「失礼します」
声を掛けて医務室の戸を潜った。
室内に担当の医務官はいなかった。開いた窓から初夏の風が白いカーテンを揺らしている。机の上に走り書きのメモがあり担当者の不在を告げていた。窓辺に提げられた小さな鳥篭には鳥の姿をした緊急用の式が飼われているが、伝令を飛ばして呼び戻すほどのことはないだろう。
イルカは肩に支えた男の重みを感じながら部屋の中央までゆっくり進んだ。治療器具ののった机の傍らの丸椅子に男を腰掛けさせ、自分も向かい合ったスチール椅子に腰掛けた。
扉越しに廊下の気配を探ったが、どうやらナルトは任務に向かったようだ。
ほっと息をついて、男に向き合う。これまた自分にとっては厄介事の種のような人物だが怪我をしていることに気が付いては放ってもおけなかった。
「診せてください」
イルカが言うと男は素直にベストのジッパーを下ろし、黒い忍服の腹を捲り上げた。
脇腹に痛々しい打撲の痕、赤みを帯びた箇所が青黒く変色し始めている。
「少し我慢してくださいね」
男の脇腹に手を伸ばし、指先で肋骨を辿り骨に異常がないか調べる。さすがに上忍というべきか、男は呻き声一つ上げない。
「骨に異常はないみたいですね。とりあえず湿布しますから後でちゃんと病院に行ってください」
手馴れた様子でイルカはてきぱきと処置を施していく。教師は基礎的な医務処置を習得する事になっているしアカデミーでは子供達の生傷が絶えないので慣れてしまった。
男は黙ってイルカのするに任せている。
男はつい二ヶ月ほど前に長期遠征から里に帰って来たばかりの上忍だった。彼自身は何も話さないが受付所勤務の者には任務遂行可能な人員の情報はおおよそ入ってくる。受付所に姿を現すようになったのは一ヶ月ほど前からで、何故かイルカに絡んでくる。
ままあることではあった。
長期任務に限らず、任務帰りの忍達は気が立っている。荒んだ前線の空気を纏いつかせたまま下卑た言葉を掛けられることも少なくはない。
それも仕事のうちとイルカや他の同僚達もいちいちそれを相手にはしない。
任務を終えて報告所であんたの顔を見るとほっとする、そんな言葉を掛けられる事もある。
いい意味でも悪い意味でも受付勤務の者は目に立つ。
目の前の男が妙に自分に絡んでくるのもそのせいだ。
「足も、診せてください。傷めてるでしょう」
男は不機嫌そうな顔つきのまま、左足のゲートルを巻き取るとズボンの裾を捲り上げた。
差し出されたその足に、一瞬イルカは息を呑んだ。
数箇所、肉を抉り取った痕が残っていた。それは古い傷のようで引き攣れた白っぽい皮膚に覆われていたが痛々しく無残に見えた。
「汚い足だろう」
男が口を歪めて笑った。
イルカは眉根を寄せきゅっと唇を噛んだが出来る限り平静な声を出すよう努めた。
「毒ですか?」
「ああ、血清が間に合わなくてな」
男はふいと顔を背けて視線を窓の外へ向けた。何か見ている素振りをするが宙に視線を泳がせているだけだと分かった。
イルカはそっとその足首に手を這わせた。
「捻ったんですね。痛みますか?」
「そうでもない」
受付所に入って来た時から男の足取りがおかしい事には気がついていた。
「上忍の方はなんでも自分で判断してしまうし、我慢強いですから。でも怪我をした時は手当てを真っ先にしないと」
イルカはテーピングでしっかりと足首を固定して包帯を巻いた。
「痺れがが残ってて今でも思うように動かないんだ。そのせいでこんな怪我…」
クソッ、男は小さく毒づいた。ぎらついた双眸がイルカに向けられる。
「あんた達受付も気が付いてるんだろう。上忍の癖にBランクやCランクの任務しか受けねえって」
男の気配が剣呑さを含み始めてイルカは気を飲まれる。
「近いうちに降格される。そのために呼び戻されたんだ」
バンッと男が拳を机に叩きつけた。
机の上の物が音を立てて跳ね上がり、薬の入った小瓶が転がる。イルカの体にもぎくりと緊張が走った。
男から発せられるプレッシャーにイルカの背中に嫌な汗が滲む。任務帰りで怪我をしているというのに大したチャクラだ。
俯き処置を続けながらイルカは相手を刺激しないで落ち着かせる言葉を探す。上忍の位まで駆け上がった男だ。プライドはひどく高いに違いない。
「あんた、なんでのこのこ俺の後を追ってきたんだ。嫌がってる振りしてほんとは期待してんのか?」
「馬鹿な事を…」
「今ならまだあんたよりも階級は上だからな。命令したらあんたをヤれるのかな」
ハスキーな声が上擦って聞こえる。耳元で囁かれてイルカは眉を顰めた。
「今は任務に就いているわけではありませんし、あなたは直接の上官ではありませんから私に命令に従う義務はありません」
極力、落ち着いた声を出す。巻き終らない包帯がもどかしい。
