お医者さんが帰ると、うみのさんははたけさんのそばに座って、じっとはたけさんの顔を見ていた。
 はたけさんの顔はもう苦しそうではなかったけれど真っ白だ。
 うみのさんははたけさんの前髪をかきあげて、とても大切そうにほっぺたを撫でた。
 傷のある方の眉を指先で辿って、髪を梳いた。
 てのひらで痛いのを吸いとっているみたい。
 わたしはうみのさんの手がやさしく動くのを見ていた。そしたら、庭から「ナァーン」と声がして、アオが歩いてきた。
 さっき、アオがわたしを置いて逃げ出してしまったことを思い出してわたしはちょっと怒った。
 今頃、やっと戻ってくるなんて。
 はたけさんが大変だったんだからね。
 わたしはアオを叱ってやろうと思って縁台に出た。アオは縁台の下で地面のにおいをかいでいた。縁台の下の地面にははたけさんの吐いたものが広がっている。。
 さわっちゃダメだとアオを追い払おうとしたけど、アオは耳をうしろに倒して鼻をくっつけそうにかがみこんでにおいを嗅いでいる。
 わたしが縁台の下を覗き込んで、アオを追っ払おうと手を振っているとうみのさんが立ち上がってやってきた。
「ああ、吐いちゃったのか」
 うみのさんは地面に広がったものを見ると、つっかけを履いて縁台を降りた。庭の畑の畝をよけながら庭を突っ切り、隅にあるちっちゃな小屋の戸をがこがこと鳴らして引いた。はたけさんの庭仕事道具が入っている物置だ。古くて建てつけが悪いのか、いつも扉がなかなか開かない。
 うみのさんは苦労して戸を細く開くと、中に手を伸ばしてスコップを持ってきた。そして、はたけさんの吐いたあたりの地面を掘り返してきれいに埋めた。
「これで、よし」
 地面に突き立てたスコップに寄りかかってうみのさんは頷いた。縁台の下のそこだけ、湿った黒い土が盛り上がっている。
「ノドカ」
 うみのさんに呼ばれてわたしは顔を上げた。
「ありがとう。お医者さんを連れてきてくれて。すごく助かったよ」
 うみのさんは優しい顔でにっこり笑った。わたしは恥ずかしくなって俯いた。



 庭から部屋にはいると、はたけさんの様子をもう一度見てからうみのさんは「ご飯にしようか」と言った。
 わたしが部屋に入ると、アオも一緒に庭から部屋に入ってきた。
 アオは入っちゃダメ。
 わたしが外へ押しだそうとしたけど、アオはわたしの手をすりぬけて部屋に入ってこようとする。アオは大きくてつるつるの毛皮で、わたしの手の中に入りきらない。
 しばらくアオと押し合っていたら、うみのさんがひょい、とアオを抱き上げた。
「足をふいたら入っていいよ」
 洗面所にぞうきんがあるからと言われて、わたしははたけさんの家の洗面所へ入った。すみっこに青いバケツが置いてあって、ぞうきんが何枚か掛けてあった。わたしは一番きれいそうなのをえらんで持っていった。
 庭の水場で濡らして絞ると、うみのさんが抱っこしているアオの足を一本ずつ、きれいにふいた。アオは濡れたぞうきんがいやなのか、ばたばたと暴れたけれど、うみのさんはしっかりとアオを抱いていてくれた。
「ほら、もういいぞ」
 うみのさんが手を放すと、アオはぱっと逃げ出して、縁台の上の端っこまでいくと、せっせと足を舐めだした。うみのさんは笑って、立ち上がるとぞうきんを洗面所に持っていった。
 わたしは座って、アオが体中を舐めているのを見ていた。
 うみのさんは台所でお昼ご飯の支度をはじめたみたいで、ごそごと音が聞こえる。
 はたけさんは目を閉じたまま、毛布にくるまって動かない。
 少し心配になって、近くに寄ってみた。じっと見ていると、はたけさんの胸のあたりがちいさく上下しているのがわかって安心した。
 大股の足音がして、うみのさんが台所から戻ってきた。うみのさんはこっちを見ないでまっすぐ寝室へ入っていった。襖のむこうからごそごそと音がして「あーーー」とか「うーーー」とかうみのさんが言っているのが聞こえた。
 しばらくすると、真っ赤な顔でシーツを抱えたうみのさんが出てきた。また、こちらを見ないで真っ直ぐに洗面所に入っていった。
 洗面所からゴンゴンと洗濯機の回る音が聞こえてきた。
 それに混じって、うみのさんの唸り声がした。


 うみのさんが素麺を茹でてくれて、一緒に卓袱台で向かい合って食べた。
 はたけさんの庭で取れた胡瓜を薄く切って、うみのさんは素麺の鉢に浮かべた。
 うみのさんは鶏肉のそぼろと厚焼き卵も作ってくれた。卵焼きはちょっと焦げているけど甘い。
 アオがやってきて、自分も欲しそうに卓袱台のそばをうろうろした。ほうっておいたらだんだん調子にのって、わたしの膝に前足をのせて、伸び上がってわたしの食べている卵焼きにふんふんと鼻を鳴らした。
 さっき、はたけさんの吐いた地面の臭いを嗅いでいた鼻先を近づけてくるから、わたしはお箸を持っていない方の手でアオを押しやってどかせた。なのに、またアオはわたしの口元に鼻を近づけてくる。座っているわたしと、伸び上がったアオの顔はちょうど同じくらいの高さになる。わたしが身を捩ってアオから逃げようとするのに、しつこく迫ってくる。
 うみのさんが卵焼きを一つ摘んで、床に置いた新聞紙にのっけた。
「ほら」
 うみのさんに呼ばれて、アオはそっちに寄っていった。まだほかほか湯気の立っている卵焼きに鼻を寄せてにおいをかいで、くしゃん、とひとつくしゃみをした。
 うみのさんが笑う。
 猫舌のくせにアオはまだ熱い卵焼きを、かふかふと音立てて食べ始めた。
 わたしとうみのさんもまた素麺を食べ始めた。
 お箸で麺をすくうたび、ガラスの鉢の中で氷がからころと音を立てた。
 遠くで蝉が鳴いている。まだそんなにたくさんの声じゃない。
 いつのまにかお日様の光が強くなっていて、窓から差す光が当たっている畳の上は熱そうだ。わたしとうみのさんのいる部屋の中はひんやりして静かだった。
「せんせい」
 小さくかすれた声がした。
 うみのさんは、さっと振り返ってはたけさんのそばに寄った。
「起きたんですか」
 はたけさんの顔を覗き込んで静かに言う。
 はたけさんに掛かっている毛布の端が日にあたって、温かいにおいがしている。
「あの、ね」
 はたけさんは小さな声で、恥ずかしそうに言った。
「俺、縁側に−−−」
 うみのさんはにっこり笑って、はたけさんの髪を梳いた。
「大丈夫。もうきれいに埋めてしまいました」
 それから、
「いい肥料になりましたよ」
と言った。
 はたけさんは「先生のバカ」と拗ねたように言うと、毛布に顔を埋めてしまった。頭を撫でるうみのさんの手を握ったまま。
 うみのさんは、ははは、と声を上げて笑った。