イルカのアパートの窓に灯りが灯っているのを確認してナルトは軋みを上げる古びた鉄の階段を駆け上がった。
「イルカせんせー!」
イルカのアパートのドアのチャイムをビービー鳴らして、ナルトは呼んだ。
すぐにイルカがドアを開いて顔を出した。
「ナルト…」
玄関先に立ったナルトにイルカは眉間に皺を刻んだ。
「おまえ、昨日は------」
「先生、これ、これ、あのさ、今日さ、」
ナルトは靴を脱ぐのももどかしくイルカの部屋に上がり込んだ。押されるようにイルカも後ずさって狭いキッチンの奥の居間へと移動する。
興奮気味に迫ってくるナルトは、己の体の大きさを自覚せずにじゃれついてくる大型犬のようだ。
「おい、ちょっと落ち着けって、俺はおまえに言っとく事がある」
卓袱台の前に正座したイルカの前にナルトも両肩を押さえつけられて座らされる。
「おまえ、あの後五代目のところにも行ったそうだな」
「あ、うん」
こっくりナルトは頷いた。イルカとは昨日、拳骨を貰って受付所を飛び出したきりだった。
「五代目は今日、わざわざ受付所までいらして受付業務の様子を見たいからと受付机に一日座っていて下さったんだぞ」
あたしも最近、執務室に篭ってばかりで依頼主達の顔も拝んじゃいなかったからねえ、と。
「なんだ、五代目もやるときゃやってくれるんじゃん」
昨日、ナルトが意見した時には流してたけど、一応心配はしてくれたらしい。
「馬鹿」
ナルトの悪びれない様子にイルカは怖い顔をした。
あ、叱られる。ナルトは思わず首を竦めた。これは教室でよく見せられたおっかない顔だ。
むっつりと腕を組んでイルカの説教が始まる。。
昨日、何気なく横に立った綱手に「最近、どうだい?」と声を掛けられ、「最近はDやCの小さな任務が増えてきました。平和になってきた証拠ですね」とイルカは笑んで答えた。その顔を綱手はじっと見つめてきた。
なんだろうと思っていたら「おまえを信頼していないわけじゃないんだけどね、依頼主の事でも他の事でも手に負えないことがあったらすぐ上役か、あたしに相談しな」と優しく微笑まれた。
ナルトは「ばあちゃん、ばあちゃん」と懐いているが、正直、イルカには五代目は三代目と違って、遠い存在の印象があったから意外な気持ちになったし、人は変われどやはり火影は火影なのか、一人一人の忍達を見守ってくれている存在なんだとじんわり染み入るような心地もした。
が、それも後でお付の書記官にナルトが怒鳴り込んできて----と聞かされるまでの話だ。
「五代目はお忙しいんだ。それをわざわざ受付所にまで足を運ばせて、それが俺のためだったなんて、しかもよりにもよってお前はなんつーことをっ------俺は顔から火が出たぞ!!」
卓袱台をばんっと叩き、その時の心地を思い出したのかイルカは叩いた手にそのまま額を押し付けて突っ伏し、うぐぐぅと唸り声を上げた。
耳や首まで真っ赤にして悶えているイルカの括った黒髪の房を見下ろして、ナルトは困惑しつつ「ごめんってば」と低く言った。
イルカはフルフル肩を振るわせつつ、深呼吸してなにやらやり過ごそうとしているようだ。
「---------まあ、いい。今後は絶対にあんな事は、」
「でも、もう大丈夫だってばよ!俺、いい事教えてもらったんだってば!」
顔を上げたイルカにナルトが得意げに小さな箱を突き出した。
「あ?」
「これこれ、これをさ、」
そう言いながらナルトは白い包装紙をバリバリ破いて、深い青いビロードの箱を取り出した。そしてそれをパカリと開くと更にイルカに詰め寄って突き出した。
「左手の薬指にはめとくんだって。そしたら変な奴が寄ってこないんだってば!」
イルカは呆気に取られて目の前に突き出された箱を眺めた。箱の中には布のクッションに半ば埋もれたように銀色のリングが一つ。その向こうには得意そうな元教え子の顔。
額宛をはずすと金色の髪がさらりと額を覆って、その下の悪戯っぽく輝く青い目と相まって幼い印象になる。美形とは言わないかもしれないが、幼い頃からナルトは可愛い顔をしているとイルカは思っていた。
その顔が無邪気に笑って、笑うとちょっと馬鹿っぽい所がまたイルカは好きなのだが、その手の中に大人びた深い青の小箱を持って、玩具にしては高価すぎる銀色の指輪を差し出している。
子供っぽい笑顔が、恋人に差し出すような指輪を得意げに。
「ばっ…」
馬鹿かーーーーーーーー!!