「安そうな面のくせにお高いこと言うな」
男が卑しい笑いを漏らす。その声が----。
イルカは顔をあげ、男の目を覗き込んだ。
一瞬、男の表情に戸惑うような色が浮かんだ。無造作に掻き揚げられた前髪の下の顔は長い年月の間に積み上げられた疲労が滲んでいるが、青みを帯びた澄んだ白目は意外に男が若いのではないかと思わせた。
真っ直ぐ覗き込んだイルカに男は実に嫌そうな表情を見せ吐き出すように言った。
「あの小僧もたらしこんでんのか?凄い目で睨んできたよなあ、ガキのくせに」
ナルトの事を持ち出されてイルカの頭にカッと血が上った。
「あいつはそんなんじゃない!やりたいんなら花街にでもどこにでも行けばいいだろう!」
気が付いたら叫んでいた。
マズイ、そう思った時には椅子の足が蹴り払われイルカは床に身を打ち付けていた。咄嗟に受身は取ったがじん、と背中と肩に痛みが走る。視界のぶれが止まった時には男の体が自分の上に圧し掛かっていた。
反応速度が自分とは段違いだ。
クソ、怪我なんて放っておけばよかった。
思うが今更だ。
怒りでどす黒くなった男の顔が間近で喚いている。
「汚いものを処理班に回すみたいに俺達を扱うんじゃねえ!自分達だけお綺麗な面してヘラヘラ笑いやがって…!!」
男の高く掠れた声が耳障りな響きを残す。それはまるで-----
「うぁっ…!」
いきなり荒っぽく体を探られてイルカは身を捩った。ベストごと上着を引き上げられ固い布地が喉元に食い込んだ。露わになった白い腹をがさついた男の手が這っていく。
「オヅノ上忍…!」
イルカは男の名を呼び、なんとか行為を思いとどまらせようとしたが男の手は好き勝手に腹から胸を這い回り、固い掌が胸の突起を擦り上げた。その感触より憤りに目が眩んだ。
「こ、のっ…」
イルカは男の胸倉を掴み寄せて思い切り男の額に自分の額を打ちつけた。
がつりと額当て同士がぶつかって鈍い衝撃が頭部を揺らす。
傷に痛みが響いたらしい、男はイルカの上で呻いて腹部を押さえ体を丸めた。
「腹いせにやられるのはご免だって言ってんだよ!!」
男の体を膝で押しのけ肘で這いずってイルカは男の体の下から逃れた。
「あんた、手ぇ早ぇえなあ」
男の掠れた声が笑いを含んでイルカの耳に届いた。
床に頬を擦り付けて男はくっくっと低い笑いを漏らした。
どっちがだ、声を荒げたイルカの足首を大きな手が掴んで引き摺り寄せようとする。
抗うが凄い力だ。ずるずるとすぐにまた男の体の下に敷きこまれ腕で喉元を押さえつけられた。喉仏を押されて、ぐぅと喉が鳴る。
苦しげに歪むイルカの顔を男が覗き込んでくる。気道を圧迫されて生理的な涙が視界をぼやけさせた。
横隔膜が空気を求めて胸を喘がせるが、塞がれた喉は呼気を通さない。
男はイルカの顔を見下ろしている。
本気で殺されるんじゃないかと思った。
ばたばたと抗う手足から力が抜ける。
だめだ、ここで気を失ったら…朦朧としかかったイルカの体の上で不意に男が身を起こした。
喉の締め付けを解かれイルカは大きく息を吸い咳き込んだ。
男はじっと扉を伺うように見ていたが
「邪魔が入ったな」
呟くと機敏な仕草で立ち上がりイルカを置いて医務室を出て行った。
イルカは床に蹲ったまま荒い息をついた。暫くしてようやく呼吸が落ち着くと息苦しさに滲んだ涙を拭い、机の上のちり紙を一枚抜き取って鼻をかんだ。
「はー…」
這いずるように椅子に腰掛けぽいと丸めたちり紙をゴミ箱に放り込む。
酸欠のせいで頭がぼうっとする。
窓からの風が熱くなった顔を冷やし、水っぽくなった目やら鼻の奥やらを乾かしてくれる。風に吹かれながらイルカはぼんやりと医務室の椅子に座っていた。
しばらくそうしていたがふと、開きっぱなしだった戸の向こうから自分を見ている小さな存在に気が付いた。
「ああ、おまえが助けてくれたのか…」
茶色い毛並みの犬がちょこりと医務室の扉の陰に座っていた。首輪代わりに木の葉の額当てを巻いているから誰かの忍犬なのだろう。完全に気配を殺していたところを見るとかなり優秀な犬だ。
「お使いか?ご主人様はどうした?薬とか頼まれたのか?」
イルカは笑って声を掛けたが忍犬はただ黒々と潤んだ目をイルカに向けてくるだけだった。
その眼差しに何故か安堵を覚えてイルカは微笑んだままその犬の姿を眺めていたが、犬は言い付かった用事があったわけでもないらしくひょいと腰を上げると音もなく歩き去った。
背中に着せ掛けた布にへのへのもへじが描かれていた。誰の忍犬だろう。犬の後姿を見送って、はっとイルカは我に返った。
「やべ、受付ほったらかしてきちまったんだ」
慌てて仕事に戻るイルカを廊下の端からやはり小さな影は見守っていた。