでは不安だろう。あんたも働いているようだし、病人と子供だけを家に残している状況というのも心配だしな。娘さんもそろそろ学校へ上がる歳じゃろう?」
 お医者さんの言葉にわたしはどきっとした。恐る恐るうみのさんの顔をうかがうと、うみのさんは困った顔で笑って、
「いえ、娘ではなくて。この子はお隣の子なんです」
と言った。
 お医者さんはぱちぱちと瞬きをして
「ああ、そうか、そうか。わしゃ、てっきり…」
と焦ったように笑った。うみのさんはまた少し赤くなった。
 お医者さんは鞄から何枚かの紙切れを取り出して、何かを書きつけた。さっき、うみのさんを呼ぶのに使ったのとおんなじ鳥の形をした紙切れだ。
「これを投げればうちの医院に届くようにしたから、何かあったら呼びなさい」
 お医者さんは鳥の紙をうみのさんに渡して言った。うみのさんは頭を下げて、「ありがとうございます」と言った。