また雨がぱらつきはじめた。
 帰りましょうか、と声を掛けて小雨の中、二人で家路についた。
 イルカの少し後ろを歩きながら、濡れて重たくなった黒髪が首筋に張り付くのを眺めていた。
 人間は血と肉と骨だ。
 それだけに過ぎない。
 なのに一人だけを特別に思うのはどうしてなんだろう。
 イルカの体から匂った血の匂い。
 時折、カカシはイルカの体が血と肉と骨でしかないことがたまらなくなる。
 肉は裂け、骨は砕ける。そんな脆弱なものでイルカが構成されている事が不安になる。触れたことがないから尚更。
 人の縁の薄い子だ、と自分を哀れむように見たのは暗部時代の上官だ。父もオビトも先生も、そしてまた部下の三人はカカシを去った。先の三人の死は、大戦中だったこともあり仕方のないことと今ならば思えるけれど、サスケやナルト、サクラが去ったのは正直、こたえた。自分には人を繋ぎ止めておける力がない。
 柔らかな体をすり寄せて、か細い声で鳴く小さな生き物。触れればときときと脈打つ音まで聞こえてくる。それらは一時、カカシの傍らに蹲り温もりを分けて、そうしてすぐにいなくなる。
「明日の朝は早いんでしょう」
 前を歩くイルカが言った。
「はい」
「風邪を引かないように気をつけて下さい。北の国境はまだ寒いですから」
 ぽつぽつと掛けられる言葉に、はい、はい、と頷きながらカカシは歩いた。雨の中をしっかりとした足取りで歩んでいくイルカの背中に縋り付きたいような気持ちになった。
 この人が自分のものになってくれたらどんなにいいだろう。雨に濡れ凍えた指先を伸ばすことが出来たらどんなにいいか。
 不意にカカシは暗がりに光る獣の眼にはっと足を止めた。
 演習場の緑を抜け、町中に差し掛かっていた。
 灯りを落とした商店のガラス戸に自分が映っていた。
 雨にそぼ濡れ、腹を空かせた野良犬のような顔をしている。なんて顔をしているんだろう。そんなにイルカが欲しいのか。暗がりの中で鏡面と化したガラスの中で、物欲しそうな自分が突っ立っていた。
 ふと視線を感じて眼をやるとガラスに映ったイルカと眼があった。
 視線が絡んだ瞬間、イルカは眼を泳がせた。
 それだけで分かってしまった。
 −−−−−−−−−バレてる。
 天啓のようにかつての閨房術の師の言葉が胸中に閃いた。
『真っ直ぐ相手を見て話す人は嘘をついているのよ』
 イルカは気がついている。自分がどんな目でイルカを見ていたか。気づかないふりをしていたのだ。嘘をついていたのだ。気がつかないはずがないだろう。こんな、動物の雄が発情期に物欲しげに雌の周りをうろつくような目をしていれば。ああ、だが、あんなに真っ直ぐに曇りのない瞳で自分を見上げたこの人が!?
 こういう場合は、狼狽えないことが大切だ。
 素知らぬ顔をするか、出来るならば開き直って更に相手を舐めるように見てやればいい。知っていたくせに素知らぬふりをし続けてきたなんて意地が悪い。中忍のくせに、上忍を馬鹿にしたのかと、状況を逆手に取って口説き落とすところまでいければ合格だ。
 そうでなければ、この居たたまれなさをどうしようもないではないか!