イルカの怒声が隣近所一体にこだました。
「どうしたんだ、こんな高価なもん!」
「どうしたって、買ったんだってば」
「馬鹿!返して来い!!」
ええー、イルカのあまりな言葉にナルトは不満の声をあげた。
「ええー、じゃない!おまえ、こんな無駄遣いして…っ」
一体、何のために任務に出したんだか、火影様ゴメンナサイ、俺の教育はまだまだです。頭を抱えたイルカがブツブツ呟くのをナルトは唇を尖らせて見下ろした。
「なんで馬鹿なんだよ。全然無駄遣いじゃないってば」
サクラと二人で一生懸命選んだのだ。
イルカが恥知らずな連中にちょっかいかけられないように。
イルカを好きでもない奴らが、汚い心でイルカに触れたりしないように。
「はめてくれってば、これ」
「はめられるか、そんなもん!」
「いいから!」
ナルトは箱から指輪を取り出してイルカの左手首を掴んだ。胸元に引き寄せて無理矢理、左手の薬指に指輪をはめようとする。
そうはさせまいとイルカは左手で拳を作り、右腕で突っ張ってくる。
「も、大人しくしてくれってば!」
「馬鹿もん!教え子からそんなもん貰えるか!そういうことはもっと大人になってから恋人にだな…」
「いいんだってば!!これはイルカ先生にしてて欲しいんだってば!!じゃないと、また---」
「だから、おまえがそんな心配する必要はないっつってんだろ!!」
右腕でぐいと強く押されて、ナルトもムキになった。イルカの左腕を掴んだまま、指輪を持った手で右腕も捻り上げる。両腕を押さえ込もうと体重をかけたら、勢いが余って二人は畳の上に転がった。
イルカが驚いた顔をする。
イルカの体に圧し掛かった姿勢になってナルトも驚いた。
え?と思う。
この人、こんなに-----
いつも、駆け寄って跳びついて、頭をグリグリ押し付けて、それをしっかりと受け止めてくれた体。
それがこんなに簡単に組み敷いてしまえるものだったなんて。
両手首を床に押さえつけられて開いた胸が大きく上下するのが伝わってきてナルトはどきりとした。
「どけ」
低くイルカが言った。
ナルトは動けない。手を離せない。自分の腕の中にイルカがいる。
自分をすっぽりと腕の中に包んでくれた人が、いつの間にか自分の腕の中に入ってしまうようになっていた。
どうしよう。どうしよう。
頭の中はぐるぐるするのに、イルカを押さえ込んだ腕は固まったまま動かない。
動揺するナルトの顔をイルカの黒い目が真っ直ぐに見上げてきた。
「見てたんだよな、一昨日の。おまえずっと様子がおかしかったもんな。だからそんな事考えたんだろう?」
ごくりとナルトは唾を飲み込んだ。一昨日の、男に押さえつけられ唇を塞がれていたイルカの姿が、目の前のイルカと重なる。
「あんなのふざけてただけだ。別に心配するような事じゃないんだよ」
なんでもない事のようにイルカは言った。
「まあ、おまえはまだ子供だからビックリしたかもしれないけどな、俺らくらいの歳の忍ならあんなの----」
ナルトはイルカの腕を掴んだ手にぎゅうっと力を込めた。痛みにイルカが顔を顰めた。子供といわれてムッとしたわけじゃない。イルカが大人の、先生の顔をしていることがナルトの胸を苦しくさせている。
「ナルト、手を離しなさい」
静かに、だがきっぱりとイルカは言う。
ナルトは強張った手を引き剥がすようにして身を起こした。
ふうと息をついて、イルカも起き上がって胡坐をかくと手首を擦った。
「馬鹿力」
イルカに言われてナルトはむすっとそっぽを向いた。
手は離したけど納得したわけじゃない。
「俺にマウントポジション取られるようじゃ先生、忍として情けないんじゃないの?」
「ばかやろう、おまえ相手だから手加減したんだよ」
「ホントかよ」
「------おまえは、いつから、そんな生意気な口をきけるように、なったんだ」
不貞腐れたほっぺたを両手でぐいぐい引っ張られてナルトは痛い、痛いってば!とジタジタ暴れた。
「もー、どーでもいいから指輪ははめてくれよ。お守り代わりだってば」
「んなもんしてたらますます女にもてなくなるだろが」
「あ、そっか。」
ケロリと答えたナルトの頭にまたもや拳骨が落とされた。
「そこで納得すんな!」
「い、今のはカンペキ私情じゃねえの!?」
教師のくせに!体罰反対!ナルトがギャーギャー言ってイルカが開き直って、結局イルカは指輪を受け取らなかった。
ケースごと手の中に押し込まれて、すぐ店に返して来いとイルカの家を追い出された。
「ちゃんと返品してこない限り、うちには入れないからな」と念を押された。
「なーんだよ」
すっかり暗くなった空を仰いでナルトは溜息をついた。
ポケットに指輪の入った小箱を突っ込んで地面を蹴り蹴り里の中心街へ向かった。ナルトの家は里の中心街に近いから帰る途中に寄れるだろう。
先刻まではドキドキするような宝物だったそれを、今はポケットに突っ込んだ手の中で持て余す。
こんな高価なものを自分で買ったのは初めてだった。
イルカのために、そう思って奮発したのに。
とぼとぼ、歩く。
イルカを守ってくれるもの。受け取ってもらえなかった。イルカ先生は強情だから。それに貧乏性なとこもあるもんな。
おまえが心配する事じゃない、そうイルカは言ったけどナルトはますます心配になった。
自分の腕の中に収まってしまったイルカ。
あれじゃあ上忍相手になんてとても抵抗しきれないんじゃないだろうか。そう思うといてもたってもいられなくなる。
自分が見張っているのはダメで、受付業務もやめないと言う。指輪もダメ。
「どうすりゃいいんだってばよ」
途方に暮れたまま、ナルトは木の葉の繁華街に足を向けた。夜なのにこのあたりは昼よりもよほど明るい。色とりどりのネオンや電光がちかちか光ってそぞろ歩く人々を照らしている。
宵の口、酔客たちが街に繰り出す時間だ。
ナルトはポケットに手を突っ込んだまま立ち止まってぼんやりと人々の流れを眺めた。
たくさんの人がいて、その一人一人に家族や友達がいて、その人が傷ついたら悲しむ人がどっかにいるんだろう。
ずっと自分にはそんな人はいなかった。
イルカが初めてだった。
あの時、自分に注がれた涙をナルトは忘れていない。
だからナルトも誰かのために、サクラやサスケや他の仲間達のために悲しんだり怒ったりする。
こんな気持ちを自分に教えたのはイルカだ。
だからもう寂しがったり不安がったりしない。
漂うように流れてゆく人々の中に、たとえ誰も見つけられなくても。
ぱちりとナルトは目を瞬いた。
電光の看板や提灯の赤い光の中に佇むひょろりとした人の影。
見間違うはずのない、ずっと見上げてきた猫背の背中。
あ、と息を呑みナルトは叫ぶと同時に駆け出した。
「カカシせんせーー!!」