 −−−だが、しかし、カカシはそのうちのどの行動もとれなかった。
 ただ俯いて、覆面と額宛から唯一のぞいた右目の縁と耳朶をじんわりと朱に染めた。
 恥ずかしかった。
 耳元でこめかみの血管ががんがん鳴っていた。
 ガラスの中でイルカも俯いていた。
 暫く、二人して薄暗く曇った雨空の下、ガラスに映る互いの視線を意識しながら立ち尽くしていた。
「カカシさん」
 先に口を開いたのはやはりイルカだった。カカシは足下から目を上げ、隣に立つ本物のイルカの顔をようやく見た。カカシにつられたのか、イルカの顔も赤かった。
「気をつけて行って下さい」
 俯いたままそう言ったイルカに、カカシはのぼせた顔で「はい」と言うのが精一杯だった。
「あなたが強いことは知っていますが、心配です。俺なんかに心配されても鬱陶しいだけかもしれませんが」
 それから逡巡するように視線を揺らめかせてイルカは呟くように言った。
「あなたに憧れて遠征任務を希望した中忍も多いんですよ」
 言ってから、イルカは片手を自分の口へ持っていった。言ってしまったことを悔やむように。
「はい」
 イルカが何を言いたいのか汲み取れないまま、惰性のようにカカシは答えた。ガラスの中のイルカがキッとカカシへ鋭い視線を投げてきた。
 暗いガラスの中からイルカの瞳に射抜かれてカカシの胸は高鳴った。なんて目で見るんだろう。炙られるような視線がカカシに注がれていた。まるでさっきまでの自分がイルカに注いでいたような、それよりも更に熱をはらんだ揺るぎのない視線だった。
「カカシさんは−−−」
「イルカ先生、こっち見てください」
 カカシは隣に立つイルカに呼びかけた。
 イルカの横顔に血の色が昇っている。滑らかな浅黒い肌が雨に濡れながら熱くなっているのを確かに感じた。ゆっくりと首を巡らし、イルカは決まり悪げな表情をカカシに見せた。自分が映っていることを確かめたくてカカシはイルカの目を覗き込んだ。
 黒い瞳の中でもひときわ黒く艶やかな瞳孔が濡れたように光って、カカシへ訴えかけてくるものがある。
 言葉にしなければ伝わらないと人は言うけれど、言葉よりも雄弁に直接的に肉体が発するサインがある。イルカが完璧に隠し続けてきたサイン。イルカはカカシよりも余程、忍び然としていたらしい。
「俺だけですか?それとも誰にでも、そんな目を向けるんですか?」
 カカシの視線を感じたのか、イルカが言いにくそうに尋ねた。
「俺が他の奴をこんな風に見ていたことがありますか?」
 カカシは逆に問い返した。イルカは意地が悪い。カカシがどんな眼でイルカを見つめていたか気がついていたくせに、そんな事を訊くなんて。
「知りません。俺があなたと接するのなんて週に何度か、あるかないかじゃないですか」
 イルカのいない所で、誰と何をしているかなんて知る由もないとイルカは投げつけるみたいに言った。
「あなたに憧れてるくノ一だって沢山いる」
 さっき言いたかったのはこのことか。遠征任務で同じ部隊になったあのくノ一を気にしているのか。あんなの、ちょっと名の知れた上忍が上官になってキャーキャー騒いでいるだけじゃないか。
 イルカはそんな事を気にするのか。カカシが受付所で仲良さげに話しているイルカと同僚の姿を気にするように、イルカもカカシと同じ部隊に組み入れられたくノ一の名にやきもきしたりするのか。
 自惚れてしまいそうだ。
 なんにも言っていないのに。言われていないのに。
 雄同士でそんな事、と眉を顰めるか気味悪がられると思っていたのに。
 けれど言葉にするのはやはり躊躇われた。
 許されていないと感じてしまうからだ。
 どこの誰がカカシを許さないのかは分からない。
 だが、怒ったように目の縁を赤く染めカカシをじっと見つめているイルカが自分のものであればと虫の良いことを思っている。
 カカシはぎゅっと眉間に皺を寄せ、眉尻を下げた。笑いかけようとして失敗した。
 イルカは唇を噛むと目を伏せた。逸らされたイルカの黒い目をカカシは惜しんだ。
 春、鳴き交わし赤く染まった胸を見せつける鳥のように見交わし合い、それでどうすればいい。獣のように体を重ねればいいのか。
 そんな事、したいに決まっている。
 だけど一番欲しいものには触れてはいけないのだ。
 どうしてだ。
 だって、オビトが。
 オビトはリンに触れられなかったのに。あんなに好きだったのに。だぶついた袖からのぞく小さな手ではリンを抱きしめることも出来なかったのだ。
 手首に熱を感じてカカシはびくっと肩を揺らした。
 イルカの手が濡れた手甲の上からカカシの手首を握っていた。雨の滴るイルカの指はそれでも熱く、悴んだカカシの手を温めた。
 カカシは詰めていた息を吐き出し、イルカの肩に額を押しつけた。顔を隠した布越しにイルカの頬に頬を摺り寄せた。
 気をつけて行ってきて下さい、ちゃんと帰ってきて下さい、誰彼構わずそんな顔見せちゃだめですよ、耳元で囀るイルカの言葉にカカシは言葉を忘れてただ頷いた。
 ぐっしょりと二人を濡らして降る暖かい雨は既に初夏のものだというのに、求愛の歌を歌うにはまだカカシは未熟だった。




おしまい